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2010年11月24日 (水)

20世紀後半からの資本主義社会を考える(2)過剰な消費で過剰資本を処理する経済体制

(前回からの続き)その中で、資本主義諸国の支配層は、互いに手を結びあい、G7やG20という形でお互いの利害の調整と支配体制の維持を図っている。この圧倒的な支配体制が実はもはや崩れかかっているというのに、それに代わる世界的な秩序を生み出す勢力は存在せず、ただ展望のないテロリズムだけが恐怖を煽っているように見える。

 もし、中国共産党は、自分たちが資本主義社会の矛盾を乗り越え、新たな世界を築いていく歴史的な展望があるならば、それを示すべきであろう。しかし彼らはもっぱら「白い猫も黒い猫もネズミを捕る猫はよい猫である」「豊かになれる者から豊かになればよい」という鄧小平の言葉に従って資本家の育成を図り、党や政府の官僚は、労働者階級への搾取体制を推進しているとしか思えない。「ネズミを捕って」「豊かになった」資本家や官僚たち、そしてその「恩恵」によってほんの少しリッチにになってきた一部の労働者たちが形成する中間層は、かつての高度成長期の日本の「夢」を拡大再生産しようとしているかのように見える。しかしまだおそらく80%以上の労働者、農民は貧しい生活を強いられ、その虐げられた生活への反発は、一方では、働いて稼ぎ「豊かに」なるための強い意欲となり、他方では学校で教わった「悪い国」日本への反発となり、あるいは支配層への隠れた反抗ととして鬱積したエネルギーになって蓄積いると考えられる。

 だが、もし、中国のこれら圧倒的多数の貧しい労働者や農民たちがすべて「豊か」になったとしたら、どうなるのだろう?労働者は資本家たちが作った商品をどんどん買わされ、それを次々と廃棄し、「豊かになった」と錯覚しているうちに地球上の地下資源は使い果たされ、環境悪化は急激に進み、その間に一握りのグローバル金融資本家への富の局在化はどんどん進み、その奪い合いから世界全体の生産体制が破綻してしまう可能性すらある。

 ここで考えなければならない重要なことは、われわれが考える「豊かな生活」とは実は「大量な購買」に過ぎず、資本家と違って労働者によって購買された生活資料商品は次の生産に結びつくことなく、生活において消費されるか、あるいはほとんどの場合その使用価値を全うしきれずに廃棄されるのである(だから決して大量購買=大量消費ではない)。一方、資本家はわれわれが大量に商品を購買してくれることにより、利潤を増やし、それをふたたび生産手段と労働力の購入に回し、商品の生産に結びつけることで資本を回転させることができ、「豊か」になっていく。だからいったんわれわれに売ってしまった商品がまだ何年も使えるにも拘わらず、そんなことにはお構いなしに次々と新製品を作り、どんどんわれわれに買ってもらおうとするのである。

 資本家階級は、すでに20世紀前半の段階でその富が過剰に生産手段に注ぎ込まれることで生じる利潤への圧迫を回避することができなくなり、大恐慌というカタストロフを経ることで、なんとか考え出した方法として、労働者の生活資料商品生産にかこつけた過剰な消費によって過剰資本を消尽させながらそれを通じて資本蓄積を拡大して行く方向に舵を切ったのである。これが湯水のごとく資源やエネルギーを消費しながら「成長」しなければ倒れてしまう20世紀後半型資本主義経済の「隠れた秘密」なのである。

 たとえていえば、ため込み過ぎた燃料による自らの過剰な重さによってスピードがおちガソリンタンクに、穴を開けてガソリンを無駄にまき散らしながら走らざるを得なくなったクルマような状態である。何でこれを「豊かな社会」と言えようか?莫大な量の「しなくてもよい無駄な消費」をまるで「豊かな生活」であるかのように見せかけてきた社会、これが20世紀後半以降の資本主義社会の特徴であるといえる。

 そこには資本家同士の市場での競争の中で、一方に、本当は生産者であるにも拘わらず、むなしい「消費者」にさせられてしまった労働者階級があり、資本家を競争で勝たせるために何十年も労働力を提供し続け、定年を迎えても、終の棲家を維持することすらおぼつかなくなって愕然としている姿があり、他方では、労働者に「賃金」として前貸しした資本が生活資料商品の販売を通じてすべて資本家の手に環流し資本の回転を促進し、労働者の労働が生み出した価値のすべてが「富」として彼らの手にもたらされ、それがグローバルな金融資本を太らせているという現実がある。そして、その体制が必然的に陥った破綻状況を、労働者階級の犠牲によって取り繕おうとしているのがいまのG7体制であるといえるだろう。

 われわれはもっと合理的に、必要なものを必要なだけ生産し、その生産にそれぞれの労働者がそれぞれのできる形で労働を提供することによってもっともっと、今とは比べものにならないほど少ない消費でも本当の意味で豊かな社会が築けるはずなのである。しかしそれができるのは決して私的な利害の獲得を基盤とした資本家階級とその代表政府ではありえないし、「社会主義」の看板を掲げながら資本家的に成り下がった共産党官僚の政府でもない。生産的労働を直接互いに分かち合うことのできる、国際的に手を結んだ労働者階級だけがそれをなし得るのだと思う。

(続く)

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