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2010年3月21日 - 2010年3月27日

2010年3月27日 (土)

この不況は既成概念の枠では解決しえない

 内需拡大(つまり消費の拡大)によって経済を活性化し、企業の利益をあげさせることで雇用の拡大を図り、それによってさらに消費を増やし企業を潤し、そこから政府の税収を増やし、社会保障や社会インフラの拡充を図る、といういまの民主党政権の方針は、完全に矛盾しているとしか言いようがない。

 現に企業は競争に勝ち、生き残るために、労働者の雇用を控え、少ない労働力で多くの業務を請け負うようになっている。雇用されている労働者は仕事が増えるばかりで、その労働強化に耐えられなくなってきているにも拘わらず、世の中には失業者がどんどん増え続けているのである。政府の税収は減る一方で、それに対して必要な社会的政府支出は増える一方である。そして富裕な金融資本家階級はますます巨額の金を手にし、労働者階級はますます貧困化しつつある。アメリカでも日本でも政府は、金融資本が崩壊すれば社会的に大根乱に陥るとして、金融資本に税金をつぎ込んでサポートする。裏を返せば、いかに金融資本が社会的に必要な生産のすべてを支配しているということの証であり、結局彼らは金融資本家の代弁者に過ぎないことになるのだ。

 日本でもアメリカでも、民主党政権ではかつての、いわゆる「豊かな中間層」を取り戻すことが、政治目標のイメージとしてあるようだが、そもそもそれは労働者階級を「消費者」として位置づけ、どんどん商品を購買させる社会が「豊かな社会」であるというイメージであり、それによって資本家と労働者という2大階級の対立構造が消えてなくなったように考えるのは大きな間違いである。

 この不況は1930年代の世界恐慌とは本質的に異なるものであり、ケインズモデルでもフリードマンモデルでも解決は不可能である。ケインズモデルでは、政府が社会インフラへの投資の引き金を引き、雇用を確保しつつ、労働者の生活手段商品の消費を増やし、それらの生産を行っている資本家をまず潤すことを原動力として、連鎖的に生産手段の生産を行う資本家や流通や宣伝広告関係の資本を活気づけ、さらに遊休資本を活用し、新規企業の設立や利益の上がりそうな企業活動に投資して配当を獲得しようとする金融資本家を活気づける効果を生み出す経済的メカニズムを確立させ、いわゆる大衆社会化状況を生み出した。しかし、これも一方で、非資本主義社会である、いわゆる「社会主義圏」の圧力が増す状況であったからこそ、成功したといえるだろう。その中で労働者階級はみかけの労働賃金が上がり、多くの生活手段を購買できるようになったが、相変わらず、彼らは生産手段を持たず、自分の労働力を売りに出すことによってしか生きていくことができない立場のままなのである。

 現在の不況は、その「社会主義圏」が崩壊し、残った中国などの「社会主義国」が資本主義化してゆく中で起きている不況である。そこでは、アメリカ型資本主義の一方的勝利と見えながら、実はそのアメリカ型資本主義が内部から音を立てて自壊する過程なのである。

 絶えざる技術革新によって高度な生産力を獲得した産業資本家は、あらゆる分野で膨大な剰余価値を獲得し、いまや経済恐慌の直接的原因ではなくなった過剰資本の膨大な蓄積をもたらしているが、それらはすでに金融資本の全般的支配のもとで回転・流動している。流動する過剰資本は当然のことながらグローバルに流動し、巨大化した金融資本は外国の産業資本家やそこに働く労働者階級をも間接的に支配するようになっている。

 例えば、衰退しつつあるアメリカや日本の産業資本からは手を引いて、勃興しつつある中国の新興資本家階級への投資を増加させる。同時に中国から入ってくる商品は同じ使用価値であっても遙かに安い市場価格で売られるため、日本やアメリカで作られた商品は競争に負ける。その結果、アメリカや日本では企業経営が苦しくなり、倒産や解雇による失業者が増える一方であるが、中国の資本家やアメリカや日本の資本が中国に進出した企業のもとでは、貧しい農村からいくらでも安い労働力が供給されるので、低賃金労働による資本家の利益は増大する。資本家の手によって商品市場に売りにだされる労働者の生産物は、国境を越えて、グローバルに流通する。当然、中国の低賃金労働者の手によって作られた商品は、アメリカや日本の様な高賃金の労働者の手によって作られた商品より低価格で売られるにも拘わらず、中国の資本家は日本やアメリカの資本家より遙かに高い利益を獲得する。したがってどんどん設備投資を行い、生産手段を生産する中国企業も活況を呈するようになる。アメリカや日本の金融資本家はそれらの中国企業に投資するか、中国に進出を促す形で日本やアメリカの産業資本家の尻押しをする。その結果ますます国内の雇用は減り、失業者は増加するのである。

 日本やアメリカでは労働者の平均的賃金が引き下げられ、雇用はかろうじて金融資本の運営する企業や、流通、娯楽など直接的生産過程ではない分野で維持される。いわゆる産業の空洞化である。

 さて、わが民主党政権はこの難局をどう乗り切れるのか?鳩山さんや管さんが、もう一度マルクス経済学を勉強してくれない限り、お任せするのは無理というべきではないだろうか?

