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2010年9月 2日 (木)

ハイエクの「自由主義」をめぐる問題について(その2)

 前回に引き続き、池田信夫著「ハイエク〜知識社会の自由主義」の批判的検討を行う。池田は、ハイエクによる計画経済とそれを導く前提としての「完全な知識」というものを否定し、「意図せぬ結果」によるバランスで経済活動を保つ市場経済のメカニズムとそれを支える個人の「無知」による行動(不確実な知識による消費者の「必要」という主観的価値で決まる市場の動き)を正当化するために、ケインズや新古典派、シカゴ派などの資本主義的経済学の論者を批判し、それと同時に、マルクスを「計画主義経済」の流れを作った元凶として批判する。

 歴史的に見れば、1930年代には、一方で金融恐慌に始まる世界的な経済不況で資本主義経済体制が完全に行き詰まっており、他方でスターリン派が共産党独裁体制を恒常化させ、一国社会主義という戦略のもとで遂行した計画経済の体制がほぼ確立されて成果を上げ始めていた時期に、それに対抗するために資本主義陣営から打ち出された新たな経済戦略がケインズによる考え方を参考に、政府の財政主導で需要創出を行い、それによる景気回復と失業者の吸収を図るという形で行われ、第二次世界大戦をテコにして戦後の欧米資本主義社会で成功したという事実から、1960年代まではケインズ派が資本主義経済理論の主流を成していた。

 しかし、その後、一方ではソ連圏の経済状態は国家的プロジェクト(軍需・宇宙開発など)を除いて停滞を見せ始め、他方では、ケインズ的修正資本主義経済を導入し社会保障や労働者の権利を重視したイギリス経済の停滞と財政赤字の増大、そしてアメリカの経済もいわゆるスタグフレーションによるインフレと失業の同時進行が深刻となり経済的停滞を見せ始めたことから、ケインズのように資本主義経済に計画的性格を付け加えようとした考え方を批判するフリードマンやハイエクの考え方が見直されるようになってきた、というのだ。

 資本主義経済学陣営にもケインズに反発するの流派がいくつかあり、アダムスミスの流れを汲み、「均衡理論」を主張する新古典派、それに数学的装いを凝らしたフリードマンらのシカゴ派など、いずれも市場のメカニズムを重視し、大きな政府を否定する立場であるが、ハイエクはそれらの学派とも一線を画し、社会的経済運営におけるあらゆる「計画性」を廃し、最小限のルールによる最大限の自由を強調した。

 池田はこうしたハイエクの考え方を支持し、社会主義的計画経済をその対極にある元凶として批判する。その批判のポイントは、「計画主義の誤りは、人間世界の秩序を人工的な組織(例えば企業など)と同一視することにある。組織は建築物のように、あらかじめ決まった設計にもとづいて計画的につくることができるが、社会全体を計画的に構築することはできない。社会全体には与えられた目的がなく、人々は各自の利己心にもとづいて行動するので、集権的にコントロールできないからだ。(中略)大きな社会では、人々の利害は一致しないので各自の行動が合成された結果は、だれも意図しなかった秩序(あるいは混乱)を生み出す。社会全体を計画的に動かそうとする社会主義や全体主義は、こうした意図せざる結果の法則を理解していないのだ」(p.128)という点にある。

 私は池田信夫のように資本主義的経済学の専門家ではないのだが、少なくともマルクス経済学については池田よりは詳しいと思うので、池田=ハイエクのマルクス批判におけるマルクス経済学への無知と恣意性について要点を指摘しておこう。

 前回、マルクス経済学をその主張にもとづき理解しようとした宇野弘蔵の考え方の一部を紹介したが、そこでの宇野=マルクスによる資本主義的市場経済のとらえ方は、「自由な」資本家よる個人的な利益追求の行動が社会全体として市場を均衡状態に導くという「見えざる手」(スミス)による市場のメカニズムは、実はそれが「自由な」個人が意図するとしないに拘わらず、価値法則という法則の下に置かれていることを示すと述べている。つまり「自由に」利己的利益を追求しようとしている資本家たちは、決して自由ではなく、実は無意識のうちに価値法則という法則のくびきの下に市場のメカニズムに導かれているという関係を示している。

 マルクスが分析したのはまさにその「見えざる手」という形で市場を支配している価値法則なのだ。そしてそこにはリカードらの労働価値説を批判的に継承したマルクス的価値論があり、価値を生み出す実体としての労働という視点から、社会的に平均的労働時間が示す価値量によって客観的に規定できる価値と、それが市場において需要供給の関係で表示される市場価格の物質的基板であり、その意味で価値と価格は明確に区別されねばならない(資本主義的商品市場では価値は価格としてしか表現し得ない)ことを論証しているのである。

 しかもその価値法則は、「商品を私有し、それを自由に売り買いできる人間」の存在を前提として成立しているのであって、たしかに資本家は基本的に商品を生み出すのに必要な生産手段を私有し、労働者から労働力を買い取ることで商品を生産し、その商品を自由に売ることができるが、商品を生み出すのに必要な労働力だけしか「私有」していない労働者にとっては、自分の労働力を商品として資本家に売り渡すことによってしか生きていけない。さらにその資本家の私有する富は最初から彼らの生み出した富ではなく、過去に搾取された労働者の労働の成果としていま資本家の手元に私有されているという事実をマルクスは見いだしたのである。このことをおそらくハイエクも池田も理解していない(したくない?)のだろう。

 そしてもう一つは、池田=ハイエクによる「完全なる知識」や「社会全体の目的」そして「計画的経済」への否定が、マルクスへの批判の主軸に置かれていることについては、マルクス以後の「社会主義経済」とマルクス自身の理論との恣意的な混同によって成されているということである。これについては次回に検討しよう。

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