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2010年8月23日 (月)

「マルクス思想」という新商品?

 今朝の朝日新聞の文化欄に「今、再びマルクスに光」という記事が出ていた。

その中で、「若者よマルクスを読もう」という本を出した、経済理論専門の石川先生は、「座標軸をなくした日本社会には、一本筋の通った左翼の存在が必要だと思う。今の若者は左翼アレルギーが強いが、ブルジョアジー出身のマルクスが弱者への友愛から連帯の思想を紡いでいったように、本来の左翼的知性とは熱くて柔軟なものだ」と言っている。しかり!その通りだ。しかし、マルクスはブルジョアジー出身であったかもしれないが、「弱者」にブルジョアジーの高見から愛の手をさしのべるというスタンスではなかった。どこかの政治家みたいに「友愛」をうたって総理大臣になってもどうすれば友愛が実践されるのか分からず、「友愛」というカンバンの次元で済むブルジョアジーの立場を自ら変革することができずに終わってしまうようなことはマルクスには決してなかった。

 また「超訳 資本論」で有名な的場先生は、「千年、二千年単位で構想されたマルクスの世界観にとって、ソ連、東欧の失敗は序曲に過ぎない。共産主義を求める波は今後も繰り返し訪れる」と言っている。これもしかり!その通りだ。的場先生は続けていう「マルクスの著作はきちんと読まれてこなかった。例えばブルジョアジーが競争と自由をもたらしたことを評価したが、疎外された労働も一方で人々をつなぐ喜びの源だとした点。マルクスの魅力は矛盾をはらんだ二重性の豊かさにあるのです」と。

 ううむ、これはこの記事を書いた朝日新聞の記者が的場先生の言ったことを間違って受け止めたのではないかと私は考える。的場先生がこんなことを言うはずがないからである。マルクスはブルジョアジーが自由と競争をもたらしたことを評価したことなど一度もない。マルクスはその弁証法的な思考の展開の中で、ブルジョアジーの「自由」や「競争」が商品経済の持つ論理として展開され、資本主義社会の中でそれが成熟し、特有の倫理的スローガンとされる一方で、自らの労働力を商品として売りに出さねば生きていけない人々を生み出したこと、したがって、資本家も労働者も同じブルジョア的センスでの「自由な市民」という見せかけを否定し、ブルジョア階級の「自由」が自分たちの人間としての自由を収奪することによって成り立っているという事実、そういう自らの立場を変革することなくしては本来の自由を得られない人々を生み出させたということを強調しているのであって、そこが明記されなければ、ブルジョア的自由や競争をマルクスが評価したなどというのはとんでもない誤解を生む。

 また「疎外された労働も一方で人々をつなぐ喜びの源だ」などとマルクスは決して思ったことはないだろう。「経済学・哲学草稿」で用いられた「疎外された労働」という概念は資本論では用いられていない。そのこと自体、よく考えねばならないことであるとともに、たとえマルクスが「疎外された労働」という概念を用いたとしてもそれは、獲得されるべき本来の労働を生み出すための否定的対象として言っているのであって、本来あるべき労働を闘い取る過程そのものがその姿を明らかにしていくということであったはずだ。それが「一方では喜びの源だ」などと言っては誤解も極みに達する。

 ブルジョア的なセンスでの「矛盾」や「二重性」という概念を遙かに超えたマルクス的な地平での「矛盾」「二重性」の論理を理解することを妨げるような記述は本当に困りものです。的場先生、ぜひ訂正記事を出してください!

