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2010年1月3日 - 2010年1月9日

2010年1月 6日 (水)

インダストリアルデザイナーの労働が直面する諸問題 その1「ID'erの置かれた状況」

 前回に述べたような歴史的経緯によって誕生したインダストリアルデザイナーであるが、同時期に、それ以前は広告宣伝美術家などと呼ばれていた職能がグラフィックデザイナーと呼ばれるようになった。しかしそれよりも早くから服飾関係のデザイナーが社会的には職能として定着していたため、「デザイナー」は当初は服飾デザイナーを意味する言葉であった。しかし以後次第にさまざまな種類の「デザイナー」が登場することにより、それらに共通するカテゴリーとしての「デザイン」が成立したのである。ここでは、その中でインダストリアルデザイナー(以後IDerと略称する)の行っている労働に着目しよう。

 IDerの仕事は、元来その存在意義が、商品の「魅力化」による購買意欲の刺激にあったため、商品の機構や構造を対象としてきた設計技術者とはまったく異なる労働内容であった。具体的には、商品の外観のみを問題にすればよく、それが顧客にとって魅力的であるかどうかだけが問題だったのである。その意味では、設計技術者よりも資本家の目的意識に近い位置にいるといえる。しかし、現実に商品を生産し機能させるためにはそのメカニズムや構造に関する工学的設計知識が必須であるため、IDerは設計技術者と常に対立しつつも協働しなければならない立場であった。

 IDerの主張が通るか、工学的設計技術者の主張が通るかは、その業種が直接的に大衆需要を目指しているかどうかによっていた。例えば、自動車産業や家電産業、日常生活用品産業などではIDerの主張が通ったが、産業機器、計測器、鉄道車両産業などの専門機器業種では、設計技術者の主張が重視された。IDerの労働が重視される業種では、デザイナーの仕事は「面白い」と言われ、デザイナーの才能や創造力が発揮されやすい分野とみなされた。しかし、そこではデザイナーの工学的知識が乏しいために欠陥や危険を内包した商品が「魅力的デザイン」とされることがあり、顧客に購買され使用に供された後になってさまざまな問題を起こすことがあった。そうした商品を作っている企業の経営者は、そのことが企業のイメージを損ない、信用を失い、ひいては売れ行きに影響することを恐れるが故に、IDerにそれを考慮するようにさせた。商品の「使いやすさ」や「わかりやすさ」もそのような顧客のクレームがあったという事情から、事後的に、あらかじめIDerが考慮しなければならない問題としてその労働内容に取り込まれたのである。これらの事情が生じる原因は、結局、モノを作る側とそれを使う側とが同一の目的意識を持たなければならないにも拘わらず、実際には全く立場を異にしているという事実によるのである(これは、「消費者」と呼ばれる人々の多くが実は生産的労働者であって、「生産者」と言われる人々が、単に生産手段を私有しているだけであって、ただ生産物を商品として作らせ、それを労働者に買わせることが目的となっているという資本主義的生産様式特有の矛盾の現れである)。

 IDerが抱えるもう一つの問題は、デザイナーとしての自負と経営者あるいは雇い主の主張との確執である。デザイナーは自らの才能をよりどころに仕事をしているという自負があるため、これが自分にとって最良のデザインであると信じて、それを雇い主に見せたところ、「たしかに良いデザインかもしれないが、これでは売れないだろうし、他者競合商品に勝てないだろう」と言われることがしばしばある。そのとき彼は、「なんてセンスのない雇い主だ!」と思うが、仕方なしに雇い主が受け容れてくれそうな他の案を考えることになるのである。もちろん言葉巧みに雇う主を説得してデザイナーの主張が通ることもあるし、説得に必要な調査分析結果がものをいう場合もある。

 デザイナーも賃労働者である以上、いくら個性や才能を主張してみても結局、雇い主が気に入ってくれなければ、彼の労働の存在意義がなくなるのである。こうした不満をつねに抱えているデザイナーは、やがて自分の会社を持ち、自ら経営者でもありデザイナーでもあるという立場を求めることになる。しかし、たとえ首尾良くそのような「理想的な」立場を確立し得たとしても、やはり、自分の内部で「本当にやりたいデザイン」と「売るためのデザイン」を峻別して行かざるを得ないのである。

 これは、デザイナーという職能の本質が購買欲をそそるために商品を「魅力化」する、ということにあったのであり、彼の労働力商品としての使用価値(資本家にとっての)がそこにあるのだからそうなるのが必然なのである。自ら小資本家となったデザイナーの場合は、資本家がデザイナーの仕事を自らの労働内容として直接市場に問うことになるだけであって、本質的には事情は変わらない。

