« 20世紀後半からの資本主義社会を考える(6)中国をめぐる世界資本主義の変化 | トップページ | 20世紀後半からの資本主義社会を考える(8)再出発に必要なわれら自身の反省 »

2010年12月 9日 (木)

20世紀後半からの資本主義社会を考える(7)崩壊と創出の狭間で

 資本主義社会は、いまや音をたてて崩れつつある。しかし、それに代わって主役となるべき労働者階級の組織的活動はまったく停滞している。おそらくそのことによる混沌とした時代が今後長く続くのではないかと思われる。

 アメリカ、日本、ヨーロッパなどの諸国を中心にして、20世紀後半から始まった、ケインズモデルを典型とする末期資本主義社会の繁栄は、過剰資本の蓄積を過剰な「たれ流し的」消費によって処理しながら資本蓄積を拡大していくスタイルの資本主義経済を確立させ、一方で、労働者階級を「消費させることによって搾取を可能にさせる資本の源泉」として位置づけながら、他方で、個々の資本家的企業間の市場での無政府的利益獲得競争によって、競合する資本家同士の利益配分を金融資本が調整し、金融資本への資本の蓄積を通して資本家への合理的利益配分を行うという形を定式化させたのだと思う。そしてそれが「国家」という形のもとでの国内経済全体の調整と外交などを通じた、国際資本市場での調整を行いながら、全体としては「民主主義」という政治的外観を持たせることによって、階級支配の隠蔽構造を維持させていると言えるだろう。

 いま、こうしたいわゆる先進資本主義諸国の経済社会構造が、中国、インド、ブラジルなどのいわゆる新興資本主義諸国の国際市場への進出によって、大きく変貌しつつあり、その相互依存度を高めていると考えられる。それは資本主義経済を普遍的な経済構造と考える人々(主として資本家とそのイデオロギーを代行する論者たち)にとっては、「次はアジアの時代や!」という風に見えるのだが、実は、歴史は繰り返すようで繰り返さない。中国やインドは、決してアメリカ、日本、ヨーロッパと同じ道を通らないだろう。

 その理由は、第一に、先進資本主義国が「民主主義」と「豊かな生活」を謳歌し得た背景にあった、その「カウンターカルチャー」としての、いわゆる「社会主義圏」の一党独裁的な労働者支配による経済が破綻し、その一部が一党独裁体制のもとでの資本主義経済化という形でグローバル資本主義経済の一環を形成しているということ、第二に、その「一人勝ちした」資本主義経済体制のたれ流し的消費の体質がもたらす必然的帰結としての自然破壊と地球環境の汚染が、国境を越えたグローバルな「自然界の絶対的制約条件」として資本主義経済体制の「持続的経済成長戦略」の前に立ちはだかっていること、そして第三に、行き詰まった先進資本主義諸国の経済体制の中でそれらの諸国の労働者階級が構成するいわゆる「中間層」が分解し崩壊しつつあり、再び新しいタイプのプロレタリアートが登場しつつある一方で、新興資本主義国の労働者階級が富裕層と本来のプロレタリアートに分化しつつあるということである。

 かつて「社会主義圏」を横目で見ながら、ケインズ型資本主義体制が、管理通貨制の導入などによる労働者の中間層化と資本主義経済への国家の管理体制の強化によって、社会保障などの体制を整備していけた時代はいまや終わりを告げ、それを「資本主義の社会主義化」と見る人たち(資本主義社会は徐々に社会主義社会に変貌せざるをえないと考えるかつてのマルクス経済学者の中にもそのようなとらえ方をする人がいた)にとっては、「一人勝ち」した資本主義経済体制は、その本来の、私的自由を尊重し、完全な自由市場に戻るべきだとする主張を力づけ、ティーパーティーなどのような運動を起こしている。

 しかし、社会主義からの圧迫から解放された資本主義体制は、いまや遠慮会釈なく、労働者階級への搾取を強めることができるようになったのだ。だから先進資本主義諸国の政府は経済が行き詰まれば、労働者派遣法などで資本家にとって好都合な労働力市場を生み出させたり、社会保障を犠牲にして、資本家を減税などで支援し、資本家企業が儲かるようになれば、労働者の雇用も増え、税収も増えるという発想で、「成長戦略」を進めようとしているのだ。「景気」は徐々に回復しつつあるといいながら、その恩恵にあずかるのは資本家や投資や投機で儲ける富裕層だけけであり、これら先進資本主義諸国の社会を土台で支える労働者たちの生活は日に日に悪化し、新プロレタリアートたちの過酷な労働が増え、失業者もどんどん増えているのである。

