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2010年10月19日 (火)

私たちが求める「自由」とは何だろう?(続き)

 前回の続きである。資本主義社会での「常識」となっているブルジョア的「個人の自由」が、私有という概念と結びついたものであることは前回述べたが、経済的な意味では、その私有による個人の自由が、社会的生活が成立するために必須の条件(例えば、土地や生産手段など)をも支配していることから来る矛盾が、市場の無政府性であるといえる。ハイエク的自由や自助努力にもとづく「小さな政府」を理想とした、アメリカ保守派の思想もこうした私有に基づく個人の自由から来ていると思われる。社会にアンバランスが生じても市場の動きに任せておけばいつかは再びバランスが保たれるようになる、という考え方で、その市場のもたらす「レッセフェーレ(アダム・スミス)」的市場の成り行きへの絶対的信頼は、個人による商品売買の自由という信念に基づくものと思われる。しかしその結果はもう80年も前に明らかになったような大恐慌と失業と社会の荒廃という矛盾の現実である。

 それに対する民主党などいわゆる「リベラル派」の考え方は、そこからこぼれ落ちる貧困層(実はこの人たちが社会の底辺を支えている)や自助努力ができない人々には政府が公的な立場で支援すべきであり、市場の動向に対しても政府が社会全体の立場からこれをある程度コントロールする必要があるという「大きな政府」のコンセプトである。

 後者の考え方は基本的に、1930年代に起きた、金融大恐慌による資本主義社会の危機的な状況からのケインズ的政策による脱却の経験からくる考え方であろう。

 しかし、そのケインズ的政策も労働賃金の高騰や商品市場の国際化による、アメリカ製品の競争力の低下とそれによる失業率の増加などという矛盾が明らかとなり、結局政府の負担増と財政的行き詰まりを生じさせ、増税による労働者階級へのさらなる圧迫という結果をも生むことになった。こうして後者も1980年代にはいったん破産宣告を受けたのである。

 そしてその後に登場したのがレーガン、サッチャー型「小さな政府」の資本主義社会である。そこで叫ばれたのがハイエク的自由やシカゴ派の主張にもとづく、古典派経済学への回帰であった。それはケインズ的政策による見せかけの理想社会が挫折するありさまを目の当たりにした支配層が、すでに蓄積した莫大なブルジョア的な私有財産を後ろ盾として行った、現代アメリカ的な「自由」の再アピールであったのかもしれない。しかしそれは他方では軍需による純粋消費とコンピュータおよびIT革命をテコとしてそれへの資本の結びつきの再構成を行うことが前提であった。それがブッシュ Jr.に至るまでの、「自由陣営の警察官」という自負によるアメリカ的戦争遂行型資本主義の体質を生んだとも考えられる。

 こうしてアメリカの「ブルジョア右派政党」である共和党と「ブルジョア左派政党」である民主党の対立は、「自由の王国」であるアメリカ社会の矛盾を巡って互いに補完し合いながら堂々巡りをしてきたのである。時代や状況がそれぞれ異なるが、基本的な構図はイギリスや日本も似たような状況と言えるだろう。

 こうした20世紀の歴史の中で、社会が成立するために必要なあらゆる労働や要件が私的財産を築くための手段となるという資本主義的社会のもつ根本的な欠陥を支える「ブルジョア的な私有による自由」の矛盾を乗り越えようとした、社会主義陣営も、やがて一国社会主義を唱えるスターリン派の勝利によって、「社会的共有化」への道を誤り、一党独裁体制の恒常化とそれによる国家機構の一元的支配という形を生みだし、労働者階級による生産手段の共有化と労働の自主管理を目指した労働者評議会(Soviet)は、実質的に崩壊したのである。そこに生まれたのは党官僚を頭とした完全なトップダウンの計画経済体制と生産的労働の国家管理にもとすく統制経済体制であった。そして皮肉なことにその「ソビエトなきソビエト国家」が「自由のない社会」とされて、アメリカと対峙し、東西冷戦状態を生み出して行ったのであった。

 こうした状況に対して、「自由の国」を自負するアメリカ人の中からは、そのような社会主義国家をヒトラー同様の「悪」と捉える風潮が一般的となり、社会主義圏の崩壊したのちアメリカ的自由が普遍性を獲得したかのように見える今日にいたっては、"Obama Marxist" などという馬鹿げた誹謗中傷が出てきたりするようになったのである。

 私たちは、いま、ブルジョア的私有に基づく自由を基本とした資本主義社会がそうなるべくして崩壊に近づきつつあるとき、ブルジョア左派政党であるわが民主党のマニフェストやパフォーマンスに過度な期待を持つことなく、そしてなによりも、かつての社会主義国の「社会的共有化=トップダウン的国有化」と考えるような誤りを徹底的に批判し、その失敗を教訓化することから、社会的に必要な生産を行う人々が主人となり、社会的に必須な要件をそれらすべての人たちが共有化できる条件を確保し、それを前提として初めて可能となるような、本来の意味での個人の自由の実現を、模索べきなのだと思う。

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