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2010年7月18日 - 2010年7月24日

2010年7月24日 (土)

デザイン労働の矛盾への批判を通して得られる次世代社会の労働の姿(その1)

 これまでの分析によって、われわれが生活の中で必要とするモノを生産する資本家的企業の生産過程において、デザイン労働がその価値形成に果たす比率は生産現場で働く労働者の労働が価値形成に果たす比率よりずっと小さいという事実。その生産物が市場で売られる際には、それらすべての労働が合体されて形成された価値よりもずっと高い価格で売りに出されているという事実。その商品を価値以上の価格で売るために資本家によってその労働力を買い取られたのがデザイン労働者であるという事実。したがって資本家にとって、たとえ、その生産物全体においてデザイン労働が価値形成に寄与する比率が小さくとも、その労働力を、他の生産労働者の労働力の価値以上の価格(労働賃金)で買い取っても損はないという判断をさせることが出来たということである。

 こうして資本家は、デザイン労働力の稼働率を高め、次から次へと新しいデザイン商品を市場に送り出そうという意欲をかき立て、それによって多くの利益をあげることが出来るようになった反面、必要もないモノを「必要化」させるという状況を日常化させるようになった。その結果、膨大な量の無駄な消費物資が生産され、生活に必要だから買うのではなく、作為的に購買欲をかき立てられ、生活が味気なく仕事にも意欲がわかないので思わず何かを買うことでそれを充たそうとする人々によって消費は拡大した。

 その過程で膨大な生産労働が消費され、莫大な利益が資本にもたらされた。長年に渡ってそれが繰り返された結果、膨大な量のエネルギーと資源が消費され、山のような廃棄物が溜まり、自然破壊が進み、資源は枯渇し始めたが、資本家にとってそれは、彼の本来の関心事ではないし、彼らにコントロールできるわけもない。莫大な利潤の蓄積によって動脈硬化を起こした世界金融市場で、資本の血液(金融資本)の流れが悪くなると、彼らの代行機関である政府は、われわれから吸い上げた税金で金融資本を支え、「消費拡大による景気回復」をお題目のように唱え、ますます状況を悪くさせている。

 さて、一方、デザインの理論研究においては、このようなアンコントローラブルな状況を、デザイナーという職能、つまりデザイン労働者が知恵を絞って解決できるという幻想が振りまかれている。これまでの私の分析において、そのようなことが、資本主義生産様式の中に組み込まれた一分業(職能)でしかないデザイン労働者に出来るはずがないことは分かってもらえたと思う。

 一方で、教育機関や本などで、あらゆる分野でデザイナーとしての計画的構成力や創造力を発揮して、社会全体を良くしていこう、という「夢」を与えられて企業のデザイン現場に入ると、現実はそのような「夢」とはほど遠く、ただただ、市場の競争に打ち勝つために新しい商品のデザインを繰り返すだけであることが分かる。やがて「夢」は幻想に過ぎないことに気づいても、生活のためにその職に踏み留まざるを得なくなる。自分の職能を否定することは、自分自身の存在をも否定することになるので、それはしたくない。そこで何とか、自分なりにその存在意義を探りながら「妥協」を繰り返して生きてゆくことになる。

 私自身が苦悶してきた、このような矛盾の中から、自分がこの社会の中でどういう存在なのか、何を希望として生きるべきなのかを考えざるを得なくなる。

 そこで一言ではとても言い切れない肝心なことを敢えて言えば、こうである。

 デザイナーという職能が特権的に見られるのは資本家的視点からだけなのであって、現実は他のあらゆる生産的労働に携わる労働者と同じ立場なのである。生産現場で非正規雇用労働者として働く労働者もデザイン労働者と本質的には同じ立場にいるのだということを理解する必要がある。そしてすべてはそこから出発する!

 われわれが目指す目標は、250年以上に渡る生産様式の資本主義化の進行の中で、あらゆる生産的労働の場から資本によって奪われてしまった、マルクスが描き出したような本来の労働過程を、新しい形において再びわれわれの手に取り戻すことである!

 それは労働の形態としては分業であっても、それらが使用価値の生産という目的のため、私有化された価値の増殖という資本家的目的を介さずに、直接に有機的に結合された労働によって、全体としての生産の目的を共有し、有機的結合を構成する分業種のすべてが本来の労働過程におけるデザイン的側面をそれぞれの分業種に即した形で発揮できるような生産体制を必要とする。それによって分業種はあらたな形態で再編・再構成されるべきである。このような社会においては、職能としてのデザイナーは存在しないかもしれないし、存在するとしてもまったく今日のそれとは異なる形態においてであろう。こうして、すべての労働者の手で、本当に必要なものを必要な量だけ生産すれば足りる社会経済体制を生み出すためのグランド・デザインを可能にすることこそが必要なのではないか!