 一方で、たれ流し的消費に頼る「経済成長」ではやっていけなくなる自然界の絶対的制約条件があり、他方で、貧困と過酷な労働がなければ成り立たない「リッチな生活」がある、という現実のもとで、全体として資本主義経済体制はその腐朽化の度合いをさらに深めつつ、崩壊しつつあるのだ。しかし、残念なことに、この崩壊期を新たな社会経済体制を創出していくための機会として捉えうる主体(それはいうまでもなく労働者階級である)やその組織的運動が世界的な社会主義運動の敗北により、いまだ再形成されていないのだ。目立つのは、ただこの機会を「ビジネスチャンス」として金儲けしようとする新興資本家たちの、私的欲望のざわめきだけである。

 資本主義体制のもとで、分断化された個々のの労働者は、単なる一個の労働力商品に過ぎないが、それが、ひとたび互いに手を結び、ひとつの、共通の立場に置かれた、しかも次の歴史を生み出す主体としての階級であることを自覚したなら、それは資本主義体制に取って代わる新しい社会を生み出すべき巨大な力になり得るのだということをほとんどの労働者も労働組合も今では忘れ去ってしまっている。

 70年にわたる社会主義運動の失敗の歴史を顧みて、そこから何を学び、何が間違っていなかったのかを考え、再び、いかにして「万国の労働者、団結せよ」を旗印とした運動が生み出されうるのか、われわれの未来の歴史はそれにかかっているといえるだろう。

|

« 20世紀後半からの資本主義社会を考える(6)中国をめぐる世界資本主義の変化 | トップページ | 20世紀後半からの資本主義社会を考える(8)再出発に必要なわれら自身の反省 »

新デザイン論」カテゴリの記事

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

諫早湾の締め切り堤防建設と、農地開拓プロジェクトがいよいよ開門という状況に到達した。やや話しは変わるが、丁度長崎県がこの環境アセスメントを実施していた時期に、私は、諫早市の新ごみ焼却処理工場建設の環境アセスメントに係わった。当然長崎県環境課の質疑を受けた。そして、その時、諫早締め切り堤防の環境アセスメント調査書を見る機会を得た。

調査書は、なんら今日の状況を予想しておらず、環境被害は、例によって、僅少でなんらの問題もないと、あった。我々のも、同様、環境基準内であり、生態系にもなんら問題はないと書いたが、今どうなっているか。長崎大学の教授を含む委員会からの質疑もあったが、特に問題を指摘されなかった。海のアセスには特別の困難性があると思われるが、諫早の場合の落差は大きい。アセス仲間では、問題を指摘する声は多かったが、調査書にはそんな記述は無かったのだ。

改めて、環境アセスの無能がこれほどと指摘去さてしまったのは情けない。環境アセスの単なる机上の書類、手続き書類にしてしまったのは、アセス技術者の無能の証明、アセスに期待できるものがあるのかと問われるだろう。

資本主義の外皮としての民主主義同様、資本主義的開発計画の単なる外皮的な、儀式アセスに他ならない。

少しも今日を予想しなかったアセス技術者は、実は居ないと思う。憂慮したであろう。追及の技法がないわけじゃないのだ。しかし儀式システムを脅かすことはできはしないのである。漁民に説明する立場の立場は、建設推進以外の立場などありはしない。漁民がアセス技術者を雇ったわけではない。事業者の自治体や国が雇う。すぐに、なら別の業者に回せ。外郭団体の会社に回せとなる。受託会社の役員は天下りなのだ。

資本主義社会では資本側と国が環境アセスを台無しにして顧みない。結果的にアセス技術者を追及することが全くできない。云いたいことが沢山あるだろうに。

投稿: mizz | 2010年12月 9日 (木) 21時40分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/210651/50252564

この記事へのトラックバック一覧です: 20世紀後半からの資本主義社会を考える(7)崩壊と創出の狭間で:

« 20世紀後半からの資本主義社会を考える(6)中国をめぐる世界資本主義の変化 | トップページ | 20世紀後半からの資本主義社会を考える(8)再出発に必要なわれら自身の反省 »