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2010年9月 3日 (金)

ハイエクの「自由主義」をめぐる問題について(その4)

 資本主義生産様式での、社会的に要求される生産物の生産が、「市場原理」として現れる価値法則の「見えざる手」によって社会全体としてバランスを保たれているとすれば、それは、社会的分業としての資本家的企業への社会的な労働力の配分の調整(多くの需要を満たす分業種では多くの生産物が生産されねばならずそれには多くの労働力が必要となり、その反対に需要が下がった分業種では労働力が過剰となる)としてそれが作用するからであるといえる。

 社会全体として必要とされる生産物は、さまざまな種類があり、必要とされる生産量もそれによって様々であり、しかも時々刻々変化している。資本家は、つねに自分の企業で最大限の利益を上げるために、商品市場での商品価格を調整し、需要が多い場合には価格を価値以上につり上げ、需要が少なくなれば価格を価値通りかそれ以下に設定してでも競争に打ち勝とうとする。一方、労働力商品市場では、モノとしての商品の生産に必要な労働力の価格(労働賃金)を、やはりその需要供給によって上げ下げする「自由」を持っている。同様に、彼の企業が所期の利益をあげられない場合には、余った労働力を廃棄し(クビにする)、労働力商品の新規購入を控える(労働者の雇用を控える)「自由」を持っている。

 これを社会全体として見れば、社会的に要求度の高い生産物を生産する分業種を経営する資本家は、より多くの労働力商品を購入して、より多くの商品(モノとしての)を生産し、より多くの利益をあげることができるが、やがてそれを横目で見ていた、要求度が低下した分業種を経営する資本家は、その分業種の内容を要求度の高い分業種と同じ内容に変更するか、その企業を倒産させて、新規に要求度の高い分業種の企業を立ち上げるであろう。それによって、要求度の低い、したがって社会的に需要が減少した業種の企業に雇用されている労働者は、クビになるか企業倒産で職を失うことで、その分業種における労働力は減少する。職を失った労働者の多くはその分業種に特化された専門技術を身につけているがゆえに、再就職が困難になるが、運良く別業種の企業に雇用されれば、そこでは従来の専門技術を捨てて、一層不利な状況で働くことになる。

 こうして、価値法則のもとで、社会的に必要な分業種への労働力の配分が「見えざる手」によって突き動かされている個々の資本家の「利己的な目的」の集積によって「達成」される。資産を持つか、資本をかき集めることができる資本家は、「自由」にその経営する業種を変えることができるが、労働者は、つねにそれによって翻弄され、社会的にはつねに一定の失業者が存在することになるのである。

 こうして資本主義社会は、価値法則の下での「平等な」商品経済社会の完成された姿として、同時に商品(モノ)ではありえない労働力をも商品として売買するという形で、その本質において最後の階級社会として成立しているのである。

 ここでもう一つ重要なことは、個々の社会的分業としての資本家的企業の内部で行われている「企業内分業」では、生産的労働者は、その労働過程を、資本家が求める相対的剰余価値の生産に相応しい形で分割され、個々の労働者の分割労働の過程から生産の目的意識が奪われると同時に、その奪われた生産の目的意識が、資本家の利潤獲得というきわめて抽象的で利己的な目的意識に取って代わられているのである。

 したがって、一言でいってしまえば、資本主義社会全体を動かしている価値法則の「見えざる手」は個々の資本家の利益追求というきわめて抽象的で無内容な、したがってある意味ですべての資本家に共通な目的意識によって動かされている、人為的なしかし個々の資本家の意図を越えた形としてそれらを支配する「法則性」を発揮するのである。

 資本家にとって自分の企業で何を生産するかということよりも、どう利益を追求するかの方がはるかに重要な問題であり、だからこそ資本家はその業種内容を「自由に」変えることができるのである。例えばトヨタはたまたま自動車生産技術に関する知識の蓄積と生産設備を「私有」するためにそれが市場での立場を圧倒的に有利に導くので、自動車を作ってるが、世界市場の変化如何によっては、利益をあげるために金融企業に変貌することすらありうるだろう。そのために切り捨てられるであろう多くの生産労働者や自動車設計労働者やデザイン労働者の運命がどうなろうとも、経営者の本音としてはどうでもよいのである。

 そこには、社会全体の生産を担う労働者の生活を基準としたその運営に関する計画性などは市場原理への「攪乱要因」以外の何物でもなく、利己的な利益追求のみがリアリティーを持つという資本主義社会特有の「倫理」が横たわっているのである。

 そのことは、池田信夫の次のような言葉に典型的に表現されている。「...だから日本の「格差社会論」のほとんどは、実証データにもとづかない情緒的なものだが、かりに格差が大きいとして、格差に反対する人たちは、いったいどうしろというのだろうか。すべての人の所得を完全に同一にしろとでもいうのか。もし能力に応じて分配をしろというのだとすれば、その能力はどうやって測るのか。ハイエクはこうした「社会的正義」の要求を、社会主義の一種として斥ける。」(p.164)そしてこれに続けて池田は次のようなハイエクの言葉を引用する。「社会主義者がめざすように、各人が受けるに値すると考えるものを、共通の具体的な目的をもつシステムを当局が全員に押しつけることによって保証しようとすることは、何百万もの人々の知恵や願望の活用と自由文明の有利性をわれわれから奪ってしまう逆行への第一歩であろう」(p.164)。

 さて、これでハイエク=池田の本質が明らかになったと考えるが、皮肉にもこの本が出版された直後に世の中は、再び、ケインズ的資本主義への回帰の兆候を見せている。要するに、ケインズとハイエクの対立は、資本主義社会がその「成長の限界」に達しているのに対して、そのカラの内側でそれを乗り越えようとする、資本主義社会の本質的矛盾を理解しようとしない経済学者たちによる「疎外の両極」的対立であると考えられる。このような徒労の論争が繰り返されている間に、いかに多くの労働者が過酷な労働や失業に苦しみ、生きる道を見失い、あるいは生きるために兵役につき、戦争で死んでいっているかを、彼らは見ようとしない。彼らにとっては、人々がそうするのも「個人の自由」だからであるというのだろうか?

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