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2010年3月7日 - 2010年3月13日

2010年3月12日 (金)

唯物論と宗教

 大変な大テーマであるが、ほんの少しだけこの問題に触れたい。というのも、最近「インテリジェント・デザイン(ID)」なる奇妙で紛らわしい言葉が流布されているからである。

 「インテリジェント・デザイン」の実態や、詳細は分からないが、おおざっぱに言えば、進化論を否定し、世の中は、ある超越的な存在者が暗黙のうちにデザインした世界であって、結局われわれが科学として明らかにしつつあるものは、それを理解する過程に過ぎない、といった考え方である。

 そこには、「人間の祖先が猿だったなどというのは道徳的におかしい」といったレベルのものから、自然史や生物の進化を支配している「法則」は科学では説明のつかないものである、といったものまで含むようである。

 このような考え方の背後には「人間」は自然的物質界と一線を画する存在であって、「ヒトをモノと同レベルで扱うような共産主義的唯物思想は悪である」という発想があるようで、きわめて保守的で過激な思想が見え隠れする。

 そこで少し冷静に考えてみよう。まず、唯物論者がヒトをモノとを同列に扱うという考え方は、多分、次のような唯物論者の思想に対する誤解(意図的な)からきているのだろう。

 唯物論者は、こう考える。われわれ人間は、自然史の生物史的段階で、生み出されてきた動物の一つの種である。そして我々の頭脳もその一部として自然がその進化の歴史の中で生み出してきた、自然の一部である。したがって、大きな意味(宇宙全体を含む)での自然的物質の進化の歴史の中で生み出された存在である人類が、その頭脳によって、自分たちもその一部である自然そのものを理解しようとしている。そしてそこに貫かれている法則を、自分たちが生きていくために意識的に適用することで、人類の生活とその歴史を築いてきた。それを通じて人類の頭脳はいっそう高度に発達し、進化してきた。

 宗教は、その人類の頭脳が人類史の中で生み出した、壮大なイマジネーションであり、「すばらしい誤解」であったともいえるのではないか?私は釈迦やキリストというおそらくは現実に存在したであろう宗教者たちを、一個の人間としてある種の尊敬の念を持って見ている。彼らとその弟子たちが営々と苦難の道の中で生み出してきた、宗教的思想は、そこに生きてきた多くの人々の大きな精神的支えになってきたし、非常に深い思想である。それはある意味、「宗教的真実」ともいえるものである。

 しかし、その宗教的遺産はいまや別の役割を果たすようになってきている。それは、資本主義社会の矛盾を補完する役割である。現代の資本主義社会は、つねに新たな新興宗教を生み出している。キリスト教も仏教もイスラム教も現代社会の中でメタモルフォーゼを遂げながらそれに適応するか、反発するかという形で変化させられながら存続している。

 資本主義社会の本質は、前回にも述べたように「お金」という人類が生み出した物質的存在への物神的崇拝であると言えるだろう。つまり資本主義社会こそ、ヒトをモノの支配に従わせる社会なのである。だからこそ、人々は、精神的な拠り所として宗教を求めるのだろう。

 だが、本物の唯物論者は、資本主義社会がその、資本主義的合理性の中から生み出してきたものであるとはいえ、現代科学技術の持つ人類史的役割を知っているはずだ。それはヒトをモノの支配に従わせるための手段として進歩してきたとはいえ、そこに含まれる科学的真理は、人類にとってかけがえのない遺産なのであり、この科学的遺産を正当な形で受け継ぎ、今度はそれを逆転し、ヒトが自然的物質の一部であるという自覚のもとに自然の中の人類の発展という視点から新たな進歩に向かわせることが必要なのだということを。それは「神」や「ヘーゲル的絶対精神」や、まして「資本」という形の「疎外態」では決してなく、あるがままの真理を求めることがそのまま生きることの意義になるような社会を実現するために必要なのである。それを行う主体は、超越者の「インテリジェント・デザイン」などでは決してなく、自然の一部としての人類の頭脳が自然自身のの可能性を発見しながら、自然史のある段階で生み出された生物史のさらにその一段階で生み出された人類社会の歴史を意識的に創りだしてゆくと言う意味で、主体的自然としての人類の普遍的デザイン能力なのである。

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2010年3月 9日 (火)

資本家と労働者の実存

しばらく、休んでしてしまったブログを再開する。

 さて、資本家だの労働者だのと言うが、そんな人達はホントにいるの?という疑問を持っている人も多いだろう。事実、マルクスが資本論を書いた頃や、レーニンがロシア革命を指導していた頃とは違い、いまは、資本家も労働者も同じようにネクタイとスーツ姿でオフィスに通う人々である。

 しかし、それは外見であって、その内的な実存は違う。現代社会は、生産手段の支配権を持つ資本家階級と労働力しか持たない労働者階級という2大階級に分裂している資本主義社会には違いないのだが、それぞれの階級内部が様々な分業形態や階層に分かれており、どこからが資本家と言えるのか、労働者なのかがよく分からないというのも事実であろう。いわゆる「業種」としての社会的分業の種類と、「職種」と呼ばれる、それぞれの業種の内部での仕事の内容による分類の交差する領域の数は膨大なものであろう。「業種」として分類される分業種が全体としてどのような構造で結びつきあって社会を形成しているか、という問題は、われわれの住む資本主義社会の実体的構造を掴む上で重要なキーとなるであろう。そして階級的区別のキーとなるのはそれらすべての中に含まれる雇用関係である。ある業種で雇用する側の立場で仕事をする人達は、資本側の役割分担を担い労働に支配権を持つ「経営陣」であり、雇用される側は、さまざまな分業形態のもとで直接的、間接的に生産労働を行う賃金労働者の立場であるといえる。