 目標に至る道は遠く厳しいかもしれないし、途中でどのような道をたどるかは予測できないが、正しい目標は持つべきなのである!

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デザイン労働のさまざまな形

 これまで、行ってきたデザイン労働の商品価値形成における寄与率に関する分析は、主として、大量生産を行う企業での、工業デザイナーの労働内容についてであった。しかし、建築デザインのように、生産される対象が、ひとつの建築物であるような場合には、事情は異なり、建築物商品の価値構成における建築デザイナーの労働と建設作業員の労働の比率はそれぞれが1軒の建物を完成させるまでに要した労働時間の比率に等しくなる。したがってその比率の差は工業デザイン労働における場合に比べてずっと小さいであろう。もちろん量産住宅のような場合は、工業デザイナーとほぼ同様な形となる。また家具デザイナーの場合は、量産を全体としたデザインの場合は工業デザイナーと同様のポジションであるが、一品製作的な家具の場合は建築デザイナーに近いポジションである。

 工業デザイナーと建築デザイナー(設計者)のこうした違いは、その成り立ちの違いによるものであるといえる。工業デザイナーは、あくまで、産業革命後の機械制大工業における設計技術者の登場を前提としており、その労働の一部である、商品の感性的特徴をデザインする部分が、生産手段の所有者である資本家の要請(商品の市場価格をその価値よりはるかに高くしたいという要請)に応えて独立した分業種として誕生したのである。

 しかし、建築設計は、古代から行われてきた大規模建築などにおいて、その施主である王侯貴族などの要望を受け、それを一つの具体的形に表現する仕事を行う専門家として誕生したと考えられる。古代の大規模建築においては、建設作業に携わった労働者(奴隷労働など)の労働時間は想像を超える過酷なものであったといえるだろうし、驚くほど多くの労働者が、長い年月を掛けてその完成まで働き続けたであろう(古代においては労働力が商品として扱われることはなかったので、建設労働者がまるごと王侯貴族の占有する生産手段の一部として取り込まれ、死ぬまで働かされたのである)。したがって古代労働における建築家の労働時間はおそらくその建設に要したのべ労働時間に比べてずっと少なかったと思われる。それが現代になると資本主義生産様式の発達にしたがって著しく進歩した生産技術により、建設に必要な労働時間は大幅に少なくなったと考えられる。

 したがって、工業デザイナーと建築デザイナーは、後に「デザイナー」というカテゴリーに括られるようになったが、その労働内容はかなり異なるものであるといえるだろう。例えば工業デザイナーの労働対象は不特定多数のユーザであるが、建築デザイン労働の対象は特定された個人である。量産住宅の場合を除いて、建築デザイナーの労働対象は、直接的に市場で競合商品と価格競争をすることは少なく、単に施主の予算と趣味によって決まる要素が多いのである。

 ところで、工業デザイナーの場合も、いわゆる企業に雇用されるインハウス・デザイナーではなく、欧米では、かの元祖インダストリアル・デザイナーの一人であるレイモンド・ローウィーのように、独立したデザイン会社を経営する形がかなり多い。では、こうしたデザイナーは、インハウス・デザイナーのような「デザイン労働者」ではないのか?それに対しては次のようにいえるだろう。

 工業デザイナーは、生産物の生産に関わる労働であるにも拘わらず、その労働が生産手段に直結しておらず、生産手段の所有者である資本家によって直接的にその労働内容を支配されることはない。そのため、生産企業から離れ独立した「小資本家企業」としてその経営を行えるのであるが、結局は、生産手段の所有者である大企業資本家に間接的な支配を受けているのであって、まったく対等な資本家同士の関係ではないのである。ただ、レイモンド・ローウィーの時代のような、同業者が少なかった時代には、その利益は驚くほど多く、大企業資本家と肩を並べることもあったと思われる。中にはイタリアのカロッツエリアのようにデザイナー自身が生産手段を所有し、生産資本家として一品製作でクルマを生産するという例もある。

 結局、さまざまな形で存在するデザイナーという職種(分業種)それぞれの違いの本質は、その外見的な姿ではなく、むしろ彼らと生産手段の所有者(資本家)との関係のあり方の違いにあるといえるだろう。生産手段の所有者が、それによって様々な形の労働を吸収して生産する生産物の中で、デザイン労働がどれだけの価値部分を生み出したのかは、その生産物が商品として市場で売られる場合に付けられる市場価格とはほとんど無関係のように見えるが、実はそれが本来の社会的な生産におけるデザイン労働の寄与率を示すのである。

 

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2010年7月23日 (金)

デザイン労働と単純生産労働の「質」の差とは?

