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2010年2月18日 (木)

閑話休題 厳冬の記

 このところ、シリアスなことばかり書いてきて、いささか精神的に疲れてきたので、またまた閑話休題といこう。

 先日、沖縄の知り合い一家が来宅し、彼らの要望で、築地の魚市場を見学に行った。私も東京生まれで長年首都圏に生活していながら、築地市場は一度も行ったことがなかった。珍しく寒い厳冬の曇り日で、市場に着いたのは午前10時頃で、もうプロたちの競りは終わっていたが、まだ、買い物客や残りの魚を売りさばく人達や運搬車で残物の運搬や処理をする人々で狭い場内はごったがえしていた。仕入れ人達のトラックが、何の交通整理もない人車ごちゃまぜ通行の中をすいすいと見事に人をよけながら通っていく。とにかくすごい活気で圧倒された。

 場内のコマ割の店舗は古くからの屋号を掲げ、その店でずっと取り扱ってきた商品を手際よく売りさばいている。威勢の良いおっさんやおねえさん(この中には外国語なまりのある人もいた)は、もう売れ残りを残すまいと一生懸命だ。珍しい海産物があちこちの店にあって、興味津々だった。

 私はすっかり築地市場の雰囲気が好きになった。この生鮮食料品という、日々われわれにとってもっとも必要な品々を流通販売するこの市場は、長い年月をかけていわば「自然発生的に」育ってきた商品市場の典型であろう。

 午後になって、知り合い一家のリクエストで浅草に行ってみることにした。地下鉄を乗り継いで蔵前駅まで行って、そこから途中しにせのそば屋に寄って昼食を摂ったあと、雷門から仲見世に入った。例の大提灯は昔のままだったが、仲見世に入ると、一昔前にここを訪れたときとは、何か雰囲気が違うと感じた。整然と並んだ店は小綺麗だがそこに並ぶ品々は、いわゆるお土産品であって、これは今も昔も変わらないのだが、例えば、「あげまんぢゅう」や「人形焼き」などは特定の店の看板商品であったはずなのが、いまはあちこちでそれを売っている。また明らかに外国人目当てと思われる、ど派手なキモノや扇、人形などを売る店が増えた。全体として、何かしら「虚偽を売っている」という雰囲気があるのだ。

 食の流通販売という都市の基幹的機能を果たす築地市場と、いわゆる歓楽街にある観光地としての浅草とではおなじ商店街でもこんなに雰囲気が違うものか、と改めて感じた。

 商品市場というものが、生活資料の流通販売という場面で成長してきたことは、いわば歴史の必然であったように思う。そしてその発展上に「売るため」を至上の原理とするシステムが出来上がり、すべての生産、流通など世の中に無くてはならない仕事に従事する人々をも資本という怪物が支配権を握る世界に投げ込んでいったのだなと、なんとなく納得したような気持ちだった。

 商品経済は今後どのような形に発展してゆくのだろうか?それを予想することは難しいが、少なくとも、世の中に無くてはならない仕事に励む人達の「生き血」を吸いつつ「金が金を生む」という幻想に囚われた連中が商品市場を支配していける日はそう長くは続かないだろうと実感したのである。

 

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