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2010年5月16日 - 2010年5月22日

2010年5月20日 (木)

「ネット帝国主義論」から抜け落ちた視点

 今朝の朝日新聞の「異議あり」に、慶応大学の岸博幸氏の「ネット帝国主義論」を巡るインタビュー記事が載っている。要は、次の様な問題指摘である。

 グーグル、ヤフー、アマゾン、ツイッターなどのネットサービス企業はすべてアメリカに拠点を置く企業であり、彼らが世界規模でネットワークを拡げ、世界中の人々がそれに依存しなければやっていけなくなるような状況を生み出している。彼らはサービスの無料化でネット利用者を拡大し、それに広告を載せようとする企業から入る莫大な広告料で巨万の富を手にしている。

 しかもこれら世界ネットワークにつながる巨大サーバーにすべての情報を依存するクラウドコンピューティングを拡張させているが、実はアメリカではクラウドを利用する際に安全保障上からサーバーがアメリカ本土になければならないという約束事がある。これはまったくアメリカによる世界中の情報支配である。

 さらに、「フェアユース規定」なるアメリカ流の著作権法により、著作物の潜在的市場に影響を与えない限り著作者の許諾がなくても著作物を自由に利用できる、という事情から、アメリカにサーバーがあるグーグルなどは自由に世界中のマスメディアからニュースを持ってきて利用している。さらにインターネットサービスが無料化することにより、ユーザーが有料のソフトに見向きもしなくなり、その結果マスメディアやコンテンツ企業の衰退を招いており、これは自由な市場の行き過ぎを意味するという指摘である。

 私も岸先生のご指摘通り、これは大問題だと思う。しかし私は岸先生とは若干違った視点を持っている。

 それは、まず第一に、広告収入が、コンテンツ商品収入をはるかに上回るという事実のおかしさである。そもそもアプリケーションソフトや音楽・映像ソフトなどを作るためには多大なな労働力が支出され、多くの労働時間を要する。これらが無料で提供されるのはまったくおかしい。それらソフトの作り手は、ネット企業から広告料の分け前を受け取るのかもしれないが、これは筋が違うのである。

 広告収入が莫大な額になるということは、20世紀後半からの現代資本主義社会特有の現象(これによって広告産業が産業界で大きな位置を占めるようになっている)なのであるが、元来、広告とは何かの商品を売るための宣伝手段であって、それ自体が売られる商品ではない。それがむしろ売られる商品よりも利益を稼ぎ出すという状況は、過剰流動資本が蓄積した社会にあって、それを再び利益を生み出す生産資本に生かすために使われる現代資本主義特有の「経費」となるという事情によるといえる。

 本来「社会に必要なものを必要なだけ生産する」ことが社会経済の原則であるとすれば、必要なものを生産するのに要した労働時間に応じて、労働者は報酬を得るのが当然であり、それに必要な労働時間を超えて行った労働により生じた剰余価値部分は、本来ならば社会全体の共通に用いられるべきファンドとして共有化されるべきものである。それが合法的に私有化され、私企業のもとに莫大な利益として蓄積されるのが、資本主義社会特有の仕組みである。

 特に20世紀後半からの、生産力が高度化した資本主義社会では、生産手段に還元される資本が過剰化されることから来る、生産手段に投入された資本に対して得られる利潤の比率が減少する現象(多くの場合、恐慌という形で表れる)を避けるために、「必要でないものを必要化させる」ことで生じる膨大な消費を創出させ、それを促進させることによって過剰資本を、利益を生み出せる資本に転換させようとする仕組みが出来上がったのである。そこに、際限のない消費拡大と、そのために必要のないものを必要化させるための広告・宣伝の重要性が増してきたのである。そして莫大な額の過剰資本がそこに流れ込み、ネットワークサービスでのコンテンツ無料化という状況を可能にしているのである。

 第二には、一方で、グローバルなネットワークに流れる情報は、それをアメリカが一元支配するという状況を生み出していながら、他方でそれは、知識や情報の私的囲い込みを崩壊させる面をも持っているということである。それを知っているからこそアメリカは情報の管理支配をしようとするのであろう。

 少し飛躍するかも知れないが、知識産業や情報産業というのは、知識や情報という本来、社会全体が共有すべきものを私的企業が囲い込み、それによって利益を得ようとするものであるとも言える。これは著作権や知的所有権の問題にも通じる大きな問題であるが、物理的・感性的実体を基盤とするハードウエアの占有とは異なり、膨大な記号やビット列のかたまりに、何かの意味を表出したり見いだすことは、それを個人の所有権に帰することのできるような問題ではないと思われる。これは水源のダムから供給される飲料水を勝手に囲い込んで利益を得るようなものであるといえる。