 さてふたたび、デザイン労働の問題に戻ろう。

 これまでの分析で、出来上がった生産物に含まれる価値のうち、直接的な生産労働が生み出した価値部分に対するデザイン労働の生み出した価値部分の比率は、生産物の生産個数が多ければ多いほど、小さくなることが分かった。

 しかし、労働力商品市場に目を転じれば、デザイナーとしての労働力は、直接的生産労働(殆どの場合、単純労働である)の労働力に比べて、はるかに高い市場価格で売ることができる。それはなぜか?

 一つは、デザイン労働力を身につけるために必要な「教育費」が単純労働者の労働力を養成する費用よりも平均的に高くつくからであり、それによってデザイン労働力の価値を若干高めているためである。もう一つは、出来上がった商品が市場に出された際に、デザイン労働が、商品の市場価格を実際の価値以上につり上げるために、直接生産労働よりもはるかに大きな影響力を資本家に対して持つからである。特に後者は、デザイン労働力の市場価格を実際の価値より高めることに貢献している。

 しかし、そのことを以て、単純な生産労働に比べて、デザイン労働の方が、質の高い労働であるというのは、早計である。

 その理由は、そもそも、誰が、何のために分業種の違いによる「労働の質の差」を問題にするのか、ということを考えれば、この問題の中身が見えてくる。それは、労働者階級の中では、上層に属する、デザイン労働者や設計労働者が、労働力の買い手である資本家に対して、それを分割された単純労働による生産労働などに比べて高い価格で売れる立場を維持したいという要求と、資本家側では、単純労働に比べてデザイン労働のような知的労働は、直接に生産手段と結合していないため、労働が生産手段に規制される度合いが少なく、その「質」を評価するための基準が見あたらないということ、そのため、すでに述べたように、デザイン労働の内容が、生産物である商品の市場価格を価値以上に保つために必須の要件であるという、資本家側の理解に基づく、両者の合意バランス点をとって形成された見方であるといえるであろう。

 しかし、実際に社会的に必要な労働として、生産物の中に結晶化される労働においては、労働の質ではなく、その平均的な労働時間という量的な面だけが価値の形成に寄与する。マルクスが、資本主義経済の発展において否定的な形で「経済法則」として労働者階級を支配している「価値法則」を批判的に分析し、その本質を抽出することによって明らかにし得た考え方が彼の労働価値説であり、そこでは価値形成実体としての本来の労働が持っている個々の内容の違いは、それが結合されてひとつの生産物として結晶化した後には問題にならず、むしろ、各労働者がそれぞれ異なる形において支出した労働が、社会的に必要な富全体を生み出すために、どれだけの量的な割合で寄与したかを示す基準として(つまり社会的な平均的労働時間として)抽象されたのである。労働の質は、生産物がその使用あるいは消費において、所期の使用価値を発揮できなかったときに初めて問題になるのであって、正常に使用価値を発揮しているときには何ら意識されることがないのである。

 だから、生産物の価値形成においては、デザイン労働も単純な生産労働もその質ではなく量、つまり労働時間がその生産に寄与した割合を示すといえるのである。しかも、直接的生産における労働過程が、効率よく大量に同じモノを生み出すという資本家的要求に従って、機械(生産手段)に従属された形で細分化され、同時にそれが労働力商品の価値を引き下げるために、どのような労働者でも簡単にできるように、単純化され、部分労働化されることで、今日の形態になったということ、そしてその生産的労働の細分化の反対の極では、資本家の意図に従って、生産物全体の姿を決めるための新たな労働種として設計労働者やデザイン労働者が登場し、その労働が、細分化された生産的労働をひとつの有機的結合労働として意義付け、生産物にまとめ上げるための支配的位置を獲得したという歴史的経緯を考えれば、同じ労働者階級としての視点からは、その労働の「質」を比較すること自体、何の意味もないことが分かるであろう。

 

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2010年7月22日 (木)