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2010年3月26日 (金)

消費は購買の後に始まる

「消費者」という言葉が示すように、商品を購買する人々を「消費者」と呼ぶことが多いが、実は購買と消費は異なる意味を持っている。このブログですでに何度も述べているが、資本主義社会では、モノを売るために作るのであって、そのモノ(商品)が使用価値を持つのは、売るための手段に過ぎない。言い換えれば、作って売る側は、一旦売ってしまえば、そのモノがどう使われようと、そんなことには無関心なのである。しかし、そのモノが使用の場において、何か問題を生じた場合には、商品としての信頼性が失われ、売れなくなるので、それを恐れるのである。まして最近のように目の回るような早さでモデルチェンジする製品の一つ一つについて、どのように使われるか詳細な調査や予測などしていては市場での競争に勝てない。したがって、まず、売れそうな、つまり顧客が買ってくれそうな「魅力ある」商品をデザインする。そしてそれが売れ行きに影響が出そうな欠陥がないかどうかをあらかじめ考慮はするが、前評判が良ければ、発売後まずとにかく売りまくる。そして何か問題が発生した頃には次のモデルを用意しておくのである。こうして殆どの商品はその使用価値を最後までまっとうしきれないまま廃棄されるのである。その結果が途方もない無駄の生産という形で現れ、世の中にがらくたと廃棄物の山を築くのである。

 もちろん、こうした回転の速い大量販売が目的の量産品と異なり、一品一品丁寧に作られるモノも存在する。しかしそれらの少量生産品(多くの場合ブランド商品)は当然のことながら同じ使用価値を持った商品であっても高価になる。最近では、いわゆる「付加価値」(これについてもこのブログで何度も述べている)と称して、心理的価値観や美意識に訴え、それを利用して同じ使用価値の製品を高価で売る商法が一般的である。

 商品経済社会に於いては、消費あるいは使用は、商品が購買された後に始まり、商品がその本来の機構(使用価値)を発揮し、ある目的や欲求を充たすために消尽されて行く過程である。食料品ならば食べ終わったとき、工業製品ならば、それが本来の機能を果たし終えたときに、消費は終了する。消費の期間中、商品はその使用価値を発揮し、購買時に支払われた交換価値としての貨幣に表現された価値はそこで消えてなくなるように見える。しかし本当は消えてなくなるのではなく、それは使用した人々の、人間としての存在を継続させるという形で身体化される。それは価値生成実体としての人間の労働を担う労働力の再生産を行うのである。現実に社会の直接的生産過程を担う労働者は、こうして自分たちが生産した商品を自分たちが購入し、それを消費することによって自らの労働力を再生産し、それを再び資本家に売り渡すことで生産を繰り返しているのである。

 一方、労働力商品について見れば今度は事態が逆転する。生産手段を所有する資本家は、労働者から、その労働力の再生産費に相当する価値と等価な賃金との交換によって購入した労働力を生産手段と結びつけ、労働者に商品の生産を開始する。ここで資本家は労働力商品の消費を開始し、労働力を消費するのである。労働力商品は労働により価値を生み出し続け、やがて自らの労働力の再生産費に相当する価値を超えて労働を継続し続けさせられることによって剰余価値部分を生み出す。この自らの労働力の交換価値以上に価値を生み出すことができるという事実こそが労働力商品の使用価値なのである。したがって資本家は労働力商品の使用価値を徹底的に発揮させ、使えなくなるまでそれを使い果たす。

 派遣労働者法ができ、労働者は自分の働きたい場所や労働形態で自由に労働を選ぶことができる、という甘い言葉で看板を上げ、労働力商品を集め購買した後に、その使用価値の発揮は過酷を極める。そして剰余価値率が上がらなくなるや、使用価値がなくなった労働力を廃棄するのである。

 資本主義社会においては、すべての商品の消費は、市場での売買の後に始まり、市場の外で開始される。労働力商品はその価値以上の価値を生み出すことによってその使用価値を発揮させられ、労働力商品がその使用価値を発揮することによって生み出されるモノとしての商品は、その価値の大部分である剰余価値部分のもたらす利潤を資本家に与え、残りの価値部分は労働者の労働力再生産費として、労働者自らが生み出した商品と交換されることによって労働者に購買され、労働者の身体的維持のために消費されるのである。こうして資本家の手にはつねに労働力商品の使用価値をまっとうさせた結果としての利潤がのこり、それによって彼は生産手段を確保し続ける。一方労働者は自らの労働力を支出して生み出した商品を賃金によって買い戻し、ふたたび労働力しか持たない「消費者」となり続けるのである。

 現在では産業資本家が生み出す剰余価値の膨大な量の蓄積を金融資本家が支配し、新たな産業や商売に投資したり、為替差益を得るために莫大な金を右から左に動かすことで、労働者の生み出した価値の化身である資本が労働者自身を賃金奴隷として支配し続けているのである。

 

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2010年3月23日 (火)

「生活水準の差」とは何か?