 結局、作る立場と使う立場が本質的に分離されている資本主義社会では、「デザイナーの良心が世の中を良くしていく」という期待は幻想に過ぎないのである。それを幻想でなくなるためには、すべての社会的分業種の労働の中に含まれているデザイン的側面を、共通の目的意識で結びつけることができるような、言い換えれば、「売るために作る」のではなく、「必要だから作る」社会へと生産・消費の仕組みを変えて行かねばならないだろう。これについては別の箇所で考察するつもりである。

 

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2010年1月 5日 (火)

職能としてのインダストリアルデザイナー誕生の歴史的経緯

 前回では、社会的分業という観点から、デザイナー誕生の前提となる設計技術者誕生の経緯について述べた。今回はそれに基づき、1920年代にアメリカで誕生したインダストリアルデザイナーという職能について論じる。

 西ヨーロッパを中心として成長し、商品市場を通じて資本と賃金労働者を日々再生産できる体制を確立した産業資本主義社会は、19世紀の末頃から、徐々にその矛盾のほころびである経済恐慌が長引くようになり、一方ではそれに対抗する労働運動などが盛んになっていった。この最大の原因は生産過程に投入した資本に見合うだけの利潤をそこから汲み上げることが困難になる状態ーーつまり過剰資本の蓄積とその圧迫ーーが限界に達してきたことによるといえる。

 ここで生産と消費のバランスを計画的にコントロール出来ないのが、市場経済にすべてを任せる資本主義経済の最大の弱点であり、また本質なのである。過剰資本の壁を破るために、ヨーロッパ諸国の資本は従来から行っていたアジア、アフリカへの植民地政策を強化し、低賃金労働や資源の確保と市場拡大を目指した。しかし互いの国家的利害がぶつかり合い、やがては世界規模での戦争(第一次世界大戦)となった。そこでは短期間に数百万もの労働者の命が失われていったのである。

 その反省の中で、建築設計技術者と芸術家による文化運動でもあった、バウハウスが登場し、中産階級化した労働者を対象とした建築や生活用品のデザインの世界を新たに切り拓いていった。その教育方法や考え方は非常に斬新だったが、うみだされたデザインは一部の社会上層部にしか実効的影響を及ぼさなかったといえる。

 その間、株式投資などを通じてすでにさまざまの産業資本を支配下に置いた金融資本を中心に、資本の増殖を管理運営するためのさまざまな「事務労働」分業種が登場し、彼らは、設計技術者とは異なる内容の頭脳労働を行う高級労働者(ホワイトカラー)として、いわゆる「中産階級」を形成していった。「ビジネスマン」の誕生である。彼らの一部には首尾良く蓄財し、新興資本家になる者もいた。特に戦争に直接加わらず、戦後ヨーロッパの復興に莫大な投資をして、自らの過剰資本のはけ口を得たアメリカやアジアで地の利を得た日本では、新興資本家や中産階級の進出が著しかった。それにも拘わらず社会経済的矛盾を一方的に押しつけられた労働者階級による労働運動は、第一次大戦中に起きたロシア革命のもとに結集した社会主義運動の影響を受け、拡大した。

 そして、1929年末になると、それまでとは本質的に異なる状況で、経済恐慌が発生した。世界金融恐慌である。金融資本はあらゆる産業資本を支配下におさめ、投資や融資を通じて間接的にその経営を支配していったのであるが、金融の焦げ付きが一気にすべての産業に恐慌を及ぼす結果となり、やがては世界中にその影響が拡大した。工場は操業を停止し、クビを切られた労働者が街にあふれ、産業資本家は商品の在庫を大量に抱えたまま、それを売ることができなくなった。一方でソ連の影響を受けた労働運動は失業者を組織化し、急速に拡大していく中で、資本主義陣営は再生の活路を見いだせず最大の危機に立たされたのである。

 そのような状況の中で、すでにアメリカで1920年代に台頭しかけていた新職業が注目された。芸術家や舞台装置家の一部が、その才能を、商品の外観を魅力的にすることに注ぐことでその販売を促進することに寄与させようとしていた。

