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2010年7月11日 - 2010年7月17日

2010年7月17日 (土)

絵に描いた餅は空腹を満たさない

 民主党が参院選で敗北し、管首相が国家戦略局設置をあきらめた。これで民主党の目玉がまた一つ減った。

 民主党が掲げた「政治主導」はもろくも崩れ去ったようであり、官僚たちは、「それみたことか、だから俺たちに任せれば良いんだ」と内心高笑いをしていることだろう。

 選挙で当選した政治家が、にわかに政権を主導しようとしても、そうは問屋が卸さないのが、現在の政府の仕組みである。官僚たちはずーっと継続して自分の持ち場でその仕事に就いており、そこに蓄積された知識やデータは半端なものではない。しかも高級官僚たちは東大を始めとした一流大学を出た超エリートたちであり、頭の出来も政治家先生たちよりはるかに良いのだから。

 民主党がいかに普天間基地移設を唱えようと、官僚支配の脱却と政治主導を唱えようと、そんな空証文は、官僚にとって「へ」でもない。たちまち崩されてしまうのである。もちろん官僚たちも「国を背負っている」という自負からその力を発揮しているのであろう。

 そもそもいまの国家機構の骨格である政府機関の担い手たち(つまり官僚たち)は、「官主導(管主導ではない!)型資本主義体制」として明治維新以降に始まった、日本の近代化とともに育て上げられた、事実上の(というか真の)支配階級である。明治の初め、基幹産業とみなされた蚕糸紡績工業や製鉄工業は官主導で進められ、一定の経営基盤ができあがったところで、「民間」つまり産業資本家たちに払い下げられたのである。その後は日本の官僚たちは、「富国強兵」をスローガンに日清戦争や日露戦争を遂行し、朝鮮半島や台湾などへと植民地支配を広げていった。それによって日本の産業資本や金融資本の蓄積は加速され、日本全体の産業を支配していったのでる。一方で相変わらず地主のもとで江戸時代とあまり変わらない古い体質の元で行われていた農業は、世の中が資本主義化されて行くに従って貧困化が進み(これはある意味で、現在のグローバル資本主義の中でのアジア・アフリカ諸国が置かれた状態に似ているが)、食いっぱぐれた農民(多くは次男三男)たちは産業資本にその労働力を売りに出さねば生活できなくなっていったのである。

 こうして日本社会全体が「官」をピラミッドの頂点とする支配構造を生み出していったのだが、やがて「官」の一部である「軍」が政治の主導権を握り、「財閥」と言われる資本家グループと手を組んで政府を主導し、第2次世界大戦で、数百万の農民や労働者を侵略的戦争に駆り出し殺した上、産業は壊滅したのである。

 しかし、戦後表面的にはアメリカ的民主主義が導入され、資本家に対する政府の関係もより間接的になったにも拘わらず、土台の構造はあまり変わっていないようである。アメリカとは違い、依然として実権を握った政府官僚の間接的主導で、資本家たちが、労働者の生活資料商品の消費を拡大させることによって資本を還流させるアメリカ型修正資本主義を導入し、「所得倍増政策」に尻押しされながら、労働者階級の大変な努力とその成果の搾取のおかげで資本蓄積を「高度成長」させ、巨万の富を築き上げることで日本全体の産業を支配し、労働者の階級意識を「中間階層」あるいは「中産階級」へと変質させることに成功したのである。

 政治形態だけ見れば「民主主義的」な形に見えるが、いわば政策的に「衆愚化」された労働者階級による選挙は、あたかも政党という商品を買わせるための売り込み宣伝の様相を呈し、社会構造の本質を見抜き、変えようとする力は最初から剥奪されているのである。その意味では自民党も民主党も同じ土俵の上で相撲を取っているのであって、このどちらかが勝つことによって、われわれの未来が決定されるわけでは決してない。

 民主党のマニフェストはマルクスのマニフェスト(共産党宣言)とはまったくもってほど遠い代物であることを見抜くべきであろう。それはまさに「絵に描いた餅」以外の何物でもないし、その「絵」それ自体が問題の本質から目をそらせる内容なのである。