 さらにかつて学生運動を担ったという、哲学者、長谷川さんは、資本論よりも「経済学・哲学草稿」のほうが今日的テーマを含んでいると感じ、「政治解決できる問題など実際には少ない世の中で、一人一人がどう生きたらよいのか?マルクスが、人が地べたで生きていること自体に可能性と希望を見た意味は深いと思う」と言っている。しかし、マルクス自身は「経済学・哲学草稿」時代の自分の限界を「資本論」で乗り越えようとしたのではなかったか?「一人一人がどう生きたらよいのか?」というレベルでは決して世の中も自分の実存も変革することはできないことを悟ったマルクスが生涯掛けて資本の論理を解明し続けたのではないのか。

 かくして朝日の言いたいことは、東工大の橋爪先生の次のような言葉で象徴される「政権交代が起きたのが象徴的だが、労働者が革命を起こす前提が日本では完全に消滅した。マルクスも、社会改善のヒントを提供する一人になったということだ」。

 これではマルクスも浮かばれまい。今の日本には労働者階級が革命を起こす前提が山ほどあるのに、それを覆い隠す、ブルジョア的イデオロギーにマスコミも大学の先生もごまかされているに過ぎないのだ。あたかも書店で、どの思想書を読もうかな、と迷っている顧客に、マルクスというのもありますがいかがですか?と売り込みを掛けているようでは、なにをか況んやである。

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コメント

野口さん、ちょこっとお邪魔させてもらいます。少し長くなりますが、ご容赦ください。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201008230099.html で読むことができます。

自分の実存を変革する本と、野口さんが指摘するものが、マルクスの著書なのであって、飾ったり、積んどくだったり、読んだふりでは、自分の実存を変革するはずもない。まして、いい加減の訳や、想像の脇本では、ブルジョワ的解説本では、どうにもならない。日本の政治家で資本論を読んで、感銘を受けたと書くのは、亀井静香である。この程度。

まず、マルクスの生い立ちが、ブルジョワ出身と書いているが、父はユダヤ教の聖職者である。後にプロテスタントに改宗する。ブルジョワの根拠はなんなのか。マルクスは若くして、ブルジョワ急進主義のライン新聞の主筆を務めた。直ぐに弾圧されて失職した。ブルジョワ階級出身の根拠になるはずもない。

ここに紹介された本は、4冊。(図には5冊あるが)まずは、内田樹と石川康宏の『若者よ、マルクスを読もう』弱者への友愛から連帯の思想を紡いでいったように、本来の左翼的知性とは熱くて柔軟なものだ。違いを認め合いつつ進める対話は、左翼につきものだった党派対立をこえる実践の書となる。これでは友愛・対話・対立解消というありがたいブルジョワの書ではないか。次が、ジジェクの『ポストモダンの共産主義』世界の終わりへの警告。それはマルクスの指摘した「実質なき主体性」に帰すものだという。自己の実存の変革との差は歴然。三番目は、的場昭弘 『共産党宣言』マルクスをきちんと読んだと思われない文脈。ブルジョワが競争と自由をもたらし、疎外された労働をして人々をつなぐ喜びの源とした等と云う。4冊目は、長谷川宏の『経済学・哲学草稿』人が地べたで生きていること自体に可能性と希望を見い出す。そのまま生きろとおっしゃるようだ。もう一つは、近日発刊の宣伝 橋爪大三郎『労働者の味方マルクス』(仮題)アナーキーでクレージーな思想家も懐柔できたとか。牙を抜かれたマルクスから、また新しい思想が生まれてくると本記事の記述者藤生京子が橋本教授に上乗せ文。

マルクスの牙は何か。それは余剰価値と、その占有者が誰で、それをどう自由に使っているかということなのである。この指摘がない著作は、マルクスに再び光どころか、マルクスを汚れた砂に埋めるに等しい。葬り去られたはずのというからには、葬った著書ハイエクが葬ってなんか居ないことを明らかにするのが早い。

スターリンは、日本兵をシベリアの強制労働に抑留した。労働力の価値と剰余価値を捉えたマルクス理論を用いた出来事と言うのか。日本政府はこの労働力の価値を当然返還要求できる。マルクス主義を標榜するなら当然の論理である。もっともプーチンは、マルクス主義ってなんのこと、と言うだけだろう。なら、マルクス主義とスターリンの関係もあったものではない。

ではこの文面はなんなのか。ヤフーの商売と何ら変わらない。宣伝文なのである。自分の実存を変革する本でないことが、売りであり、既に自己検閲なのである。ブリジョワの砂塵である。

本物をそのまま読め。長くなってすみません。


投稿: mizz | 2010年8月23日 (月) 21時25分

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