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2010年6月13日 - 2010年6月19日

2010年6月18日 (金)

まともなディスカッションができない社会

 民主党が、参院選になだれ込む形となったが、そこで管総理が民主党の公約について語った内容は、この前の衆院選のときの民主党「マニフェスト」で宣言されたことのどれもがまともに達成できそうもないことが分かってきて、こそくな修正を行っているという感じである。今度の参院選は、そう甘くはないですぞ!民主党が結局は「自民党左派」に過ぎないことが見え見えになってきたいま、選挙民はみんなそれを感じ始めている。

 それはさておき、選挙の度に思うことは、各政党の主張が、他政党との区別を明確にさせるという点に重点が置かれるのは仕方ないにしても、あたかも誇大宣伝を旨とする商品の広告のごとく、実際にできることからかけ離れた主張をするのは、はっきりいって「詐欺」に等しいということだ。

 虚偽や誇大な宣伝広告がまかり通る必然性をもっている社会であるのが、現代資本主義社会の大きな特徴であるから、当然と言えば当然かも知れないが、誇大宣伝と同時に相手をこき下ろし、クソミソにけなすことで自分の主張を目立たせる行為は、まったくのすれ違いになってしまい本当の意味でのディスカッションになっていない。そのツケを回されるのは結局、選挙民である。彼らは、そのウソとインチキに対する謝罪も保障もしないのであるから。

 それとある意味で対照的なのが、前にも述べたことがあるように、研究者の学会発表や論文発表の世界である。ここでは、若い研究者たちは、指導教員の指導のもとで、研究成果を発表することで、一人前の研究者としての資格を得なければならない。間違った主張を行うことはもちろん否定される。しかし、ある主張や仮設が、客観的に正しいということが、何によって確かめられるかは、分野によって様々であり、自然科学の分野では、観測や実験によってそれが検証されるが、社会科学や人文科学では自然科学とは異なる方法で判断されるようである。しかしいずれにしても、そこでは徹底したディスカッションが必要であり、それを通じて、正当性が問われる必要があるといえる。

 ところが、現実には(特に日本の学会では、というべきかもしれないが)実質的なディスカッションが行われることがきわめて少ないといえる。特に、権威のある学者の考え方や主張に関しては、異を唱えると、「異端」として扱われるか、無視されることが多い。そのため、何人かの。権威ある学者の説が、並列して存在し、「○○学派」「××学派」というテリトリーを築き合うことにもなる。自然科学の分野はまだしもこの傾向が少ないが、社会科学や人文科学の世界では日常的な風景である。残念なことに、工学の分野でもそれはあり、特に設計論やデザイン論といった、領域ではこの傾向が強いのである。

 ディスカッションは、相手を論戦でねじ伏せることが目的のディベートとは違い、何が真実なのかを問う、ということが基本的姿勢になければならない。ディベートが政治家達の特技であるならば、ディスカッションは研究者の良心を本質としていると言っても良いであろう。

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2010年6月17日 (木)

iPadに見る「草の根出版革命」への予兆

 このブログでは、いつもごりごりのマルクス論を書いているので、さぞかし頭の硬いオジサンと思われているかも知れないが、実は私はコンピュータ技術やインターネット技術などに深い関心を持っており、1980年代の初め頃から主にAppleの製品をいろいろ使って、さまざまな試みを行ってきた。その一つにMacのHyperCardを用いたデザインーの発想支援システムの試みなどがある。1960年代末の学生運動に参加して以来、資本主義社会を批判する立場であったことに変わりはないが、私自身、資本主義社会の真っ只中に生きている一人の人間であり、その中で自分の位置を見定めながら生きねばならなかったからである。 

 私は、資本主義社会がもつ根本的矛盾(一言で言えば、社会をそれぞれの労働によって支える人々の存在意義を、商品の私有化という観点でしか捉えない仕組みの上に立った社会)を徹底的に批判しようと思うが、その一方で、その社会が多くの矛盾を抱えた形ではあるが、高度な生産技術を初め、さまざまな科学技術的革命をもたらし、その遺産はポスト資本主義社会に新たな姿をもって引き継がれていくという風に考えている。その一つがいわゆるIT技術である。

 私はApple社が出した新製品iPadの新たな可能性を感じて、いささかミーハー的ではあるが、早速それを購入して使っている。ここでApple社の宣伝をするつもりは全くなく、Steve Jobsのガレージファクトリー起業以来ずっとApple社というベンチャー企業の成長過程を見守ってきたが、いまやAppleは「企業価値」(これについては別の機会に述べる)がMicrosoft社を抜くというところまで「成長」し、Jobsは現代アメリカ資本主義を代表するカリスマ的資本家として君臨するようになった。彼はApple II、Mac, iPod, iPhoneなど次々と話題の新製品を出してきたが、そこには資本家としての次の市場を見定める眼力があり、その上、企業のブランドを高める作戦のうまさという意味で優れて現代的産業資本家である。いわゆる中間層をターゲットとして、巧みに製品の「付加価値」を高め、低価格化競争に引き込まれることを防ぐとともに、中国などで「安い労働力」を徹底的に使って、自社商品の市場における位置を優位に導いてきている「辣腕資本家」なのである。

