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2010年9月17日 (金)

「大きな官か小さな官か」の問題か?

 今朝の朝日新聞「記者有論」欄に「経済大国・中国 大きな「官」のおかげなのか」という記事が出ていた。このところ日本を抜いて世界第二位の経済大国になった中国では、政府が民意を大事にしているというポーズを採りながら、政治的に都合の悪いところは、共産党と政府官僚が押さえ込み、経済的に不利なことが起きれば、目立たぬようにそれを規制し、経済を上から管理・指導する「大きな官」体制に、日本政府などは注目しているが、実は中国国内の企業では自由な市場の促進を希望する経営者も多く、自由な市場活動、つまり行き過ぎた「官」主導を望まない企業活動が中国経済を成長させているということに注目すべきだという内容であった。

 大きい政府による経済活動の指導規制強化か、自由な市場に委ねるべきかという問題の設定は、アメリカなどでのケインズ型資本主義かハイエクに代表されるような、非規制管理の自由市場主導型資本主義かというパターンと同じである。

 実はこの問題設定のパターンこそが問題を深く捉えることを阻んでいる。そこには「官」対「民」という図式があり、その内実が見えていない(あるいは覆い隠されているというべきかもしれない)のである。前にも書いたが「民」の内実は一方に資本家があり、他方に労働者があるという対立のモメントが内在しているし、「官」には、その政府が「民」の何を代表した政府なのかという問題が内在しているのである。

 中国という国を、アメリカや日本のような資本主義国を見るのと同じ視点で捉えることは出来ない。なぜなら中国は、毛沢東指導のもとで「社会主義革命」を成功させたが、その後、大躍進運動や文化大革命における大失敗への反省の中から鄧小平指導の、市場経済導入型「社会主義」を基板として発展してきた国である。これを、「国家資本主義体制」などとして捉え、「大きな政府」のケインズ型資本主義経済体制と同列に扱うようでは問題の本質はどこかに吹っ飛んでしまうのだ。

 中国では、「社会主義体制」という名目のもとで、労働者・農民の代表であり、それらの階級の指導部である共産党が恒久的な独裁体制を持っており、その党が指導する政府が国家機構を動かしている。しかし、こういう体制での上意下達的経済政策が失敗を重ねてきた結果、資本主義的市場経済のメカニズムを導入することで、経済体制を立て直そうとしてきたわけである。その結果、国内的には党・政府の指導の下で市場経済のメカニズムを使って資本家と労働者の関係を容認し育成したが、対外的には国際市場に進出し外貨を稼ぐために、国際的な資本主義経済の市場に他の資本主義国と同じ土俵で参入することになったのである。

 だから中国の場合は、国内的な資本家対労働者の対立関係が、屈折した形を取り、その矛先が党・政府に向けられそうになると、「チベット問題」などのように力によってねじ伏せるか、日本企業でのスト問題や尖閣諸島問題のように愛国心や民族意識を利用して不満を国内から国外へと逸らそうとするのである。その一方で党・政府は国内の資本家を育てようとしているのである。

 一方アメリカではかつて1930年代の大恐慌で行き詰まった資本主義経済体制をケインズ型の国家主導での消費拡大型資本主義経済体制に切り替えることで、労働者階級をいわゆる「中間層」として変質させることに成功したのである。それ以後、アメリカ社会の中核になった「中間層」は、資本家と賃労働者の対立関係を表面的には覆い隠す機能を発揮してきたので、その後のケインズ型資本主義の行き詰まりに対して、むしろケインズ以前の市場主導型経済体制(国家の規制をなくして「小さな政府」を目指す)に復帰しようとする資本家の思想が共和党を支持する労働者たちにも受け入れられてきたと考えられる。

 しかしこの「小さな政府」型資本主義が失敗するのは時間の問題だった。それはすでに1930 年代に経験した資本主義経済体制の矛盾を本質的に克服していないため、ふたたび、しかもより深刻な状況において繰り返すことになったからだ。どのみち資本主義経済体制は、市場に任せておけばすべてうまくいく、という素朴な資本家の理想がまったくの幻想にすぎないことは(リーマンショックなどの)事実によって証明されてしまったのである。

 したがって、いま問題なのは、中国の労働者階級もアメリカの労働者階級も日本の労働者階級も、ともに、自分たちが日々働いてその成果を直接自分たちの生活を豊かにするために用いることができるはずなのに、なぜそれが出来ず、本来の意味で(ものを消費することだけではなく)豊かな人生を送ることができないのかを考え、その矛盾の深奥にある本当の問題を暴き出すことの必要性に気付くべきであろう。

 中国では豊になるのは一部の資本家や党・政府官僚たちか、その縁者たちであり、大多数の労働者や農民は豊になれない。むしろ彼らの生活水準の低さを利用して海外からの富を獲得して豊になっているのは、社会主義体制が否定していたはずの資本家や「労働者・農民の代表」であったはずの党・官僚たちであるという事実を労働者階級が知るべきであろう。そしてアメリカや日本の労働者階級は中国の労働者の低賃金労働という犠牲のもとに、安い生活資料を得ることが出来、しかもそれが一方で資本家により賃金を抑制したり、安い労働力を求めて国内の生産拠点を撤退させ、雇用を控えさせる原因を作らせたりしているという事実を知るべきであろう。

 そこには「大きな官か小さな官か」という問題設定では決して見えてこない問題の本質があるのだ。

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