 彼らはヨーロッパのバウハウス運動などとは無関係なところで、1920年代後半から40年代にかけて、さまざまな業種の商品を手がけ、それらの商品を作っている資本家たちを経営的に成功に導いた。やがて大手の自動車メーカーもクルマのスタイリングデザインを専門に行う「芸術家」を雇用することになり、この動きは家電メーカーや事務機メーカーにも拡大した。インダストリアルデザイナーという新職業の誕生である。この動きは再び世界中を戦禍に陥れた第二次世界大戦を挟んで、戦後はヨーロッパや日本にも現れ浸透した。

 インダストリアルデザイナーが社会的にひとつの職能として確立された社会経済的背景は、一方で商品の回転が滞り、他方で失業者があふれ、資本に反旗を翻しているという状況に対して、当時のアメリカ政府がケインズ等の経済学理論を援用して打ち出した、新経済政策の成功によるものであるといえるだろう。

 新経済政策の骨子は、一方で大型の公共事業への政府予算の投入によって雇用を確保し、他方でインフレ政策を通じた貨幣価値の間接的コントロールによって、労働者の賃金の相対的上昇を図るとともに、それによる、生活消費財への購買を促進させ、生活資料市場を活性化させることで高騰した労働者の賃金を資本の側に還元させようとするものであった。それにより雇用は増大し、労働者の生活は相対的に豊かになり始めたように見えたのである。

 これによって資本主義陣営はソ連などの社会主義陣営に対抗しうる労働者対策を行うこともできたのである。しかし、これは資本主義経済が国家の介入なしに、かつてのように完全に自立してA. スミス的な「レッセフェール」という形で資本の再生産過程を繰り返して行けなくなったことを意味し、資本主義社会の「腐朽化」段階ともいえるのである。この「腐朽化」はその後の資本主義社会が、いわゆる第3次産業を基軸にして展開せざるを得なくなったという事実にも現れている。

 生産的労働の場においては、自動車産業などで獲得した大量生産技術を家電製品や生活資料商品全般に拡大浸透させ、それとともに、販売促進の要求から広告産業やマスコミ産業などが新たな社会的地位を確立していったのである。結果的に大量生産大量消費時代を基礎としたいわゆる大衆社会化状況を生み出すことになった。

 インダストリアルデザイナーの労働内容は、従来は設計技術者の労働の一部に含まれていた生産物の形態における美的要素の決定の部分が、独立した分業になったものであるといえる。それが独立した分業になり得たのは、美的要素の決定が必ずしも工学的設計労働の中に位置づけられていなかったことと、生産物を市場に投入するにあたって当該商品を競合商品の中で際だたせ、購買欲をそそらせるためには、それとは別の「芸術的才能」を必要としたためであるといえる。

 人間工学的使いやすさやいわゆるユーザインタフェース、環境配慮などを考慮することがインダストリアルデザイナーの労働に要求されるようになったのははるかに後のことであり、これは、商品を購買した後でユーザがそれを使用する場面になってはじめてさまざまな問題が生じるという事実が分かった後、それを商品の品質の一部としてアピールする必要が生じたためである。

 こうしてインダストリアルデザイナーという職能が登場し定着したのであるが、次に、その後、その職能がどのような状況に置かれているかを見ることにしよう。

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2010年1月 3日 (日)

職能としての設計技術者誕生の歴史的経緯

 前回は、あらゆる歴史的な社会形態を捨象して普遍的な意味での人間の労働に含まれる本質的特徴としてデザイン的行為を考えた。しかし、それが「デザイン的行為」であると言えるようになったのは、デザイナーという職能が歴史的に特殊な社会経済的な時代背景の中で誕生し、それによってその職能がもつ一般的特徴と同時に歴史的特殊性としての本質的矛盾が明らかになったとき、そのアンチテーゼとして普遍的な意味でのデザイン行為が希求され浮き彫りにされ始めたからである。

 それでは、そのデザイナーを誕生させた歴史的に特殊な社会経済的背景とは何か?それは資本主義社会の「腐朽化」段階という社会経済状況である。しかし、その前にデザイナー出現の前提となる分業種「設計技術者」誕生の歴史的経緯を考える必要がある。

 歴史的に、資本がどのようにして社会的支配権を確立してきたかについては、資本論の第24章「いわゆる本源的蓄積」の章でマルクスが詳述しているが、ヨーロッパ中世社会崩壊の過程で、それこそ「すべての毛穴から血を滴らせながら」略奪と侵略を行い、農民や労働者からの生き血を吸い取るように搾取を繰り返すことで、資本の本源的蓄積を行い、それにより蓄財した資本家たちは「ブルジョアジー」として「自由・平等」を旗印に19世紀ヨーロッパで産業のほぼすべてに支配権を確立したのである。それ以後、資本制生産様式が確立され、人間の社会的ポテンシャルを意味する労働力をも商品としてみなす市場経済が社会的生産を動かす動因となり、それを通じて資本が日々新たに再生産される仕組みが出来上がったのである。

