« 何が間違っているのか?(その3 アメリカ資本主義のグローバル化) | トップページ | 国内生活基盤産業の衰退と寄生的産業への傾斜 »

2010年2月12日 (金)

金融資本に支配された産業資本と「ものづくり」技術の終焉

 マルクスの時代には、まだ産業資本家が商業資本家と手を結んで経済の支配権を握っていたと考えられるが、それから150年後の現代では、金融資本が産業資本や商業資本を支配しているといえるだろう。

 もともと金融資本家は資本の回転(貨幣、労働力、商品とメタモルフォーゼしながら回転する)のうちに生じる遊休資本(ある期間貯蓄されたり土地などのような財産として蓄財された資本)を活用させるために登場したのであるが、それがやがて資本の回転のために不可欠な潤滑油のような役割を持つようになり、株式会社などの登場により、最初に莫大な資本を所有しなくても広く資本を収集できるシステムができると、それへの投資を左右する金融資本家が大きな役割を果たすこととなった。株などの有価証券を売買し差益を獲得する株式・金融市場が登場し、これが資本の動向に大きな影響を与えるようになったといえる。現代では、産業資本も商業資本も、持ち株会社を設立させ、株の売買の動向(つまり株主の株券売り買いの動向)が産業資本や商業資本の存立に関わるようになった。このような状態になると、いわゆる金融恐慌が社会経済全体におおきな影響を及ぼすようになるといえる。

 株はもともと、資本をあまり持たないが、起業して利益をあげる自信がある個人に資本家となるチャンスを与えるシステムである。株主はその起業家の株に投資し、そのかわりその会社が儲かったときには分け前にあずかろうというのである。

 これによって多くの資本家が登場し、あらたな会社が設立され、そして社会的に必要な生産がこれらの私企業によって成されるようになるのである。そこでは生産手段は、私企業の所有する財であり、労働者は自分の労働力と引き替えに、自分が生活の中で労働力を日々再生産できるに足りるだけの労働賃金を前貸しされて、それらの私企業の所有する生産手段のもとで生産的労働を行う。

 しかし、資本家達は自分の会社で利益をあげることが出来なくなってくると、自分の利益が減るばかりではなく、株が値下がりし、株主にも見放されることにより、資本を維持できなくなるのである。そしてそうなる前に彼は労働者のクビを切り、「合理化」を図り、会社を「スリム化」して何とか再び利益をあげることが出来るまで努力することができる。それでもダメなときは、より強力な資本に自分の会社を身売り(逆の立場からいえば「買収」)するか、いよいよとなれば会社更生法を申請して、政府からの手厚い保護に頼ることもできるのである。

 しかし労働者は、いったん解雇されれば、失業保険がもらえる間に、あらたな職場(労働力の買い手)を見いださない限り、無一文で路頭に放り出されるのである。「生活保護法」というのもあるが、自治体にその財源がなくなれば、これも打ち切られる。家庭をもつ労働者は、家庭崩壊、一家離散ということにもあり、孤独な路上生活者になるか、やがては自死するほかはなくなるのである。

 一方、資本家達も決して悠々自適というわけではなく、つねに国際市場での競争相手との熾烈な闘いに勝ち続け、シェアと利益を維持しなければ株主からも見放される。だからそのためには手段を選ばない。そこでの「論理」はまさに国家間の戦争の論理とほとんど同じである。労働者という兵隊を市場という戦場に引き出し、そこで利益の源となる剰余価値を生み出させ、必要がなくなれば彼らを不要になった道具と同然に廃棄し、資本経営においては諜略や謀略まがいの買収劇を演じる。そこには戦争の場合のような「合法的殺人」がないだけである。

 その中で、産業資本を傘下におさめた金融資本は、それによって増え続ける過剰資本を、金融資本市場を通じて世界中に流動させ、そこからの差益を獲得するための競争に明け暮れているのである。

 だからいまでは産業資本家は金融資本の支配のもとで新たな剰余価値を生み出すための機能を発揮させられている「機能資本家」として扱われているといえる。産業資本家の機能はいくつかの役割分担として分業化され、全体の意志決定に責任を待たされるCEOがその代表として置かれるのである。しかし彼の意志決定は言うまでもなくそれを支配する金融資本の意志を反映せざるを得ないのである。

 戦後一時期に勃興する新産業資本のもとで培われた「ものづくり」の高度な技術も、いま、金融資本家にとっては、流動資本の差益を獲得するためには切って捨ててもよい存在となっている。アメリカがその状態をすでに30〜40年前に経験してる。そしてイギリスはそれより遙か前の80〜100年前にそれを経験している。

 「ものづくり」の技術は金融資本の支配する国ではもう不要なのである。そして産業資本家達は、労働賃金の安い(つまり労働力を日々再生産するために要する生活資料の価格が安い)国々へとその「ものづくり」による剰余価値獲得の矛先を向けることになるのである。

|

« 何が間違っているのか?(その3 アメリカ資本主義のグローバル化) | トップページ | 国内生活基盤産業の衰退と寄生的産業への傾斜 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/210651/47546067

この記事へのトラックバック一覧です: 金融資本に支配された産業資本と「ものづくり」技術の終焉:

« 何が間違っているのか?(その3 アメリカ資本主義のグローバル化) | トップページ | 国内生活基盤産業の衰退と寄生的産業への傾斜 »