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2009年11月8日 - 2009年11月14日

2009年11月13日 (金)

新政府行政デザイン第3弾「事業仕分け」

 mizzさんから、ふたたびエールを送られて、少し頑張らねばと思っている。

 来年度予算編成の無駄を省くために新政権の行政刷新委員会が行っている、「事業仕分け」はなかなか痛快である。各省庁の官僚達にとっては、なんでこんな短期間で素人の連中に一方的に決めつけられるのか、と頭に来ていることだろうが、自民党政権による積年の腐りきった政治家と官僚の関係や、行政の中身を全部洗い出すためには、ある程度仕方がないことだと思う。しかも官僚主導ではなく、民間人を入れたところも良いと思う。この事業仕分けのやり方に対して麻生前首相がTVで「民間人が入ってああいう重要なことを決めていくとはいかがなものか。何の資格で彼らは参加しているのか」と非難していたが、この非難そのものが自民党の連中の「どうしようもない頭の古さ」を象徴しているので、見ていておかしかった。

 菅さんも言っていたが民間人も入れて公開であのような各省庁の事業仕分けを行うと言うことは、まさに画期的なことだと思う。これは日本の政治史に残る出来事と言って良いだろう。問題は、これらの行政刷新で絞り出した予算の無駄を、来年度予算にどのように再編していくか(これがホントの行政デザインである)だが、そこはまだ見えてない。

 今日13日の金曜日にオバマ大統領が初めて公式に日本を訪問する。アフガニスタン問題で新政権がどのようにアメリカに対応するのか、見物である。少なくともインド洋での自衛隊によるアメリカ軍への給油という一方的にアメリカの立場に立った支援は中止になったので、それに代わる「国際貢献」の方法が議論の対象(といってももう水面下ではほとんど決まっているのだろうが)になるだろう。要は、アフガニスタンの人々の目線でものごとを考えなければいけないのであって、アメリカの目線でアフガン問題をとらえてはいけないのだ。イスラム教の国に軍靴でどさどさと踏み込んで、タリバンを山賊のような賊と見なし銃で撃退するという方法は、どう考えてもアフガニスタン人自身の目線ではない。しかもそのために多くのアメリカの若者達が「祖国のため」という名目で犬死しているのだ。ベトナム、イラク、アフガンと続いた、アメリカ流の力の外交は、もう終わりにするべきだ。当事国ばかりでなくアメリカの若者達が気の毒である。アメリカの退役軍人達も威張るのはいい加減にしてほしい。沖縄の基地問題も同様のコンテクストの中で捉えなければならないだろう。事業仕分けに対する防衛大臣の歯切れの悪い態度は、少々あやしい気配がする。行政刷新委員会はここでもう一がんばり防衛予算を削減し、その分、沖縄の「基地後」のデザインのために回すべきではなかろうか?

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2009年11月 9日 (月)

資本論の現代的意義について

 先日このブログでついつい弱音を吐いてしまったところ、mizzさんから励ましのコメントをいただいた。そこで、「お礼」というのもおかしいが、mizzさんが出されているメールマガジン「資本論」シリーズを推薦したい。このメルマガは、mizzさんが資本論のサミュエル・ムーアによる英訳原点をそのまま和訳しているもので、これまでのドイツ語からの和訳のような生硬で難解な文章とひと味違う、しかも的場「超訳資本論」のようなぶっ飛んだおおざっぱな内容ではなく、原著に忠実な内容である。それに所々に入る訳者のコメントがおもしろい。ぜひお読み頂きたい。

 ここで、資本論の現代的意義について少し考えてみたい。いわゆる「社会主義圏」の崩壊とともに、一時はゴキブリ同然の扱いを受けていたマルクスの思想が再び息を吹き返してきた理由は、アメリカ中心の資本主義支配のもとで世界中の国々での社会的荒廃が進んだ結果である現在の社会状態のひどさに起因していることは明らかである。そこには当然かつてのスターリン主義的な改ざんと変質を遂げさせられた、いわゆる「社会主義(共産主義という人もいる)思想」への反省も含まれていなければならないと思う。「社会主義」=個人の自由のない独裁社会=マルクスの思想、という図式が出来上がってしまったのだから。

 この図式が根本的に誤っていることは、改ざんされる前のマルクスの、あったがままの彼の思想に戻って、それを再把握して確かめるしかないのである。そして、そこには現代社会の混沌とした状況を理解し、それを克服するためのさまざまなヒントがわれわれを待っているのである。もう140年も前に書かれたこの思想書は、資本主義社会の基本的仕組みを見事に描ききっている。そして資本主義社会がその後幾多の変遷を経ながらもその根底に存在し続けている資本の論理(資本主義経済法則)は、今日でもほとんど変わっていない。宇野弘蔵はこのことを「経済原論」という本に書き表した。

 しかし一番肝心なことは、この資本の論理が、どのような形で現代社会に貫かれているかである。その現代的様相はマルクスの時代には想像も付かなかったであろう様相を呈しており、これを明らかにすることこそ現代の経済学者、そして社会科学者の最大の目標といえるだろう。もちろん学者の研究の世界にとどまらず、それは政治のまっただ中で実践として行動に移されるのが本来の姿である。

 しかし、私は研究者の端くれとして、いまのところその現代社会の経済的メカニズムや政治動向と同様に、論理としてのマルクスの考え方に大きな関心がある。その一つは、価値形態論の展開においてマルクスが適用した弁証法の論理である。これについては別稿で詳論するつもりであるが、最近、科学基礎論研究会なる集会に参加したり、ある数学者の人達と接触があったりして、現代社会で通用する形式論理学や基礎数学のパラダイムが持つ本質的欠陥についてを考えさせられることがあった。それはさらに情報科学の基礎理論や、オントロジーなどへの疑問に発展するのである。

 私は数学が苦手であったので専門的知識と能力に乏しく、ラッセルやウイットゲンシュタインの本を拾い読みしてもなかなか理解できないのであるが、「なんとなく」それを感じるのである。そして資本論の中の「価値形態」について展開されている論理は、現代の論理学のパラダイムを越えたものを持っていると「かなり自信を持って感じ取る」ことができるのである。

 そして同様に、私の専門である「デザイン論」においても、マルクスの労働過程論を中心とした考え方を人間の基本的能力としての計画力、想像力、そして創造的思考の本質として据える考え方が私の内部で育ってきている。

 これらについて、私の心身の衰えとの闘いの中で、何らかの形で公表して行けるかどうかは、微妙ではあるが、出来うる限り実践していきたいと考えている。

 いずれにしてもリアルな未来を考える人にとって資本論を読むことは出発点であり帰結点でもあると言っても過言ではあるまい。

 

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