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2009年11月29日 - 2009年12月5日

2009年12月 5日 (土)

閑話休題 初冬の記

 このところ政権交代などに刺激されて政治経済的な問題にばかり触れてきて、肝心のデザインの考察から遠ざかっていた。しかし政治経済的な問題がデザインと無関係かと言えば、私はそうは思わない。政治経済問題においては、ありうべき社会への構想が中心的課題であり、これはもっとも広い意味での人間のデザイン能力の発揮にほかならないからである。しかし、そうは言っても、デザイン行為そのものに関しての考察ではない。ここで再び、本題のデザイン問題に入ろうと思う。

 今日、ある学会主催で「デザインの学と術」というテーマのシンポジウムがあった。私もその学会の会員であり、しかも私が生涯かけて取り組んできたデザイン問題がテーマなので、出席してみた。

 そこで全体として感じたことは、過去にも何度かあったこの種のデザインに関するシンポジウムや研究発表と同様、デザインに関する理論研究の成長・進歩があいかわらず感じられないということである。それぞれの論者が勝手にデザインの定義を行い、そこから勝手にデザイン行為のモデルを提起する。そしてそれに基づいてデザインに関わる問題すべてをそれに沿って勝手に解釈しようとする。そこでは過去にどのような理論的論争や葛藤があり、そこから何が生まれ、何が淘汰されてきたのかが全く見えないのである。要するにに何となくうまくデザインが説明できればよいのである。いつもこの繰り返しなのだ。私には大変思い上がった論議であるように思えた。

 例えば、デザインの行為には、「図案表現型」、「問題解決型」、「理想追求型」という3つのタイプがあり、「問題解決型」は、あらかじめ目標が与えられていて、それに向かってデザインする"Pull"タイプで、「理想追求型」は、 何かあるべきものを求めて"Push"されるデザイン行為であり、特定の目標があるわけではない。という話があったが、「図案表現型」などというのは論外であるにしても、「問題解決型」と「提案型」があるということはかなり昔から論議されてきた。しかし、提案型が問題解決型と本質的に違うのか、違うとすれば何が違うのかという議論はさっぱり進展していない。いわく、「提案型はあらかじめ目標が与えられていないがこれこそが創造的思考につながる」、そして有名なMITのFinke, Wardらのグループによる創造的思考に関する実験(アルファベットや数字のような形をした単純な幾何形体をいくつか刺激として与え、そのうち3つを組み合わせて何か実際に使えるものを考え出しなさいという課題)の例を挙げ、Finkeらが、その実験からさまざまな「ユニークな」アイデアが創出されたことを指摘し、20世紀初頭の機能主義建築家、ルイス・サリバンが言った"Form follows function"というテーゼは、"Fuction follows form"と言い換えた方が、新しいアイデアを創出しやすい、と述べたことを引用する。

 しかし、「提案型」や「理想追求型」は本当に目標がないのだろうか?そんなはずはない。少なくとも「デザイン」と名付けられる行為には、必ず何らかの意図や目的があるはずであって、それがきわめて漠然としているか、明確であるかの違いしかないというのが本当ではないだろうか?Finkeらの実験がデザイン行為の例として引用されるのは間違いであって、あれはデザインではなく「発見行為」なのである。かれら自身そのことを明確に指摘している。

 このような問題は枚挙のいとまがない位あるのだ。まずは。現代社会における職能としてのデザインと、そこから抽象された、一般的な意味でのデザイン行為を明確に区別し、両者の関係を明確にすべきであろう。さもないと「図案表現型」などという職能的分類項目が混じってきて混乱を生じさせるばかりでなく、いつのまにか職能としてのデザインが一般的なデザイン行為と同じレベルで扱われ、理想追求型などというタイプが職能的デザイナーにも存在しうると捉えてしまったりするのである。このような「概念混同」が生じると、ご都合主義的に一般的な規定と特殊歴史的規定が入れ替わり、職能的デザインにおいてそのまま普遍的なデザイン行為が実現されうると考えてしまう恐れがある。

 このことは実はきわめて重大な問題を生じるのである。つまり現在の職能としてのデザインが置かれているありのままの状況や問題がリアルに見えてこず、何がデザイン学にとっての真の課題なのかが全く分からなくなってしまうからである。

 さて、この続きは次回以降に語ることにしよう。

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2009年12月 4日 (金)

近未来社会のデザインに必要な条件

 アメリカのオバマ政権、日本の鳩山政権は世界中に資本主義経済体制の矛盾が噴出する現在の状況の中で生まれるべくして生まれた政治体制であろう。しかし、10〜30年年後の世界を見据えて行われなければならない近未来社会のデザインに必要な条件が何なのかは必ずしも明確にされていない。