 資本論を理解するために

 あの膨大な書である「資本論」を完全読破するのは容易ではない。特に私が七転八倒した向坂逸郎訳の岩波書店版「資本論」(全3巻4分冊)は読みにくい。またこの定本となっている日本語版「資本論」がドイツ語版からの訳であるのに対して、最近サミュエル・ムーアがエンゲルスの監修の元に英語訳した資本論をmizzさんがメルマガ(http://archive.mag2.com/0001025661/index.html)で逐次日本語化しており、向坂版との違いを比べながら読むと、理解を助けることになると思う(所々に入っている「訳者注」もおもしろい)。

 そこで最近いくつか出てきた資本論の入門書を当たってみたが、まず、的場昭弘先生の「超訳 資本論」(洋伝社新書,2008-2009)は、たしかに原典よりは読みやすいが、あくまでも「超訳」であって、資本論のエッセンスを的確に理解するにはほど遠い内容である。また、東大名誉教授の伊藤誠先生以下、旧宇野派の流れを汲むと見られる著者たちによる、「マルクス「資本論」入門(河出書房新社,2009)、という本は、6つのレクチャーをそれぞれ別の著者が担当して書いているのであるが、それら6つのテーマ間の関連性が理解し難く、著者が得意とするテーマの断片だけが羅列されているという感じである。さらに全体の俯瞰図的位置づけで書かれている、的場先生による「資本論」完全解読は、原典に表出されているマルクスの「濃い」意図とこの書に掛けたすさまじい熱意を、完全に薄めた上で冷たく冷やした食後の飲み物のようにしてしまっている。

 こうした「資本論入門書」を読み、さらに柄谷行人の「可能なるコミュニズム」(太田出版,2000)などを読んで、マルクスの思想が理解できた、などと思われてはとんでもないことになるので注意しよう。

 そこで私がおすすめするのが、宇野弘蔵の名著「経済原論」(岩波全書, 1964)である。宇野弘蔵先生は、20世紀中葉に「資本論」解釈の主流であった、ソ連共産党の公式解釈の持つ問題点を批判しつつ、資本論の独自の解釈を行ってきた数少ないマルクス経済学者であるが、マルクスの意図を主体的に受け止め、自分なりに理解し、論理的な整合性を持った形でそのエッセンスをまとめたのが、この書である。宇野派では、原理論のテキストとして用いられたこの本は、「超訳」とは比べものにならないほど内容的にしっかりした論理性を持っている。

 この「経済原論」は久しく絶版状態になっていたが、最近、装丁も新たになって、岩波全書から再販が出ている。大して厚くなく、その気になれば、一気に読める。特に、私のように、資本論第1巻を読み終えた後、第2巻、第3巻に読み進む意欲を削がれてしまった人には、そのモチベーションを起こさせるのによい本である。私は、その中で特に、「社会的総資本の再生産過程」という章から多くを学び、資本論第2巻を読むためのモチベーションを得た。

 しかし、「経済原論」を読むことで「資本論」を理解できたと思うのは大きな間違いであり、これはあくまで、「資本論」を「完全解読」するための有力なナビゲータであるに過ぎない。宇野「経済原論」は、資本主義的経済の背後でその批判により明らかにされる普遍的な意味での「経済原則」を描き出そうとした本であると思うが、そこにはひとつ足りないものがある。それは、資本論が労働者の「自覚」の書であるという視点である。

 世の中を支えている労働者が実は「労働力商品」として、つまり価値を生む商品として用いられているということを自覚し、自らの労働過程が自らを支配する仕組みの再生産の中に組み込まれ、それら全体と過去のすべての労働の成果が「資本」として我々の生活を支配している資本主義経済の仕組みを理解させようとするマルクスの意図を正しく汲み取ることこそ、資本論を読むことの意味であり、われわれの、実存を資本の圧迫から解放させるための出発点であるということを肝に銘じるべきであろう。

 私のようなマルクス経済学の素人である人間には、おそらく「資本論」の「完全解読」はライフワーク的目標であり、生きているうちに「完全解読」出来る自信はまったくない。それでも私が「資本論」を読もうとするのは、自分が生きているこの社会がどのような社会であり、自分がその中で生きていることの意味を知りたいからである。

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2010年7月21日 (水)

コンピュータ関連商品の価値を構成する労働について

 2回に渡って、商品におけるデザイン労働が生み出す価値部分の問題と、ソフトウエアデザイン(開発)労働が生み出す価値の問題について考察してきたが、ここで、それらが統合されているコンピュータ関連商品の価値構成とそれを生み出す労働の関係について考察を進めてみよう。