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2010年7月15日 (木)

アメリカ的世界観

 昨日の朝日新聞朝刊に、「嫌われる社会主義ー米政権批判のフレーズ」という記事が載っていた。アメリカでは「社会主義者」といえば、悪の根源のような意味で受け止められる土壌があるということのようだ。そこにはオバマ政権の批判を掲げるプラカードに"OBAMA MARXIST"と書かれている写真が付いていた。

 国民皆保険制度をめざすオバマの医療保険制度の改革に、社会主義的だ!として反対する人が多いのには正直、理解に苦しんでいたが、その恩恵を受けるはずの最下層労働者までも「社会主義的な政策だから反対だ」という意見が多かったというのはさらに驚きである。

 しかし、そのような状況が生み出されてきたアメリカ社会は、「自助努力」が尊ばれる国柄だから、と片付けるのはおかしい。確かにかつて、ネイティブアメリカンたちを蹂躙しつつ西に向けて侵略し続けてきたホワイト・アメリカンたちは、荒野の町で、銃による自営と、自助努力をしなければやっていけなかった状況があっただろうが、その後のアメリカは奴隷解放などで大量に生み出されたアフリカ系労働者を資本主義経済発展の機動力とし、その上に乗っかったホワイトたちが、労働者階級から搾取した資本を分け合い、リッチな生活を享受してきた。その資本主義的成功があたかも自分たちの自助努力のたまものであったかのように、それを美化しつつ。そこにアメリカ的「自助努力精神」のルーツがあるのではないだろうか?

 そのアメリカ的自助精神は、しかし、1920-30年代には大きくぐらついたのである。いくら自助努力をしてもアメリカ経済は危機的な状況から脱し得ない状態がやってきて、ルーズベルト大統領のニューディール政策などによる国家的施策のもとにようやく回復の兆しを得たのであった(ルーズベルトも社会主義者と批判されたらしいが)。

 しかし、その後、第二次大戦での軍需産業の隆盛をテコに、1950年代になってふたたび息を吹き返したアメリカ資本主義が、当時まだアメリカで一定の勢力を持っていた、社会主義的勢力の一掃をを図ったのが、いわゆる「マッカーシー旋風」と呼ばれた悪名高き「赤狩り」である。これによってアメリカでの社会主義的勢力はほぼ壊滅した。その後、東西冷戦下では、「自助努力による自由な国」が国家意識にまで高められ、(資本家の)自助努力で「自由な社会」を築き上げる国と、国家官僚の独裁的管理の下でノルマを課せられた労働が行われる「自由のない国」との対決という図式が定着したのだろう。そしてそれが現在でも続く、イラクやアフガニスタンへの派兵を正当化する「自由世界の警察官」としてのアメリカ、という自負なのだろう。

 "OBAMA MARXIST"には、笑ってしまうしかないが、その同じ意識の先には、日米同盟の強化があり、沖縄の米軍基地確保があることを忘れてはならないだろう。

 オバマがマルキストでないことは、リーマンショックの後に、大手金融資本が「自助努力」の範疇を超えた危機に陥ったことに対して国家予算を投入してそれを支えたことを見ても明らかである。例えマルキスト呼ばわりされても金融資本を守ることこそアメリカ大統領の使命と考えたからであろう。

 アメリカ的自助努力精神の吹聴が横行する中で、だまされ続けてきたアメリカの下層労働者階級は、アメリカ資本主義の犯した甚大な過誤を正当な批判の立場で追求する勢力が壊滅させられてしまったことによる大きな欺瞞の中に取り残されているといえるだろう。真実を知れば彼らは必ずや沖縄の人々の苦しみを理解するに違いないと思う。

 それにしても朝日新聞でアメリカよりまだましな状況とされた、我が国のマルクス経済学者たちは、いったい今日の状況をどのように分析しているのだろう?いや、私が思うに、我が国のマルクス経済学者たちも社会主義圏の崩壊以後、大学から追放されることに危機感を感じ、事実上「死の沈黙」を続けているとしかいえないのではないか?