 政府が「雇用促進」をいくら叫んでも、肝心の企業はそれどころではなく人員削減で倒産を防ぐことに必至である。資本主義社会では、不景気の時には、資本を所有する個人なり法人なりが、その企業が一定程度の利益をあげて市場で生き残るために労働者のクビを切り、企業の存続を図り、景気の良いときには、雇用を増やしながら労働者からの剰余価値の搾取量を増やし、そのかわりそのいくばくかを労働者に賃金やボーナスという形で「前貸し」し、それを消費させることで、再びその前貸し分を自らの利益として回収するという仕組みになっている。労働者は「消費者」として祭り上げれれながら、好景気のときには、賃金のほとんどを消費に回させられて、資本側がこれを再吸収することになる。さらにその中で労働者が何年もかかって苦労して貯蓄した個人財産も、老後の生活や住宅資金として、やがて資本に吸収されることになるのである。そして一旦不況になるやいなや、たちまち彼らは首切りの対象になり、失業保険も使い果たした後は、路頭に迷うことになる。

 マルクスの労働価値説によれば、資本主義社会のすべての富を形づくっている価値の源泉は、労働者の「生きた労働」である。現代の資本主義社会では、その富を直接生み出している労働者が、人間であるにも拘わらず、資本の維持拡大に必要な設備や材料と同じ「モノ」として扱われ、それらを所有する資本家あるいは企業が、「人格」として位置づけられている。ブッシュ前大統領は「資本主義社会は、自由に自分の職業が選べるし、自由に自分の財産を築くことができる、すばらしい社会だ」と述べているが、この「自由」のはき違えこそ社会に致命的な破壊をもたらすことになる。クビを切られた労働者のだれが自由に職にありつけるというのか!失業保険も使い果たし、路頭に迷うホームレスのだれが、自由に財産を築くことができるなどど思うのか!

 普通の労働者は働いても働いても、金を残すことが出来ない、それは才能とやる気の問題だというなら、才能ややる気を持てばすべての人々が資本家になってハッピーに生活できるのか?そんなことはあり得ない。そして現在は一握りの「才能」と「やる気」のある連中が世界の富を手中におさめ、それを右から左に動かして世界経済を左右しているのである。彼らにとって、それらの富を生み出した何十億という数の労働者の生活状態などどうでもよく、もっぱら株式市場の動きだけが関心事なのである。株式市場は決して富を生み出しているのではなく、ただ世界中の労働者達が額に汗して生み出した富をそこに集積し、「才能」と「やる気」のある連中が、その不当なぶんどり合戦をやっている場なのである。

 要は、このような現在の資本主義社会の仕組みを前提として、国家予算の再配分を行おうとしても、それは必ず失敗する、ということである。いくら雇用促進や社会保障のための予算を増やしても、それらの財源はふたたび労働者の肩にのしかかってくることは火を見るよりも明らかである。一握りの金融資本家たちの手中にある世界の90%以上の富を正当な受益者に再配分するために、金融システムそのものを根本的に解体し、ひとまず国際的な過剰流動資本の流れを止め、これを国際的な機関によって管理する体制を築き上げなければ、世界経済はふたたび破綻するだろう。その後、それらの富をどう再配分するかをこれも国際的な運営体制で議論を重ねながら行う必要があるだろう。それがなければ、いくらアフガンにアメリカ兵を増派してもアフガンの民は貧困に置かれたままになり、富の象徴であるアメリカ資本主義社会へのテロリズムもなくならないであろう。ただアメリカの若者とアフガンの民の死体の山を築くだけである。

 現在の金融資本システムの仕組みを解体すれば、一時的に倒産する企業が続出するかもしれないが、その間も社会に必要なモノは常に作り続けられなければならない。そこでは資本家を含めた「民」ではなく、生産的労働に直接従事する労働者自身の「民力」が威力を発揮するだろう。生産や流通システムに必要な設備や場を資本家が個人的な所有を理由に使わせなくなることがあるかもしれないが、社会的分業をそれぞれの場で担っている各分野の労働者間での直接的な生産ネットワーク構築と生産物分配体制維持はいまのコンピュータ社会でそれほど困難な問題ではなくなっているのだから。資本家なしでも立派に社会の生産ー消費システムは稼働するはずである。しかもインターナショナルなスケールで!!そこから本当の意味での近未来社会のデザインが始まるのである。

 資本主義社会はこれまでも崩壊の危機に直面すると戦争という、究極の過剰資本処理体制を担ぎ出し、軍需産業の活性化を通じて経済体制を立て直してきた。そして労働者達は「国民」という名のもとに民族意識に洗脳され、戦地に送り出されてきた。よもやふたたびこのようなことにならないように、普天間基地の確保に固執するオバマさんや鳩山さんには肝に銘じてほしい。

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