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2010年11月28日 (日)

20世紀後半からの資本主義社会を考える(4)バブルという価値のない価格の一人歩き

 1980年代は、日本の戦後資本主義経済が、20世紀末からおおきな変わり目に立つ前触れの時代であったと考えられる。もともと人間の労働が生み出したものではない大自然の一部である「土地」を、商品として扱うがゆえに、労働によって生産し供給することができない、したがって本来価値のないものに、単なる需要供給の関係だけで市場価格が付けられるために、際限なく高価になり、それに目を付けた投機家たちが不動産に投機をすることでますますその価格が値上がりする、という悪循環に陥ったのである。そしてほとんどの資本家たちが、不要な消費を加速することで蓄積した莫大な資本をそれにつぎ込みさらに大きな利益を得ようとした。それが崩れるべきして崩れ始めたとき、その投機的資金をバックアップしていたのが金融資本であったため、それに依存していた産業資本や商業資本は総崩れになり、いわゆる「バブルがはじけた」状態となったと考えられる。

 このバブルがはじける前の約10年間は、日本の資本主義経済が世界をリードしていくかのような印象を与え、自動車産業、家電音響産業、カメラなどの精密機械産業、コンピュータなどの電子機器産業、などなどいわゆるハードウエア関係の産業は日本の資本家たちが主導権を握ったかに見え、第5世代コンピュータ開発やベイエリア開発など大型プロジェクトが政府主導で立案され、日本が資本主義経済社会の中心に躍り出た観があった。アメリカから「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本が出版されたのもこの頃だった。

 当時デザインにはいくらでも金をかけることができ、イメージを刷新しようとしていたある企業のロゴマークのデザインに数千万円のデザイン料が支払われたこともあったようだ。また大型海外旅行やゴルフやスポーツなどのレジャーにも資本が集中した。そして、その中で、労働者階級はますますプチ・ブルジョア化し、生活資料購入のための前貸し資本である賃金も高騰し、それによってますます奢侈品化した商品を購入する傾向が強くなった。そのため大都市には高級ブランドの商品を売る店が並び、デザインも高級志向になった。また賃金の先取りである長期ローンを利用して高価なマンションや住宅を購入することも行われるようになっていった。

 一方、ハードウエア面では日本との競争に負けたアメリカは、コンピュータ科学での優位性を武器に、ソフトウエア産業で巻き返しを図った。やがてこれが結局1990年代から始まるインターネット時代をリードしていくことになる。

 このことは資本主義社会のひとつの法則性ともいえる「モノづくりの空洞化による寄生的産業への依存的傾向」という事実を裏付けている。かつてイギリスが19世紀中葉には産業資本が中心であり、実体としての生産物の生産(いわゆる「モノづくり」)が資本に利潤をもたらす主要な道であったのが、やがて19世紀末には金融資本がそれを支配し、金利生活者的「金貸し国家」となり、国内の生産的産業が衰退していったのと同様に、20世紀末のアメリカでは、やはり生産的産業資本が衰退し、ソフトウエアなどのような、実体のない、したがって労働価値によって市場価格が拘束されにくい商品や新興資本家(ベンチャー起業家)への投資などでの優位性を利用するようになり、それに依存していくことになるのである。もっともアメリカの場合、すでに20世紀後半から、金融資本が産業資本を支配していたと考えられるので、その意味ではイギリスとは少し事情が異なるかもしれない。そして後述するように、やがて日本の資本主義経済体制も21世紀に入って同様の道を歩むことになるのである。

 しかし、忘れてはいけないことは、バブル期に動いていた巨額の資本は、実は、すべての社会的に必要な労働を行う労働者が生み出した価値が資本として収奪されたものであるということだ。しかもそれが不要な消費を生み出さなければ成り立たなくなった資本主義経済を水ぶくれさせ、価値実体のない土地、投機、そしてイメージやレジャーなど法外な価格が可能な「商品」への投資を通じてそれらの売買をどんどん回転を速めて行くことによって利益をすくい上げ、莫大な資本を資本家間での競争により再分割しようとした結果なのだ。

 その中でプチブル化した労働者階級は、少しばかりの貯金を貯め込むことができ、それを住宅や教育費などに回すことができるようになり、レジャーを楽しむこともできるようになったのである。だが、こうした労働者階級の得た労働賃金が消えていく先にはそれを利益として吸収する資本家たちが待ち構えているのであって、労働者階級の手に残されるものは、再び労働者として資本家のために働き続けなければならない生活なのである。

 寄生的産業による恣意的な市場価格つり上げや、莫大な投機的投資や、資本の回転を速めることでと利益を吸い上げるというアクロバティックな末期資本主義経済が崩れるべくして崩れた「バブル崩壊」後の日本資本主義経済は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の自信もあっというまに崩れ、それ以後再び世界のリーダーシップを握れる立場にはなれなかったのである。そしてその「苦難の1990年代」に世界情勢は一変した。それは第一に、東欧「社会主義」圏とソ連の崩壊、そしてバルカン諸国の内戦や湾岸戦争などを通じたアメリカの政治的軍事的優位性の確立である。第二には、中国の台頭である。そして第三に、地球環境の汚染と資源問題の深刻化である。これらが、21世紀初頭の世界を変えていくことになったのである。

(続く)

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