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2010年7月14日 (水)

セルジュ・ラトゥーシュの主張(続き)ーmizzさんのコメントへの回答

 ラトゥーシュの主張に賛意を示した、前回の私のブログに、読者のmizzさんからコメントがついた。実は、私はこのブログの最後に「マルクスも共感するだろう」と書いたのだが、mizzさんのコメントが付く前に、その1行を削除した。自分でも少々軽率であったと気づいたからだ。

 確かに、朝日新聞のインタビュー記事でのラトゥーシュの主張の中には、資本主義経済の仕組みに関する分析がないように見える。彼の主著を読まないと断言はできないが、その主張は、成長神話の単なる「うらがえし」であるようにも見える。普通の市民感覚からも容易に導き出される主張だからである。

 例えば、mizzさんの指摘するように「経済成長」という概念そのものが、資本主義経済の用語であって、そこでは何が「成長する」のか明らかにされていない。マルクス経済学的に言えば、ここで言われる「成長」は、資本の増殖を意味するのであって、これをそのまま、労働者階級の基本的に人間としての権利や主張の成長と見るのは間違いである。

 したがってラトゥーシュの主張に、全面的に賛同するのは尚早であると反省した。しかしいまの政治指導者たちの中で、主流となっている成長神話からみれば、まっとうに見えることも確かである。経済成長神話がふつうの市民感覚から見てもおかしいからである。

 資本主義生産様式においては、現実に社会全体を支えるさまざまな労働を行っている労働者が、自分がこの社会で何者であるのかという「社会的実存」を資本の論理においてしか実感できない仕組みができており、それがあたかも資本が成長することによって自分も豊かになれるかのような幻想を生み出す基盤になっているわけであるが、成長神話はそれを足がかりにして出てくる考え方である。

 振り返ってみれば、一方で、資本が数百年に渡って、植民地略奪と戦争を繰り返すことで地球の自然を食いつぶし、労働への支配力を拡大することで蓄積してきた資本が過剰化し、そのままでは投下した資本に見合うだけの利潤が生み出せなくなって金融破綻による「経済恐慌」に陥り、他方で資本主義体制に反対する社会主義勢力の拡大による圧迫が強ままった1930年代に、すでに資本主義経済体制は危機に陥っていたのである。

 しかしそこで、資本主義体制は、労働者階級の生活資料商品市場を、過剰資本の「処理場」として位置づけることで、あたかも労働者の「所得」(実は労働賃金は所得ではなく資本の還流の一環にすぎないのであるが)が高騰し、それによって、生活資料をどんどん買うことができるようになり、「豊かな社会」が実現したかのような幻想を生み出すことに成功したのである。一方で社会主義体制側では、独裁的官僚による労働者支配が確立し、先進資本主義国側の労働者の生活とほど遠い悲惨な状況が生み出されていった。そこに生まれた「豊かな中間層」という幻想が、ひとつの理想的姿として定着し、世界中の労働者の目標となっていったと考えられる。その中で「経済成長神話」がご用経済学者の定番となっていったのであろう。

 しかし、社会主義体制が自滅してしまった(だからといってマルクスの考え方が間違っていたということには決してならないのであるが)後、「一人勝ち」して「自由市場社会」という幻想の元にグローバルな支配を確立した資本主義社会の「修正版」も今日ではボロボロの状態である。必要もない生活資料商品をどんどん買わせては、捨てさせ、膨大な消費という形で、地球上のあらゆる自然を食い尽くし、そのために労働を支配し、労働者は結局は自分たちが「使い捨ての労働力商品」でしかなかったのに、ありもしない「豊かな中間層」への回帰という麻薬を呑まされ、地球全体の荒廃と人々の社会的実存における退廃状況を生み出してしまった。これでは、もはや成長神話は生き延びるすべもない。

 だからmizzさんの言うとおり、「脱成長」というスローガンではだめであって、むしろグローバルな規模で生産における労働者階級の支配権を取り戻し、資本主義的市場経済の法則から脱却することこそがスローガンになるべきなのだと思う。

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2010年7月13日 (火)