 それに対する批判はいまはひとまず差し置いて、iPadがもたらすかもしれない最大の「革命」は、出版のあり方の革命であるということは多くの人々によってすでに指摘されている。しかし、そこに私が見るのは、単に電子出版という新しいメディアの市場とビジネスチャンスをつくり出すという資本家的視点ではなく、従来の「出版社」という企業がもつ独占的地位を根底から突き崩す可能性をもっているという事実である。

 出版社の競争は激化し、年々多くの出版物が販売されているが、出版社は、「売れない本は出さない」という資本主義的市場法則のもとに置かれている。かつて岩波書店が、後生に残すべき内容の本は、たとえ売れなくても出版するという方針を貫こうとしてことがあったが、それも現在の過当競争の中で崩れてしまった。どちらにしても、出版社が世に出す出版物の帰趨を握っているという意味では、大きな問題を抱えている。それは、さまざまな少数意見や、現時点では「重要」と見なされない文献が後生に残されるチャンスを失わされているという事実である。出版資本が、出版物という形で世に出されるオピニオンの首根っこを握っているのであって、そのために多くの、無名な人達の貴重な考え方や意見が葬り去られているのである。

 この状況をまず最初に破ったのが、インターネットの普及である。20世紀末〜今世紀初頭のいわゆるIT革命によって、世の中の情報伝達の形が大きく変化した。資本家達はこれを大きなビジネスチャンスとして、それを莫大な利益の獲得手段として取り込み、IT関連企業に莫大な投資を行い、技術開発に拍車をかけた。Apple社もその波に乗って成長した。しかし、それとはまったく別の視点から見れば、IT革命は、「草の根的情報ネットワークの技術インフラ」を生み出したのである。

 今朝の朝日新聞に作家の瀬名秀明さんらが、出版社を通さないで自らの作品を出版するネットワークを画策しているという記事があった。私はついに始まったか、という思いでこれを読んだ。しかし、私はもっと別な見方をしている。それは、インターネットと電子書籍リーダーの普及は、さまざまな職種や業種における労働を通じて社会を支えている人々の間に、資本家の意志を媒介せずに情報交換し合う社会的ネットワークや出版活動ができる条件を作ってくれたのである。これこそ、将来に向けての社会革命へのひとつの具体的な条件の形成であると言えないだろうか?

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2010年6月16日 (水)

税政に表れる政権の本質

 管総理が、民主党政権の税制改革の基本方針を明らかにした。それによると、所得税の税率を所得の多い階層に比較的重く、少ない層に比較的軽くするという内容が含まれているが、それ以外はほとんど自民党政権時代と変わらない。基本は税収の減を消費税の税率を上げることでカバーし、企業への税率を低く抑えて、景気の活性化を図るというものである。

 例えば、消費税がなぜ均一に商品の購買全体に掛かってくるのか、という理論的根拠は何も言及されていない。一律に「消費」として扱われる、商品の購買の中には、生活必需品と奢侈品の区別もなく、さらに重要なことは、労働力を商品として購入し、資本の生産のために「消費」する資本家に対しては消費税は掛からない!そして、さらに、もっともっと重要なことは、労働者が自分たちが生きるために必要な生活資料を得るために、資本家から「前借り」した労働賃金は、本来労働者自身が所有権をもつはずの価値であるにも拘わらず、それを「所得」とみなされ、それを、生きるために必要な生活資料(生活資料はもともと労働者階級の手で生み出されたものである)と交換するときに「消費税」が取られるのである!しかも、こうして労働者に本来存する所有権を剥奪している資本家的企業が、それによって得ている「不当な所得」を増やすことに関しては、減税措置が執られるのである!!!

 こうしたことが「合法化」されている資本主義社会のおかしさに気づき、それを根本から変えていかねばならないと考える政権を、労働者自身の手で生み出せるまでは、まぼろしの「民主」政権が資本家と無自覚な労働者に「リベラルな」色目を使って媚び続けるだろう。

 ここで、資本論の一節を引用しておこう。

「プロレタリアは、彼の労働を一定量の生活必需品のために売ることによって、生産物の分け前の要求をすべて放棄する。生産物の私有様式は、であるからといっても、以前と同じままである。(中略)生産物は、原料と生活必需品を供給した資本家に、独占的に所属する。そして、これが私有の法律の厳格な帰結である。が、この私有という法の根本的原理は、全く逆で、すなわち、あらゆる労働者が、彼が生産した物の所有者であるという、排他的権利を持っている。」(mizz訳 英訳 資本論、第七章 第一節 最後の本文注より引用)

 この意味が理解できない為政者は、資本主義社会特有の「私有」の法を普遍的なものと思い込まされている「上部構造」の、しかももっとも罪深い一員である。

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2010年6月14日 (月)

