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2010年9月16日 (木)

再びラトゥーシュの「脱成長社会」についての疑問

 最近私のブログで、ラトゥーシュのことについて書いたページへのアクセスが多いので、ちょっとそれについての私の考えを述べることにする。

 書店で「経済成長なき社会発展は可能か?」という彼の本を見て、買おうかと思ったが意外と値段が高く、年金生活者である私は躊躇せざるを得なかった。そこで書店には悪いが、ちょっと立ち読みをしてパラパラとページをめくってみた。たしかに彼の考えている「経済成長なき社会」は、ある意味で美しいイメージなのだが、それがどのような経済的仕組みで成り立つのかについて、経済学的な分析や構想が述べられているわけではでないようだ。少なくとも言えることは、資本主義経済システムを土台とした社会では、ラトゥーシュ的「脱成長社会」は不可能であることは確かである。

 というのは「経済成長」という言葉で表されるものは、「資本の成長」であって、働く人々の生活や人間としての成長ではないからである。グローバルな市場で、国際競争を繰り広げ、競争企業を打ち負かせながらシェアを拡大し、「勝ち組」になったと思ったらあっというまに新手の競争相手に打ち負かされる、というバトルを繰り返しているのは「資本」であって、生きた労働を日々資本に捧げている労働者ではない。労働者はその資本のバトルの中で、自分の生きていることの証しである労働力を資本家企業の勝利のために捧げつくし、自分が「資本の競争力」の実体となる。それが出来なくなれば、企業から体よく放逐され、やがて行方不明の高齢者として住民票にのみ名を残しながら家族にわずかな「不法」年金収入を提供しつつ消滅していくあわれな存在なのだ。資本家企業は、事情が許せばいくらでもあとから新しい生きた労働力を獲得できるから、一人一人の労働者の人生などにかまってはいられない。こうして資本は「成長」し、労働者はその生命力を吸い取られ「消滅」する。

 そう、たしかに「経済成長」があれば雇用が促進されるだろう、しかし雇用される労働者は「労働力」としてその生命力をすい散られるだけであり、彼の人生は何も成長しない。経済成長が滞れば、新規雇用は見送られ、すでに雇用されていた労働者は放出され、失業者となって生活保護を受けるか「消滅」せざるを得なくなる。政府は生活保護や社会保障が急務になると国家財政が厳しくなるので、雇用の促進と企業からの税収増加を期待して大規模な財政支援を資本家企業に対して行う。しかしその結果、太るのは資本であって、労働者はますますその生命力を過酷に資本によって吸い取られるしかないのだ。消費税などで労働者は重税に苦しみ、その徴税された税金の行く先は企業への政府の大規模財政支援となって、資本をどんどん太らせることになる。

 では、資本家企業がお互いに競争をやめて、「成長」をあきらめ、現状維持でなんとかやっていくようになるのか?そんなことは不可能である。なぜなら、利潤を増やすことができなくなった資本は過剰資本として資本そのものを圧迫し、その存在を脅かすことになるのだから。その状態で、労働者は、社会が求める生活必需品を作り出そうにも、それに必要な生産手段を資本が私的に所有しているのだからどうにもならない。資本主義的私有が崩壊するか、労働者が飢え死して社会が崩壊するかどちらかであろう。

 労働者は未来永劫「清く貧しい」生活に甘んじ、貧しいけれども「幸せな」生活を送るのか?そんなことはあり得ない。それは数百年の間、現在に至るまでに収奪され続けたあらゆる過去の労働の集積として、今日まであらゆる生産手段を含む巨万の富を資本家に提供し続け、自ら生み出した富をを資本家という他者の所有物として築くために生命力を捧げ尽くしてきた、のべ数百億もの労働者の人生を、あまりにも蔑視した考え方であり、歴史観である。われわれの目の前にある数千兆ドルもの地球上の富は、一握りの資本家が私的に所有しており、それを巡って資本家同士の争奪戦を生み出しているが、それは本来、全世界の労働者階級に取り戻されねばならない富なのだ。

 人類社会全体が、本当に成長できるためには、地球上のあらゆる場所で、社会全体が必要とする富を生み出している個々の労働者が「労働者階級」としてたがいに結びつき、生産手段を自らの手にとりもどし、直接その社会のあり方や成り行きを制御していけるような経済の仕組みを持たない限り、社会全体の成長がその構成員である一人一人の労働者の人生における成長の合体されたものになることは決してできない。そして資本主義社会の基本的経済システムを前提にするのであれば、それは絶対に不可能である。これは確信を持って言えることである。

 そのことをラトゥーシュはいったいどう考えているのだろうか?

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