セルジュ・ラトゥーシュの主張

 今日の朝日新聞夕刊の「文化」欄に、いま来日しているセルジュ・ラトゥーシュというフランスの経済哲学者とのインタビュー記事が紹介されていた。正直言って私はこの人のことを知らなかった。しかし、この朝日の紹介記事で読む限り、非常にまともな考え方をしている学者のようだ。

 彼の考え方を一言で言うと「脱成長(デクロワサンス)」ということである。経済成長神話はすでに崩壊しているという点で、私と同じ見解である。彼は、「私が成長に反対するのは、いくら経済が成長しても人々を幸せにしないからだ。成長のための成長が目的化され、無駄な消費が強いられている。そのような成長は、それが続く限り、汚染やストレスを増やすだけだ」と述べ、「地球が有限である以上、無限に成長を持続させることは生態学的に不可能だからだ」とし、「持続的に可能な成長」という表現自体が、語義矛盾だと指摘する。まさにその通り。こんなあたりまえのことが、いまの世界中の資本主義国(中国も含めて)の指導者たちには何も分かっていないのである。

 経済が成長し、どんどん世界中の富を増やしていけばみんながリッチになって幸せになれるという、馬鹿化た幻想が世界を徘徊しているのである。日本の指導者たちは、まず経済成長ありき、それによって雇用や税収の問題を解決し、社会保障も充実させてゆく、という発想であるが、これは例え一時的に経済が「回復」したように見えても、結局はその後、より深刻で致命的な破綻を迎えることになるだろうことは確かである。

 ラトゥーシュの指摘を待つまでもなく、これからの社会は、いかに地球という閉じられた世界の中で、貴重な資源を節約し、無駄な消費を止め、限られたリソースをいかに合理的に公平に社会に還元できるかを経済学者は考えるべきなのである。これまで世界中で、数百年の労働の中で、おそらくは述べ数百兆人におよぶ人々が何世代にも渡って一生懸命働いて築き上げてきた人類の富を、ほんの一部の人間たちの支配から解放し、それを必要としているすべての人々に再分配すると同時に、その大半を社会的な共有ファンドとして社会保障にあたる内容の事業を拡充させることこそ必要なのであって、それ以上の過剰な「成長」を止めるべきであると思う。

 ラトゥーシュは、インタビューワーの、「物質的な豊かさを達成した「北」の国々だけでなく、「南」の貧しい国も成長を拒否すべきなのだろうか。」という質問に対して、「北の国々による従来の開発は、南の国々に低発展の状態を強いたうえ、地域の文化や生態系を破壊してきた。そのような進め方の成長ではなく、南の人々自身がオリジナルの道を作っていけるようにしなければならない」と答えている。これもその通りである。

 今日、アジアやアフリカ、ラテン・アメリカなどで、経済的貧困国とされている国々は、むしろ、最近になってグローバルな資本主義的経済システムに組み込まれることによって、そうなったのであって、それ以前の独自な地域社会が崩壊させられ、資本主義文明によって「貧困化」させられたのである。日々の生活に必要なものがすべて商品として購入しなければ手に入れられなくなったとき、それまで自給自足的生活をしてきた彼らは困窮し、自らの労働力をおどろくほど安い価格(賃金)で売りに出さなければ生きてゆけなくなるのである。そして、そのようにして生み出された「安い労働力」によって先進資本主義国は潤ってきたのではないか!

 ラトゥーシュは、インタビューの最後で「彼ら(欧州や日本の政治家たち)は、資本主義に成長を、緊縮財政で人々に節約を求めるが、本来それは逆であるべきだ。資本主義はもっと節約をすべきだし、人々はもっと豊かに生きられる。我々の目指すのは、つましい、しかし幸福な社会だ」と結んでいる。

 私は彼の主著「経済成長なき社会発展は可能か?」をまだ読んでいないので、明確なことは分からないが、彼が主張する考え方に基本的に同意し、共感を感じる。

ー追記:ただし「成長」が具体的に何の成長を指すのかを明らかにしなければいけないし、同様にそれに対する「デクロワサンス」の中身についても分析が必要である。

ー追記:このブログを読んだ方は、ぜひこれに付けられたmizzさんのコメントと、それに対する私の回答も読んで欲しい。そしてさらに2011.1.28から10回にわたってこのブログに連載した私の「セルジュ・ラトゥーシュへの思想に関する考察」シリーズを読んでいただきたい。

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2010年7月12日 (月)

三すくみ財政で国家財政は破綻する?

