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2010年9月27日 (月)

資本論を「科学としての経済学」に純化しようとした宇野経済学最大の欠陥

 このブログでしばしば宇野弘蔵とその学派によるマルクス経済学への取り組みに触れてきたが、これまで私自身の宇野経済学に対する立場を必ずしも明確にしてこなかった。そこで、今回は私自身が感じている宇野経済学がかかえる最大の欠陥について述べることにする。

 私自身が、マルクスの資本論を理解するために、宇野の「経済原論」や「価値論」から多くのものを学んできたことは事実である。しかし、宇野学派のアプローチの仕方が見えてくると共にその欠陥もまた見えてきたのである。それがもっとも顕著に表れているのが、次のような、科学とイデオロギーに対する考え方である。

 宇野は「資本論の経済学」(岩波新書)で唯物史観と経済学の関係について次のように述べている。「両者を同時に、いいかえれば唯物史観を経済学の中で説くということはできないのです。逆に経済学を唯物史観によって説くこともできません。たしかにマルクス自身は唯物史観を経済学研究の「導きの糸」としたとはいっていますが、唯物史観自身はまた経済学研究の過程の内にえられたものであることも示唆しています」(p.89)「いいかえれば経済学は上部構造から内容的に既定されない原理を明らかにしえないかぎりは、上部構造に対するその決定的な、能動的な作用も明らかにしえないわけで私は、唯物史観を科学的に証明する第一歩は、ここにあったのではないかと思うのです」(p.91)

 こうして宇野は資本論を「科学としての経済学」をめざす経済原論として整備しなおし、それはあたかも永久にその法則性が貫徹されるかの様な経済システムのメカニズムを明らかにすることが目的とされなければならないとするのである。そして「原理論」が明らかにされることによって、はじめて、資本主義社会がどのような歴史的な経緯によって形成され、どのような方向に向かいつつあるのかを明らかにする「段階論」が展開されうるのであり、それに基づいた「現状分析」が可能になる、としている。

 こうした宇野の主張は、1950-60年代当時の「社会主義国」などによる「科学や芸術は社会主義のために奉仕すべきものである」という考え方に対するアンチテーゼあり、その意味では資本論を一層深く理解するうえでの実践性があったのであるが、その反面次のような問題が浮かび上がってきたのである。

 宇野は、一方で、経済学のような社会科学は、それ自体が歴史的に形成されてきた対象を扱うために、イデオロギーと科学的立場を明確に分離しなければならないと主張したのち、自然科学はそれとは違うとして、次のように言う「技術的に利用される自然科学的知識は...、いわば機械的に全体から切り取られた部分で実践的に利用されるわけで、それが社会的にどういう影響があるかは問題にせられないできていたといってよい。原子力が戦争に使われてはじめて驚いた自然科学者は、もともと自分の科学的役割を知らなかったといわれても仕方ないでしょう。それは平和的にも使われれば、戦争にも役立つのです。資本主義にも社会主義にも使われるのです」(p.176)こうして宇野は科学の中立性を主張する。

 宇野も述べているように、イデオロギーは科学ではなく、つねに不確実であいまいな要素を内包しているが、(政治的な)実践には不可欠なものである。しかも日常性や社会通念という意識の内に現れる現社会のイデオロギー(多くの人たちはこれを普遍的なものと思わされている)が、歴史的に形成された「上部構造」の一部であり、これを打ち破らないかぎり変革や政治的実践に必要なイデオロギーが得られないことは確かである。そしてその虚偽性を明らかにするのが科学の役割であるともいえる。しかし、それをなし得るはずの科学は果たしてどうやって歴史的に登場したのか?

 歴史的に形成されてきた社会が、それ自身の内部からその社会自身を批判し、その矛盾を明らかにしうる主体を生み出してきたという事実から見れば、イデオロギーも科学もそのような歴史性をもった存在であり、科学だけが「中立」であるはずはないのである。科学も技術も資本主義社会のイデオロギーの中で育て上げられ、体系化されたのである。しかもその担い手である科学者や技術者は資本主義社会の中での一つの職業として、言い換えれば一つの分業種としての地位を与えられてきたのであって本来中立的ではありえない。しかし、それはまた同時に、資本主義イデオロギーを否定する主体(労働者階級)の登場により、それを越えた普遍性を持ちうるものとして再把握され、再構成される可能性を持っているといえるのである。

 核兵器を開発した科学者や技術者は、それが最初から戦争で大量殺戮に用いられることは承知していたはずである。彼らは完全に資本主義イデオロギーの中で育て上げられた人たちなのであり、その社会における「持ち場」に忠実であったはずであるのだから。むしろ、それが実際に大量殺戮に用いられ、悲惨な事態を招いたという事実による結果におそれを感じ、そこではじめて自らの存在の矛盾に気づいたと見るべきであろう。

 宇野は、イデオロギーから離れ、資本論を原理論として科学的に「純化」することによって、資本主義経済のメカニズムを明確にさせようとしたのであるが、その一方で、資本論がもっている、本来的目的でありモチベーションであるところの、労働者階級(資本主義社会が生みだし、それ自体を否定する主体)解放への実践のための理論的武器としての機能がどこかに吹っ飛んでしまったようである。だから宇野派がいかに原理論を整備し、段階論を論じ、現状分析(実践的な立場や実体がなければ本来の意味での現状分析はできないはず)をしてみても、世の中はまったく変わらず、事態は悪くなる一方である。これでは命がけで、その生涯をかけて労働者階級の解放のために資本論を書いたマルクスも浮かばれまい。宇野学派の先生たちは、学者としての地位よりも大切なことがあることに気づき頭を切り換えて欲しい。マルクスがそうであったように!

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