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2010年4月20日 (火)

マルクスを「否定」するには?

 私のように若いときにマルクスの思想と出会った者は、ひときわその影響が大きかったといえるのかも知れないが、2010年の現在においても、いまだにマルクスの理論を信奉している馬鹿者と考える人が多いようだ。

 現代社会が資本主義経済にもとづく社会であるということを認める人は多いが、それを根底から否定したマルクスの考え方は、間違っており、すでに否定されたと考えている人が多いのも事実だ。

 私は別に、マルクスの思想を神のごとく信奉し、絶対的な理論だなどとは決して思わない。しかし、これを「否定」することは思ったほど簡単ではないのである。

 マルクスを「否定」する人々の大半は、それが間違いであったことが、20世紀末の社会主義諸国の破綻によって完全に証明されたと考えている。そしてその後、生き残った資本主義社会をその枠内で修正していくことが現実的な方向だと考えているようだ。しかし、ここに大きな誤解と事実のすり替えがある。

 その一つは、ソ連、旧東ドイツ、中国、北朝鮮などに現れたいわゆる社会主義政権とそれらの国々が依って立っていた「社会主義経済」の内容は、それぞれバリエーションはあったとはいえ、いずれもマルクスが資本論などで展開していた考え方とは似てもにつかないほど違うものだったという事実を指摘していない。かっての「社会主義諸国」での「社会主義経済」は、マルクスの考え方を単に、表面的な形だけ取り上げ、それを政治支配の道具に用いていたと言ってもよいだろう。現在の中国や北朝鮮などでは、支配層の人々すらほとんどマルクスなどまじめに読んだこともないと思われる。

 そして第二に、マルクスの思想それ自体が、完成された形のものではなかったということ。つまりマルクスの経済学はまだ発展途上にある理論であるという事実も指摘されていない。かって、「社会主義国」を支配していたマルクス主義の教条主義的扱いに対立して、純粋な科学的立場でマルクスを捉え直し、批判すべき所は批判するという立場を貫いたのが宇野弘蔵であった。宇野弘蔵の理論それ自体もいろいろ批判すべき点もあるが、マルクス経済学をマルクスの時代からさらに発展させようとしていたことは明らかかである。

 そして第三に、マルクスの「否定」概念は今日用いられている否定という概念と異なっていたということである。

 よく現代の経済学者は、マルクスがスミスやリカードなどの古典派経済学の労働価値説をそのまま引き継いでいたので、いまでは通用しないのだ、という見方を説く。しかし、古典派経済学の労働価値説とマルクスの価値論とは表面上は似ているが中身は全く異なるのである。マルクスにおいてはその違いが「資本」という概念によって展開されていることを見ればそれは明らかである。スミスやリカードの労働価値説からは決して資本による労働の支配という視点は出てこない。これを同じというのはあまりに不勉強であると言われても仕方あるまい。

 マルクスは、哲学や世界観においてはヘーゲルを否定し、その哲学や世界観が依って立つ社会の経済学的基盤に関しては古典派経済学を否定して彼の理論的地平を切り拓いた。しかし、マルクスの思想の中には、ヘーゲルも古典派経済学も、より大きな立場から「否定的に継承」され、「生きている」のである。当時青年ヘーゲル派などの過激左派がヘーゲルを「死んだ犬」といって排除しようとしたしたとき、マルクスは自分がまぎれもなきヘーゲルの弟子であると公言したのである。

 マルクスはおそらく、科学史における自然観の発展に見られるような、理論の「否定=継承」関係を社会科学においても貫こうとしたのだろう。科学史においては、例えばニュートンの物理的世界観はアインシュタインによって「否定」されたが、アインシュタイン的物理世界観の中にはニュートン的世界がその「一部」として生きているのである。もちろんここでいう「一部」として生き残っているという意味は、そのまま生き残っているのではなく、より大きな観点から、それ以前とは異なる意味づけとして残っているということである。別の言い方をすれば、アインシュタインは物理学に新たな地平を切りひらいたのであって、ニュートンを排除したわけではない。

 そのような視点から見れば、マルクスの目指す社会は資本主義社会が築き上げた成果を「否定的に継承」して行こうとするものであったことは明らかである。例えば、自由な商品の取引という形は、資本主義社会が終わったときに「配給制度」に取って代わるわけではなく、その形式を残しながら、資本による労働の支配という形が解消されることで商品の価値に対する意味づけが変わっていくであろう。また資本家がいなくなっても労働者たちによる企業の運営は続くであろう。

 要するにマルクスを否定するには、自分自身が、マルクスの切り拓いた地平を超え出なければならないのだ。これはそう簡単ではない。

 そしてわれわれは、いまこのマルクスの「否定」の論理と意味をしっかり現実的に捉え直さなければならないときなのだと思う。

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