 参院選は民主党の大敗北となった。管さんの消費税10%発言が響いたらしい。しかしその結果、同じように消費税10%を掲げている自民党が圧勝するという珍妙な結果になった。これには、ちょっと選挙民の考えが浅すぎるのではないかと危惧せざるを得ない。これで衆院と参院が「ねじれ国会」となるわけだが、おそらく、何年か後に消費税は10%となり、その後さらに上がるだろう。

 それにしても最近届いた、健康保険税の金額にはたまげた。年金生活者のわが家計の一割も取られるのである。さらにわずかな年金から7万円もの介護保険料が天引きされ、しかも私が昨年まで家計を助けるためにやっていたアルバイトの収入からはがっぽり所得税が取られ、その上、住む家を確保しているがゆえに取られる固定資産税や、自宅の目の前にできる幹線道路の建設(静かな住宅地に通されるこの道路で周辺の環境は劇的に悪化することは確実で私はそれに大反対である)のために払わされる都市計画税も半端な額ではない。これでは残ったお金で暮らしていけるのかどうかマジ不安である。おそらく現役時代に少しずつ貯めた貯金を切り崩していかなければまともに生活できなくなるだろう。この重税に耐えながら、さらに消費税を上げられては息の根を止められる思いである。

 自民も民主もそしてそのほかの党も、結局は、国債を乱発して財政を切り盛りするか、消費税のような形で確実にとれる税収を増やして国債にたよる財政を補填するか、そして、法人税を減税して企業の税負担を軽減し、「景気浮揚」を促して、雇用を増やし、所得税収を増やすか、という選択肢しかないらしい。しかも今回の選挙の結果に見るように消費税が選挙民の反発を受けていれば、また国債にたよるか、法人税を大幅に減税して資本家の増益と雇用の増加に期待するしなかないだろう。しかし、国債はもうこれ以上赤字にできないとなれば、頼るは資本家が「元気になる」ことで労働者への支配を強めるように促すしかない。しかし資本家を元気にするために法人税を減税するにはそれを補填する財源が必要となり、結局消費税額を上げるしかない、という三すくみのような状況である。このままでは日本の国家財政は破綻し、公的年金や社会保障は得られなくなるだろう。資本家を頼りにしていれば、必ずや、人減らしという「合理化」によって雇用は増やされず、資本蓄積の増大が進み、過剰資本が雪だるま的に増え、金融資本家や投機家によるその奪い合いが激化するだけであって、その結果、失業者は増え、労働者の生活はさらに悪化するだろう。

 この蟻地獄のような悪循環から解放されるには、労働者が働く権利を確保できる法の充実、もともと人間にとって生活の自然条件である土地の売買と価格に大幅な規制を与え、もともと労働者階級が生み出した社会的富を私的な資本として蓄積させた結果である過剰流動資本の獲得を目当てにした証券取引や投機への大幅な規制を設けるなど、流動する過剰資本を、社会的共有ファンドとして還流させる仕組みを作るしかないだろう。しかし現状のどの政党もそれをなしえないだろう。そのためには労働者階級が自覚を持って結束しなければならないだろう。

 ここから先はわれわれ老人の出る幕ではない。若い人たちがこうした自覚を持って立ち上がってくれない限り、お先真っ暗なのである。

 

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2010年7月11日 (日)

職能としてのデザイナーの労働と労働過程一般におけるデザイン的側面との関係(続き)

