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2010年9月 2日 (木)

ハイエクの「自由主義」をめぐる問題について(その3)

 前回の続きである。池田信夫によるマルクス批判は、前回述べたようなマルクス経済学における価値法則の解明というの基本的テーマを無視して、最小限ルールによる最大限「自由」に裏打ちされた諸個人の「不完全な知識」の集積による市場経済の均衡メカニズムを、社会主義における「完全知識の想定」とそれによる目的設定、そしてそれにもとづき中央から上意下達的に実行される「計画経済」を対置させて批判するのである。

 しかし、マルクス自身は、そのような「完全知識」(これ自体が明らかに不可能な前提)や硬直化した社会目的を想定した「社会主義経済」などおそらく考えもしなかったに違いない。これらはすべてマルクス以後の(正確に言えばスターリン以後の)「マルクス的経済学」の産物である。1920年代後半、「永続革命」を主張し、当時ロシア革命を成し遂げたソ連を資本主義を脱したばかりの「過渡期の社会」としてとらえ、絶えざる革命を通じて世界的な規模で徐々に社会主義社会を実現していくことを主張したトロツキー派を、スターリン派が追い落とすことに成功し、一国内での社会主義革命が達成できると主張したのである。そこから生み出された数々の「計画経済」的政策が一党独裁体制の官僚的指導部のもとに打ち出され、労働者は、上からのノルマにしたがって労働を行うことになったのである。ソ連東欧型の「社会主義経済体制」はその後、資本主義陣営側の市場経済的メカニズムを一部採り入れたりして修正されるが基本的には、こうした上意下達的計画経済であって、その本質的な欠陥が、労働者の主体性の完全な喪失という形で現れ、労働者の生活自体が、閉塞的で「自由のない」生活になって行ったと考えられる。

 しかし、これはイギリス労働党政権などにおけるケインズ的消費主導型政策導入による資本主義体制内での「社会主義的」経済とは根本的に異なる。ソ連東欧型「社会主義」経済体制では基本的に、ケインズ型資本主義経済体制と異なり、「資本と賃労働」という関係が存在しなかったからである。しかしこうした違いを無視する池田=ハイエクは、十把一絡げにドイツのナチス体制までもひっくるめて、「全体主義的体制」として批判するのである。そうした池田=ハイエク的「全体主義的計画経済」の対極に置かれるのが、ハイエクの「意図せざる結果による均衡」に任せる、「自由な」個人の利己的活動なのである。

 ここで特徴的なのは、ケインズもフリードマンもハイエクも、みな、資本主義経済の「市場」つまり資本の流通および分配の局面のみを中心に論じており、資本の生産過程についてはまったく触れていないことである。マルクスの労働価値説はまさにその資本の生産過程に関わる問題を分析した結果なのである。どのような社会においてもその構成員が生活するに必要な資料を作り出せなければならないし、さらにそれを越えて、社会の共通ファンドとなり、社会の発展のために消費される剰余生産物が必要である。これを資本主義社会は、生産手段を所有する資本家階級と、それを持たずに労働力を売りに出すことで生活する労働者階級によって、行っている社会である。労働者は自分の労働力を売ることで、生活に必要な貨幣を賃金として受け取るが、これは、生活資料商品を購入することで再び資本家の手に還流する「前貸し資本」であり、資本家が商品を売って獲得する所得とは本質的に異なる。一方、資本家は労働者の労働力を自分の所有する生産手段と結合させ、労働者の労働力を再生産するに必要な価値の生産を越えて、剰余価値を生産させ、それをすべて自分の所有物として獲得する(これを搾取という)。彼はその剰余価値部分を含んだ商品を市場に出して売ることで、利潤を得、それによってまた新たな生産手段や労働力を購入する。したがってそこでは本来の商品市場と労働力商品の市場(労働市場)が同じ「市場原理」つまり価値法則で動いているのである。

 価値法則は、市場のメカニズムを動かす法則として、資本家および労働者各個人の意志から独立した「外力」として作用するのである。しかし資本家は、その中で自らの利益追求に関して障害となるどのような拘束も取り除き、「自由」に商品の売買と利益獲得競争をすること(その中には労働者の解雇や不採用の自由も含まれる)ができることを望んでおり、市場が価値法則にしたがって作用する成り行きを「意図せざる結果」として受け止めているのである。

 一方、労働者は、前貸しされた生活資料購入のための貨幣を、賃金として受け取り、生活に必要な商品を購入した後には、最良の場合でさえわずかな蓄えを残すことしか出来ず、再び労働力を資本に売りに出さねばならなくなる。彼にとっては、自分の労働が生み出した価値の大半を資本家に搾取され続け、労働力を売りに出さねば生きてゆけない生活を死ぬまで繰り返すことになる。彼に与えられた「自由」は、生活資料商品を買うこと、つまり自らの労働力の再生産だけである。

 したがって価値法則の下ではモノとしての商品の売買とは違って、労働力商品における「売りと買い」は決して同等に「自由な」な関係で行われるのではない。しかし、そのことによって「見えざる手」としての価値法則は「法則」として成り立っているのである。

 資本主義社会が、「最大限自由」とそれによる諸個人の利己的活動が結局は「見えざる手」としての市場原理によって「意図せざる結果」を伴いながら均衡を保っていく、というハイエク=池田の主張が、実は商品売買での決定的に不平等な関係を前提とした体制のもとで成り立っているのである。これが、マルクスの言うように、資本主義社会が、表面的には自由と平等を求める社会のように見えながら、実は「最後の階級社会」であるということなのだ。

 それでは、資本主義的市場のメカニズムとして作用する価値法則は、生産場面でどのように作用するのであろうか?これは分業の問題と関わることであるが、次回にそれについて述べることにしよう。

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