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2010年8月10日 (火)

mizzさんのコメントに応えて

 私の前回のブログに対して、mizzさんからのコメントがあった。その中でかつての学生運動の担い手だった世代への直言として「資本側の論理を跳ね返すだけの論理を持てたか。資本側の封殺に対する広い連帯を計画できたか。(中略)今、資本論を読めと云われれば、この歴史の再総括も求められる気分だろう。分かっているからなおさらだろう。歳を取った。実際の資本主義を身を以て学んだ。これが状況を変えている。改めて、資本論に取り組みたいはずなのだ。自然が働きかけている。教訓は生きているはずだ」という指摘があった。これはまことに重い言葉である。この言葉には、おそらく、私と同様に、mizzさんの自分自身の人生への苦い思いが込められていると察せられた。

 そう、われわれの世代の生き方への評価は、やがて歴史が明らかにするだろう。要は、われわれの挫折と失敗を次の世代で再び繰り返さないようにすることだ。野村監督ではないが「失敗と書いて成長と読む」ことができるかどうかである。

 かく言う私も、趣味を捨てて日夜、資本論の解読に邁進しているわけでは決してない。偉そうなことがいえる立場ではないのであるが、視力の衰えが激しくなってきた老眼を酷使してパソコンに向かうことが日常である。資本論もあるテーマについてもう一度読み直す必要があると感じたときには例の岩波書店版の分厚いやつを開く。赤鉛筆で引いた傍線や書き込みがページを汚している手垢に汚れた資本論である。ただし、未だに第2巻までした読み進んでおらず、第3巻はまだ手つかずである。第3巻はマルクスのメモ書き程度の下書きしか残っていないものをエンゲルスが老骨にむち打って1巻にまとめたもので、エンゲルスがいなければ全3巻は世に出なかったであろう。しかもそれでも決して資本論はマルクスの時代に終わってしまった理論書ではなく、現代に、そして未来に向かって開かれた書なのである。そこからさらに展開されることを待っている理論なのである。だから私は自分の人生の「総括」をおこないつつ、自分がこの資本主義社会の只中で生きていることの意味を知るためにもこの書の解読を続けようと思っている。

 現代のマルクス経済学者は、資本論に続いてその現代的展開を理論化すべきなのに、私の知る限りまじめにそれをやっていない。それは実に腹立たしいことである。もっぱら学者として、あるいは評論家としてのステータスを高めるために資本論をいじくっているとしか思えない。このブログを読んで、専門家として「そんないいかげんなことを書くな!」とでも言ってくれれば、私にとってこれ以上の励みはないのだが。

 

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