 生活水準という言葉は日常的に使われながら、意外とその内容について深く考察されていないように思う。

 例えば、日本の場合、毎日の生活に掛かる食費、被服費、住居費(日本ではこれが異常に高い)、ガス・水道・電気代、医療費そして電話やインターネットなどの通信費、TV受信料、そして子供の養育・教育費などは、普通に生活するために最低限必要な生活費として考えられている。これを満たした上で、さらにクルマを買い換える費用、賃貸住宅から持ち家に移るため貯金、旅行や趣味のための費用、などというお金が使えるような状態を「可処分所得がある」と言っている。

 必要生活費と「可処分所得」との境界線をはっきりと引くことは難しい。なぜなら、必要生活費の最低限度はどこまで縮小できるかはっきりしないからである。例えば、収入のほとんどない人へ国から支給される生活保護費はわずか6〜7万円程度しか出ないが、これが日本の憲法に唱われている、人間らしく生きる最低限の権利への保障になるのかどうか甚だ疑わしい。しかし、同じ金額をアジアの国々の貧しい農村での生活で使うとすれば、リッチな収入ということになる。もちろんその場合、その国の通貨と円の換算レートが問題にはなるが、なによりも彼の国での「生活水準」がきわめて低いからそうなるのだと考えられている。

 日本やアメリカのように農業が完全に資本主義経済の内部に組み込まれてしまった国と違って、アジアやアフリカの国々では、農村では未だに自分たちの生活に必要な食料を自給し、住居は先祖代々引き継いできた家があり、地域での助け合い・物々交換的経済が多く残存していると考えられ、そこでは生活のために必要な現金収入はわずかでも生活は維持できる。彼らは決して「貧しい生活」をしているわけではないのである。そういった生活をしている人々が、ひとたび資本主義経済に巻き込まれる羽目になると、まず、農村に進出した資本家企業によってその労働力が格安で資本家に調達されることになる。労働賃金とは「労働者に前貸しされる労働力の再生産費」であるから、当然のこと、格安の賃金でも彼らは生活していける。

 しかし、それが一歩進むと次は労働力を大都会の資本主義的消費圏に集中させ、相対的にやや高い労働賃金で彼らを働かせるようにになる。資本家としてはその方が生産効率が良いからである。労働者達は都会で生活することになる。そこでは生活に必要なものはすべて商品として購入しなければならない。実はほかの資本家的企業で彼らと同様な立場の労働者が低賃金で働かされることによって生産された格安の生活資料商品を同じ立場の労働者が購入して生活を成り立たせているのである。その貨幣の流れの中間にあって労働の生み出した価値を資本家達が搾取し分け合い、その過程の中に「前貸しされた労働力再生産費」は吸収されていっているのである。

 都会に働きに出た農村出身の労働者達は、乏しい賃金から生活費を削って貯蓄をし、それを故郷の農村に住む家族の生活費や教育費として仕送りする。これは必要生活費を超えた「可処分所得」と言えるだろうか?決してそうではないことは明らかである。やがて農村にも資本主義的商品経済の大波が押し寄せ、農村での生活にも、生活資料を商品として購入しなければやっていけない状態が来る。そうなると、現金収入が必要となり、都会に労働者として働きに出た家族からの仕送りが生活の頼みとなっていく。こうして初めて、農村は「貧困化」されるのである。アジアの農村は決して最初から貧困であったのではなく、資本主義経済がそれを貧困化したのである。

 そしてそのような状態が生み出されることによって、その結果としてグローバル化した商品市場を支配する資本が、先に資本主義化された国々との間に、「生活水準の差」を「労働力の再生産費」の差という「金額の差」として実体化するのである。そのことによって、資本は労働賃金が格安で調達できるアジアの農村に労働力を求めて殺到するのである。

 労働賃金の差が、生活水準の差であるとすれば、たしかにわが国の労働者は生活水準が高いと言える。しかし、われわれの労働賃金がどのように使われているかを考えると決して単純にそうは言えないことに気づくであろう。

 例えば高額の住居費や医療費(保険料も含めて)や子供を「優良な労働力商品」に育て上げるために必要な莫大な教育費、そして働けなくなったときに必要となるであろう生活費をあらかじめ確保するためにさまざまな貯蓄や投資。そのときの「住むための場所」を確保するための貯蓄や投資。これらに収入の大半が使われているのである。これは可処分所得ではなく、必要生活費ではないのか?

 われわれの生活は労働賃金の金額が多くても決して豊かではない。比較的高額な労働賃金はわれわれにとって本来の意味での「所得」ではなく、「労働力再生産費として前貸しされた貨幣」であることを思い出さねばなるまい。それは資本の回転過程を成す、その一つの形態に過ぎないのだから!!

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