 あらゆる業種の中で、どのような雇用関係が成り立っているのかを知ることが出来れば、この社会における階級の構造がおおむね把握できるだろう。もちろん雇用関係がそのまま資本と労働者の関係を表しているわけではなく、業種の内容や相互の結びつき関係によって雇用関係の内実が異なるであろう。例えば、雇用関係の中には、国家公務員や地方公務員のような国や自治体の保持する税収から賃金をもらって雇用される形態や、古くから存在する商店の丁稚や番頭のような形態などが現在もあり、また、スーパーの店長のように雇用者であると同時に被雇用者でもあるような関係もあり、そう簡単ではないことも確かである。

 雇用者側としてさまざまな業種の企業の「経営陣」を形成する資本家階級には、頭の回転が良く、この社会を肯定的に捉え、行動力のある人が多いのも事実であろう。彼らは自分たちの企業を繁栄させることが社会に対する貢献であり、従業員である労働者もハッピーにさせることになると信じて行動している。だから仕事の先頭になってどの従業員よりもよく働くことが多い。資本主義社会は確かに、ある意味で彼ら資本家達の行動力によって支えられているのも事実である。

 だがしかし、である。資本家達は、いかに彼らが良心的で、行動的で、明るい人達であったとしても、資本の法則の支配の元で自らの経営の才を発揮し、自らの企業を切り回して行かねばならないのであって、そこでは、彼らの「実存」が資本の法則を実現させる役割を演じる立場にあるのである。彼らが必至になって国際市場での競争に打ち勝とうとして仕事を進めてきた結果の総決算が、地球規模での環境汚染であり資源の枯渇であり、社会の退廃であったのだが、これらは彼らの「社会的良心」の結果でもある。。

 彼らはその「社会的良心」のもとで、彼らに莫大な富を獲得させてきた労働者達を株主の要請で「泣いて馬謖を斬る」ことにもなり、あるいは何の良心の仮借もなく冷徹に従業員のクビを切ることにもなるのである。かれらの実存的立場としては、そうせざるを得なかったからである。彼らにとっては、被雇用者である労働者の生み出す価値の大半を自分たちが搾取しているなどという実感は全くないのであり、彼らの実存の中にある「経済法則における合理的判断」なのだから。

 一方、労働者側は、財を持たず、自らの労働力のみを頼みにして、これを「就職戦線」という労働市場で売りに出す。自分がこの社会にとって何であるのか、どういう存在意義を持っているのかを、自分の「能力や才能」という労働力によってアピールしなければならない。その「売りに出すことのできる労働力」を身につけるために、親のなけなしの財布から多額の教育資金を出させて長い時間をかけて、さまざまな教育や訓練を受けねばならない。しかし、その職種の競争相手が多く、労働力商品市場での競争に負けたり、「世の中が変わって」しまい、そのような職種が必要でなくなってしまえば、そこで、彼は「存在意義」を失い、路頭に迷うことになるのである。だから彼は常に、資本家側が受け容れてくれそうな職種を選ぶことにならざるを得ない。ブッシュ前大統領のいうような「資本主義社会は自分のやりたいことをやれるすばらしい社会だ」などというのは、ウソ偽りである。

 結局、労働者の側も、自分の仕事が社会にとって必要かどうかよりも、雇用者である資本家側が求めている仕事かどうかによってそれを決めざるを得ないのである。もちろん、エリートでチャンスに恵まれた若者達のほんの一握りは、自分たちのやりたい事業を名乗り上げ、それに投資してくれる株主を募り、ベンチャー会社を起業することもできるだろう。しかし、残り99%の労働者は、社会に必要な労働を行いながらも、つねに失業と解雇の不安の中で、社会の中での自分の存在意義の危うさを実存として持っているのだ。そしてベンチャーを立ち上げた人達も、「これなら受ける」という投資家側への色目を使って、「やること」の内容を考えている(例えば「アバター」のような3D映画を作る技術などがその例である)のであって、それが本当に社会にとって必要なことなのかどうかは結局はあまり重要ではないだろう。

 こうしていまの社会に存在しているすべての業種(分業種)とそれら全体による社的生産・消費構造が形成され、その中で、資本家側は、労働者を利潤獲得の「手段」として位置づけ、労働者側は、自らの労働力を再生産するための生活を目的として位置づけ、労働をそのための「手段」として位置づけてきたのである。したがって、そこに本来は自らの社会的存在意義を実存的に表明する行為あるいは能力であったはずの諸個人の労働が、どちらの階級の側にとっても手段でしかないという社会が生み出されてしまったのである。この社会を支配している最大の「目的」は、結局は「金を獲得すること」になってしまったのである。これが資本主義社会の本質であると言ってもよいだろう。

 われわれの社会の運営と未来を担う政治家達は、未だにこのような資本主義のパラダイムの延長線上で、「雇用促進」を叫びつつ、崩壊に向かっている資本主義社会の屋台骨を支え続けて行こうとしているのである。何としたことか!!!

 

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