 この過程で、社会的に必要な生産から消費まで、あらゆる段階での社会的分業体制が、資本を軸に再構成されたのである。中世的ギルドにおける、親方と職人たちの共同体は、特定の生産物ごとに独立した分業の形を取りながら、ギルド共同体内部では、一人一人の職人が一通りすべての仕事に精通してから、それぞれの役割が振られることが多かったようである。社会的分業は生産物の種類ごとに分かれた職能的分業の形を取り、商品経済はそれらの生産物の流通や交換の分野で部分的に社会の中に組み入れられていたと考えられる。

 しかしやがて「本源的蓄積」により富裕となった商人たちが商業資本家に成長し、交易や商売の目的で、生産物を作らせるようになると、ギルド共同体は崩壊し初め、オランダなどでは、17世紀にはマニュファクチュアなどのように生産単位内部での分業が進んだ。最初は商業資本家からの大量の注文と納期をまもるため作業効率を目的とした職人の並列分業化が始まり、やがては作業過程そのものが細分化され、単純作業に分割された単純労働者の仕事となっていった。やがてその単純化された手労働に取って代わる作業機が発明され、さらにそれら多くの作業機を同時に動かす動力源として蒸気機関などが発明されていった。それによって生産現場の労働者は「道具」であるはずの生産機械に従属する立場になった。この間の詳細は「資本論」第四篇「相対的剰余価値の生産」で記述・分析されている。

 ところで、このようにギルド的共同体が破壊され、生産様式が工場制手工業から機械制大工業に移行すると、一つの生産物においてさえ、その生産目的を最後まで頭に入れつつ労働過程を担う人間がいなくなる。ものづくりの主目的が生産現場から離れ、それらを推進する資本家の頭の中にのみ存在するようになる。工場労働者達はただその意向に沿って手足のごとくものを作るだけとなる。しかし資本家は元来ものづくりへの興味や経験がないから、あらかじめ作り出されるべきものの姿をしっかり描き出すことなどできない。特に大量に同じモノを生産する企業では、品質などにおけるリスクがおおきくなる。そこで、要請されたのが、設計技術者である。彼らは一定の工学的知識を身につけ、作り出されるべきモノの姿をあらかじめ図面などに描き出すことに専念する頭脳労働者として産業界に登場した。

 生産機械の設計技術者は、当初、職人的機械製造業者の中から生まれたものと思われるが、やがては最初から工学的教育をうけたエンジニアとして養成されるようになった。建築設計の場合は、機械設計の場合のように産業革命の生み出した職能ではない。すで古代から大規模建造物の建設に先立って、その構想を絵図面などで表現することが行われていたと考えられる。しかし建築設計においても近代になって建造物に対する工学的知識が要求されるようになると、やはり建築設計技術者を養成する教育機関が必要となった。

 こうして設計技術者という職能が、産業資本主義社会における分業の一形態として社会的に確立された。その職能はもっぱら、つくり出されるものの機構・構造およびその形態を考案し、あらかじめリスクを最小限におさえられるかを確認するためにそれを図面などに描き出すことが労働内容であり、生産現場の機械に従属させられた肉体的(技能を要求する)労働とは明確に分離・区別されている。

 設計技術者は、いうなれば生産物自体の構想立案における資本家の頭脳を肩代わりする労働者であり、生産現場の労働者と比べて、より資本家の目的意識に近い位置にいる、ある種の「エリート」である。彼らの労働内容が、それ以後の生産物の製造工程や販売・流通過程、消費過程のすべてを支配する立場となるのだから。そして、事実、設計技術者になるためには高等教育が必要であり、その職能としての労働力を身につけるためにかかった教育費が、設計技術という労働力を資本家に売り渡す際に考慮されねばならなくなる(相対的に高い労働賃金を得ることができる)のだから。したがって彼らは最初から自らを「労働者」とは考えておらず、だれでもできる単純労働に従属する生産現場の労働者(したがって相対的に低い労働賃金しか得られない)に対してエリート意識をもっている。(このことは現代においては必ずしもあてはまらない、なぜなら、高等教育を受けた労働者の数がそうでない労働者よりはるかに多くなったため、頭脳労働者の労働賃金が著しく低下したからである)

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