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2010年10月12日 (火)

閑話休題:ネット上でのまともなディスカッションは不可能なのだろうか? 

 まだ庭の広葉樹が色づき始めるには早いが、モズの鳴き声が目立つようになってきた。デザイン系の国際学会があちこちで開かれるようだが、毎月の乏しい年金収入では、国際学会への参加もままならなくなり、ここ数年は海外に行くことも少なくなった。学生とのチームを組めなくなった最近では国内の学会も足を運ぶことが少なくなった。こうして研究者の世界から遠ざかる生活を重ねているうちに、一人でいろいろなことをあれこれ考える時間が多くなり、それを忘れてしまわないようにブログに書いておくことを続けている。しかしずっと一人で物事を考えていると、つくづく他者との対話やディスカッションが大切であることが分かってくる。他者の考え方が完全に分からなくとも相手のいわんとすることと自分が考えていることとの違いに気づくとき、それが自分の思考の引き金を引き、考えるためのモチベーションになるからだ。

 人間の思考というものは、本来こうした他者との対話によって進展するものなのであろう。しかし、一方で、他者の考え方に足を引っ張られ、自分の考えが固まらないうちに崩れてしまうこともある。そういうときは一応相手のペースにおいて反論できない場所に落ち着くことになるが、あとから少し時間が経って、それが本当に納得したわけではないという自覚が徐々に強まり、次にその相手にぶつかったときに激しく反論することになることもある。すると相手はこの前の態度と違うといって苛立つことになり、まともな議論ができなくなることもある。しかしこれは自分の内部で自分の考え方の不十分な点に気づかされ、それを再構成する過程での出来事であるといえる。

 学会での発表とそれに対する質疑も、多くの場合、すれ違いとなる。短い時間にいろいろな疑問をぶつけようとするのだから、仕方がないのかもしれないが、相手の言うことからその意図を汲み取ることの難しさをつくづく感じさせられることがあった。

 しかし、もっとも許し難いのは、反論を持った相手をそれと知りつつ完全に無視することである。それが、研究者の世界においてもつねに存在する「支配的立場」を背景にした場合には、反論を持つ人物に対する「無視抹殺」という政治的な威力を持った行為になるのである。これもいまの社会の「民主主義」の裏面であると思えば、いちいち腹を立てても仕方がないとあきらめるしかないが、ことほど左様にまともなディスカッションというのは簡単には始まらないもののようだ。

 さて、このような次第で、日々孤独な思考を重ねるしかない筆者であるが、それゆえにインターネットの世界(まだブログという形式でしかエントリーしていないが)がこの状態に風穴を開けてくれるかと期待したが、以外とディスカッションが成立しない一方通行の世界であることが分かってきてちょっとがっかりしている。

 匿名の「にちゃんねる」のような世界は無責任な罵倒や悪意に充ち満ちているし、Twitterの様な世界は会話が細切れ過ぎて複雑な考え方が伝わりそうにもないので興味はないが、正眼に構えた剣を打ち下ろしてくるようなまともなディスカッションというのはインターネット上ではできないものであろうか?もっともそうなると負けてばかりで立つ瀬がなくなるかもしれないが、それはそれで自分の思考を磨くことにもなる。

 ディスカッションをしているうちに、この相手には自分の考えは到底伝わらないだろう(別な言い方をすれば、「世界が違う人」)とあきらめざるを得ないことも多い。しかし、そうしたことからは逆に、まともなディスカッションができそうな相手を掘り起こしてくることもできるだろう。

 どちらにしてもディスカッションの目的はそれに「勝つ」ことではなく、己を磨くことにあるといえるだろう。

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