« 2010年4月18日 - 2010年4月24日 | トップページ | 2010年5月2日 - 2010年5月8日 »

2010年4月25日 - 2010年5月1日

2010年4月27日 (火)

「民」の実態

 デザインの問題に対する記述が目的であるこのブログになぜか政治経済問題があまりに多く登場する理由は、筆者が政治経済問題も大きな意味でのデザインの問題であると考えているからである。

 さて、政府の統計などを見るとよく出てくる「民間」という言葉や「官」に対する「民」という構図の中にある大きなごまかしについて考えて見よう。この問題には以前にも触れたことがあるが、端的に言うと「民」という言葉の中には労働者と資本家の関係、つまり労働力の売り手と買い手という関係で現れる資本主義社会の階級関係が捨象されているのである。さらに言えば、「民」という言葉は資本主義社会の支配階級である資本家の社会観をそのまま表している表現なのである。

 そこで、よく現状を見据えれば、「官」である政府が、「民」の中のどちらの階級のために政策を立て、予算や税制を決めているかを見ることが重要である。それによって現政府がどちらの階級の代表かが分かるからである。

 例えば、最近の、mizzさん発行のメルマガ「三次元図で」("****[三次元図で] mag2 0000164231" <mailmag@mag2.com>)によると、国家財政の推移は、税収+国債発行高で見ると、国債の発行高は結局「民間資本ストック」の増加に大きく寄与していることが分かる。国債を買う人は資本家も労働者もいるだろう、しかしそれによって収集された政府資金が何のために使われているかを見ると、「民間資本のストック」を増やすために使われているというわけである。しかし、この「民間資本ストック」への還元がわれわれの生計を良くしているわけでは決してないことは実感として分かるであろう。

 それでは、この「民間資本ストック」なるものの中身はと言えば、資本家たちが労働者の生み出した価値の大半をかすめ取ったものである(このことは「資本論」第二篇および第三篇、第四篇を読んでいただければたちどころに理解できる)。本来、労働者の生活安定や社会福祉などのために回すべき、社会共有ファンドとして政府が取り扱わねばならないものなのである。

 資本家達は、これらの資本ストックを、グローバルな資本市場での競争に勝って、ますますその蓄積を増やすために、「私的に」所有し用いるのである。資本主義社会では、資本家的企業も「法人」などとして法的には一個人と同様の扱いを受けるが、その資本家的企業の「人格」の中には、労働力を売りに出すことでしか、生活していくことができない個人と、彼らから買った労働力からその価値(労働賃金として表される労働力商品の価値)以上の価値(剰余価値)を生み出させて、これを資本として蓄積し増やすことで、社会の中で必要とされる労働を支配している個人との対立が隠されているのである。

 労働者たちは社会のために働いていながら、実はそれが資本家のために剰余価値を無償で提供する労働を通じて行われているという事実が見えないようにされている社会なのである。

 現在の資本主義社会では、株や国債などの債権は、資本家とか労働者とかの区別なく買うことが出来、だれでもお金さえあればそれに投資することができるので、この階級的対立はますます見えにくくなっているのであるが、ひとたび、「不況」(そもそもこの「不況」が何故起きるのかも資本主義社会の特殊な問題であるのだが)が訪れると、この対立関係があらわになってくる。

 資本家的企業がその運営に失敗し、倒産した場合、資本家は自らの個人的財産を最低限は保有しうるので飢え死にすることはないが、雇用されていた労働者は解雇され切り捨てられる。彼らは途端に生きていくための収入が得られなくなり、まさに路頭に迷うのである。「ハローワーク」などで、運良く彼らを拾ってくれる資本家がいる場合には、再び賃金労働者としての生活(被支配階級として資本に労働力のほとんどを提供しながら生きる生活)ができるようになるが、そうでなければ、ほんの少しの間失業保険で食いつなぐか、それももらえなくなれば家賃も払えなくなり、生きていくために生活保護を受けるか路上生活者となるかしかないのである。

 (資本家的)企業が国際市場競争に勝ち残り利益を増やせるために、政府が巨額の公的資金(このうち税収部分は労働者の財布の底をついて払わされた税金が大部分である)で(資本家的)企業を支えなければ、不況が深まり、雇用が確保されなくなり、やがては(資本主義的)経済体制が崩壊し、雇用されている労働者がすべて失業して大根乱になるというのが、「一般常識的」見方であるが、ここでカッコで記述されている(資本家的)あるいは(資本主義)などということばで示されている歴史的特殊性(つまりやがては消えゆく運命にある社会経済体制)が、カッコのない普遍的存在にすり替えられていることを理解できれば、ときの政府が誰の見方であるか見えてくるだろう(つまり資本家的社会が普遍的な社会のあり方であるとする立場である)。

 社会的に必要なものを生み出すためには、企業体は必要であっても資本家はいなくてもよいのである。各企業体の労働者たちがお互いの立場を理解し合い、手を結び助け合って企業体を運営してゆけば、ちゃんと世の中は動くのであり、これらの企業体は全体として、働く人たちの代表として選ばれた政府が社会全体の視点から計画的運営を図れるようになれば、これまで資本家によって私的にかすめ取られていた剰余価値は社会的共有ファンドとして蓄積されるようになり、そのすべてが労働者の生活の安定や社会保障のために運用されるようになる(正確には、そのための基礎ができる)。そして世界中の労働者が手を結べば無用な国際競争に身を削ることもなくなるであろうし、地球環境を危機に陥れている無用な消費の拡大も抑制されるであろう。

 そのときこそ、本当の「民」の社会がやってくるのであり、労働者諸個人のデザイン力が直接社会全体の総合的デザイン力に結びつく社会になるのだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年4月18日 - 2010年4月24日 | トップページ | 2010年5月2日 - 2010年5月8日 »