 そして今日のグローバル情報ネットワークは、ある意味で本来社会的に共有化されるべきものを私的に所有することを合法化している資本主義社会を根底から揺るがすモメントを持っているかも知れないのである。

 かくして、この問題はまだまだおおきな議論に発展しうる問題を含んでおり、私も折を見てふたたび俎上に上げることにしようと思う。

 

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2010年5月17日 (月)

異端の魂

 私は、ときどきやってくる恐ろしいほどの孤独感がもたらす浅い眠りの中でさまざまなことを思い巡らせる。自分がもう40年以上にもなる研究者としての人生で求めてきたものは一体何だったのだろうか?それは一言でいえば、自分の固有の存在意義とは何なのか、ということだったかもしれない。

 デザインの理論研究の道に入ってすぐに遭遇した学生運動の大波の中で、私は、世の中を見えないところで支配している法則性を知ることの重大さを悟らされた。それからの40年は心のどこかでいつもマルクスの考え方を自分のものにしようとする気持ちが働いていた。しかし、それはデザイン理論研究の世界では「異端」の烙印を押されることであった。一時はそういう自分をおもてに出さないようにして、コンピュータサイエンスや認知科学の世界でデザインの創造性の研究を行ってきた。しかしそれでも、その間も、マルクスの考え方が正当であると信じることができたのは何故なのだろうか?それは、ある種の直感であったように思う。ある考え方が持つ、真理探究への態度は、その深い内容を理解できないうちから、それが正しいという直感を感じさせるのかも知れない。

 例えば、マルクスの考え方を批判する人達の中で、マルクスは、資本主義社会の批判はするが、それに代わる社会の具体的デザインができていない、という人がいる。だから、その誤った理解が20世紀の半分を支配してきた、いわゆる「社会主義国」や「共産圏」を支配してきたような独裁的思想を生み出した、という人もいる。

 これは一面で真理であるかも知れないが、そこには次の様な誤解がある。マルクスは、サン・シモンやシャルル・フーリエらの様な空想的社会主義者の考え方を鋭く批判しており、徹底した現実社会への批判を通して、現実社会を支配している法則性を抽出し、そこから浮かび上がってくる方向へ進むべきだと考えていたようである。だから敢えて、安易な「理想の社会像」を描くことを避けたのだ。「空想的社会主義」は所詮、SFの世界であって、そこには想像力(創造力ではない)に任せて勝手にさまざまな次世代社会像が描き出せるが、ほとんどどれ一つとしてそれらは実現されない世界である。なぜなら、人間は正確かつ具体的に未来社会を予測することなどできないからである。だからこそ、人間はそれまで「神のみがそれを知る」として人間の成せる技ではないことを認めてきたのだ。「神」とは無縁のマルクスは、しかし、空想や神の御心ではない人間本来の能力を知っていた。

 マルクスは、その意味で、徹底した現実批判を通して浮かび上がってきた真実をよりどころとして、そのつど正しいと判断できる方向に進むことが、試行錯誤を経て、やがて現実的な意味でのよりよい社会への建設につながると考えていたのだろう。20世紀のいわゆる「社会主義国」や「共産圏」での思想は、その過程での、試行錯誤のワンステップであったのだと思う。それらは矛盾をあらわにして20世紀末に挫折してしまった。しかし、いまわれわれは、その挫折の原因が何であったのかを検証し、試行錯誤の階段をさらに一段上らなければならないのだと思う。

 デザイン理論研究の世界でも、最近、「デザインの再定義」などと銘打って、「デザインとは、未来に向かって、あるべき姿を構成すること」などともう何十年も前にICSIDかどこかで宣言されたことと同じことをいまさらもったいぶって掲げている研究者がいる。このような研究者はまず、現代の資本主義社会が生み出した分業種のひとつである「デザイナー」の職能を無批判に理想化あるいは普遍化するデザイン論の考え方(これがいまのデザイン理論の主流であるが)に疑問を持つこともなく、ただ普遍的な人間労働の本質である、構成的思考をそのままデザインの定義として唱えても、それは何も語り得てはいないというべきであろう。

 その意味では、現代資本主義が生み出した歴史的産物であるデザイナーあるいはデザインという職種の労働が置かれた現状を正しく捉え、批判することを通じて、そこから浮かび上がってくる、進むべき方向を見いだすことこそが、真理に向かっての試行錯誤の一歩であると考える私の「異端的」な立場の方がはるかにマシなのではないかと思うのである。

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