まともな研究者への期待

 今朝の朝日新聞に、イスラエル人でテルアビブ大学の歴史学者Shlomo Sand氏のインタビュー記事が載っていた。Sand氏は「ユダヤ人の起源」という本を著し、そこで、現在のイスラエルに住むユダヤ人よりもパレスチナ人の方が、オリジナルのユダヤ人に近い存在であることを歴史的事実に則って調べ上げて明らかにした。19世紀に起きたシオニズムが、アラブ人に追い出され、ヨーロッパ各地に散らばったユダヤ系の人々を「約束の地」に帰還させ、ユダヤ人の国を復興させようという運動を起こしたが、この思想がユダヤ人の歴史をねじ曲げ、事実を覆い隠してしまったことをSand氏は明らかにしたのである。彼は、ヨーロッパ各地に散らばったユダヤ系の人々は、アラブ人に追い出されたわけではなく、ユダヤ教布教のため各地に散らばっていった人達の子孫であり、農業を営みながらイスラエルの地に残り、イスラムに改宗していったパレスチナ人の方が正当なユダヤ人の系統に近いことを突き止め、パレスチナ人とイスラエル人はともに共通のルーツを持つ民族同士として和解すべきだと主張している。詳細は彼の本を読まないと分からないが、私はこのようなまともな研究者がまだいることに非常に感動した。彼は自国の過激なシオニストからの脅しに命の危険を感じながらこの本を出したに違いない。

 自然科学と違って、社会科学の歴史学や経済学という分野は、とかく政治や民族思想によってご都合主義的な解釈のもとで利用され、それがあたかも「正統波」のように扱われてしまうことが多い。まさに「上部構造」としての思想が支配的思想になってしまうのである。現在の経済学もその典型である。

 しかし、最近ではそれとやや異なるが、その恣意性においては同様な傾向が工学に基礎をおく設計論やデザイン論にも見られるようになった。残念なことである。設計論という分野は、もともと産業革命以後に生まれた様々な分野での工学的技術による生産で、工業製品の設計に携わる設計技術者が、よりよい設計を行うための実学的指針であって、その意味ではしっかりした理論的体系を持っていなかったし、持たなくても済んでいた。しかし、それを工学教育の体系の中に位置づけるためには理論的な整合性が必要になってきたため、抽象度の高いレベルでの設計方法論や設計論が台頭したと考えられる。この傾向が現れたのは1960年代以降のことである。その中で有名なC. Alexanderの考え方や吉川の一般設計学が、もっとも抽象度の高い理論として登場したのである。

 そして工業デザインを初めとする「デザイナー」という職能は設計技術者よりはるかに遅れて20世紀中葉に商品市場の要請によって登場したが、その職能における理論も、図学や色彩学という実学的レベルから、高等教育においてより抽象度の高い理論を求めて、結局工学的設計と同じレベルの理論体系を要求するようになったと考えられる。

 これらに言えることは、ともに、産業革命を推進した近代資本主義社会の進展過程で生まれた、歴史的特質をその本質として持っている分野であり、その「誕生の秘密」としての歴史的刻印を覆い隠し、あたかも人類発生以来続く普遍的営みの理論であるかのような様相をともなって登場しているという事実である。歴史的な存在を普遍的な存在とみなしてしまうのはその社会を支配している法則性があたかも普遍的であるかのように装うことでその支配体制を普遍化しようとする「上部構造」の役割なのである。

 例えば、つくり出されるべき人工物の形や色彩などを考えるのは、人工物全体の姿や働きを考える思考の一部であり、その一貫である。そしてそうした行為は人類発生以来、行ってきた普遍的な行為としての生産的労働(いわゆるモノ作り)の過程でつねに人類が行ってきたことでもある。しかし、それはあまりにも無内容な(つまり事実への批判的視点を媒介とした抽象ではない)抽象である。例えば、古代社会において、奴隷が自らの足かせを作らされたり、中世社会で多くの農民が農繁期に戦のための武器作りに駆り出され、さらにその武器を持って殺し合いに駆り出されたという事実、さらには、近代社会において、農地を奪われ、工場労働者となった人々が、一日12時間もの労働の中で平均的に30歳代までしか生きられなかったという事実、そして現代社会では、日本やアメリカのデザイナーがデザインした製品を中国の労働者がおどろくほどの低賃金・長時間労働の中で働きながら生産しており、その過酷さに耐えかねて自殺者が続出しているという事実を、あたかも何事もなかったように知らん顔をして、無内容な抽象論を唱えて、それによって「研究者」としてのステータスを確保している連中が、どうしてまともな研究者などといえるであろうか!!

 現代社会においてどのようにモノが作られているのか、そしてその結果何が起きているのかという事実を見ることなしに、高邁な設計論やデザインの定義を語ってみても何の意味もないといことに気づくことこそ、まともな研究者への出発点であろう。

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