 前回のブログの内容で私の書き方がうまくなかったことから、誤解を招くおそれがあるため、内容を少し手直したので、もう一度前回のブログを読み直して頂ければ幸いである。

 今回は、mizzさんからのコメントを含めて、さらにこの問題について考えを進めてみようと思う。

 mizzさんが指摘するように、絵画や芸術など、比較的古くから人類の文化の中にあった職業においても、それは教会の大主教や王侯貴族などから発注を受け、代価を受け取って仕事をしていたと思われる。しかし、古代社会においては、代価を受け取ることのできるような独立した職業ではなく、むしろ奴隷の仕事に近いものであったのではないだろうか。だからこれもまた歴史的に特有な社会経済体制のもとに生み出された「職業」であるといえるだろう。

 少なくとも産業革命以前の社会では、職人労働が一つの生産物種(例えば靴とか食器とか家具とか)を生産するギルドの内部である種の分業が存在していたとはいえ、そこで働く徒弟や職人たちはすべて、彼らが何を何のために作っているかを知っていただろう。

 しかし、デザイナーの行う労働は、それ以前の社会の芸術家や職人とは決定的に違う本質を持つのである。それは、産業革命以後、一つの生産物を生産する労働過程が商品生産の効率に都合の良いように分断化され、さらに機械(自分たちのものではない生産手段)の支配の元に置かれ、そこで働く労働者の本来の目的意識は完全に失われ、ただ目先の単純労働が誤りなく時間内に目一杯の生産量をこなすように行われることが外部から与えられた「目標」にされてしまっている、という事実を前提にしているのである。

 一方でこのような形の分割労働により生産物が生産されているがゆえに、他方で、生産物全体の姿を考える職能が必要になるのであって、それはいうまでもなく生産手段を所有する者の意志を代行する役割なのである。生産手段を所有する者がそれを使って、何を何のために生産するかは、彼の意志が、どのようなコンテクストにおいて決められているのかを見れば明らかである。商品を作り、それを市場に投入してそこから利益を得るためである。

 このような真実を彼らはさまざまな形で覆い隠し、あたかも自ら人類社会のために普遍的に意義のある生産活動を行っている「生産者」であるかのようなポーズを取り、それがこの社会の「上部構造」(いわゆる社会常識)の中に組み込まれているのである。

 デザイナーは決して忘れてはいけない。彼らの「知的労働」そのものが、日々過酷な生産ラインでの労働に耐えている多くの「肉体労働」なくしては存立し得ないのであって、彼らから生産の真の目的意識を奪い去り、それらすべてを支配している生産手段の所有者の意図を代行するという役割であることを。

 われわれは、現在の資本主義社会でのような、生産物を「売るために作る」ことによって成り立つ経済システムではなく、「必要だから作る」ことによって成り立つ本来の意味での経済的システムを目指すべきなのであって、その過程で、マルクスが普遍的な労働過程の本質として述べている本来の労働のデザイン的側面を獲得できるような生産システムを作り上げて行かねばならないのだと思う。

 それは、もちろん無数の再編成された分業種と、資本主義生産様式が残した高度な生産技術の遺産によって成り立つ生産システムであろうが、そこでは何が必要であるのかを、その分業種の担い手たちが知っており、彼らすべてが、例え部分労働を担っていても、その部分労働が生産物全体において持つ意義を了解しているようなシステムである。それは決して必要のないモノを無理矢理「必要化」させたり、おもしろおかしさで売り込んで後は知らない、という無責任なモノの生産ではなく、「必要なモノを必要なだけ作る」ことによって成り立つ経済社会である。

 そのような生産システムにおいては、無駄な競争や無駄な消費はなくなり、地球環境や資源の国際的な協力下での保護が実現され、生産手段の社会的共有化をもとに各分業種と生産目的が有機的に結合されうる基盤が存在し、そこにおいてはじめてマルクスが述べた労働過程が現実の社会においてなし得る基礎ができるのだと思う。

 われわれにとって、このような社会経済的システムを実現させることが大目標であるが、それに至るプロセスは様々な現実によってさまざまな道をたどらざるを得ないだろう。しかし、デザイナーという職能が普遍的なものであるという誤った思想や、デザイナーが、その職能を通して、理想社会を実現しうるというとんでもない幻想もやがては確実に消え去るであろう。

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