 ハードウエアとしてのコンピュータという商品は、それだけでは機能を発揮せず、それにあらかじめインストールされている基本ソフトOSと、その上で稼働するアプリ・ソフトによって初めて機能を発揮することができる。その発揮される機能はアプリソフトによって如何様にも設定でき、それゆえコンピュータはマルチファンクション(多機能あるいは多目的)機器としての特徴を持つ。そのため、使用目的にしたがって、それに相応しいアプリソフトをインストールできるように、ハードとソフトは別々の商品として販売されている。

 ハードとしてのコンピュータ本体に含まれる価値は、まず、その本体を製造するのに必要であった原材料や部品を生産するために要した過去の労働成果である価値部分と、製造に必要であった生産機械(これを生産するのに要した過去の労働成果として)の価値が、それぞれの個体に分割されて入り込む価値部分をあわせた不変資本部分(c)があり、そこにコンピュータ本体を製造するために必要とされた労働により新たに創出された可変資本部分(v+m)の価値が加わって全体の価値が構成されている。

 可変資本部分をさらに詳しく見れば、設計やデザインに要したデザイン労働により創出された価値部分と、生産部門で生産労働や検査労働に要した部分に分かれ、それぞれがその内部でv+mを構成しているといえる。しかし、前々回述べたように、デザイン労働により生み出された価値部分は、最初にデザイン開発に要した労働時間が、その後生産される商品一つ一つに分割されて配分されるため、生産個数が増えるほど一つの製品において占める価値の比率が小さくなる。それに対して生産労働部門の労働が生み出す価値部分は、すべての製品に同じ労働時間分が含まれている。したがって生産個数が増えれば増えるほど、1個の製品におけるデザイン労働の生み出した価値部分の比率は小さくなる。

 一方、ソフトウエア商品の価値構成は、ソフトウエア開発に要した労働時間が生み出した価値は、オリジナルをコピーして一つのパッケージとして販売する際に、そのコピー数で割った価値部分として各パッケージの価値を構成する。ここでは生産的労働により付け加わる価値部分はほとんどゼロである。したがって、ソフトウエア商品はその販売数が増えれば増えるほど、それに比例して1個当たりに含まれる労働価値は低くなる。ところが著作権法によってその市場価格は一定に保たれているため、その市場価格は実際の価値よりもはるかに高いものになる。

 こう考えると、商品の価値構成で不変資本部分がほとんどなく(ということは生産手段への投資が殆どないと言うことである)v+mだけであり、しかもハードウエアの場合には避けられなかった生産労働部分がほとんどゼロであるという条件の下で莫大な利益を挙げうるソフトウエア産業はハードウエア産業よりはるかに利益を得やすいことになる。そうなれば資本家たちはいっせいにソフトウエア産業に走ることになるだろうと思われる。

 しかし、実際はそうはならない。その理由は、ソフトウエアはハードウエアがなければ、ただの電子的記号列の並びに過ぎず、何の機能も果たせないのであって、ハードウエアが「ソフトなければただの箱」というのと同じであって、ハードウエア産業とソフトウエア産業が互いの存在意義を認めてその利潤の利益配分を調整しあう仕組みができているからであろう。こうして両者は、一方が実際の価値に対してそれほど高くない市場価格で商品を売らねばならないのに、他方では実際の価値より遙かに高く売れる資本家が互いに譲歩しあって平均的利潤を獲得しながら資本を蓄積することができるのである。

 ところで、ここでもっとも重要なことは、この全過程においてもっとも搾取されているのはハードウエアの生産を行っている生産労働者であって、ソフトウエア産業のソフトウエア開発労働者やハードウエアのデザイン労働者は、さまざまな有利な条件(著作権法やデザイン・ブランドによる「付加価値」など)の下で実際の価値よりはるかに高い価格で売ることが出来るとともに、生産労働者の生み出す価値部分によって資本家にもたらされる多くの利潤のうち、資本家からその分け前の一部を、彼らの労働が市場価格に及ぼす効果の大きさゆえに、与えられているために、生産労働者よりもはるかに高い労働賃金を得ることができているのだという事実である。

 

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2010年7月20日 (火)

ソフトウエアデザイン労働が生み出す価値

 前回は、ハードウエアとしての工業製品の生産におけるデザイン労働の生み出す価値について考察したが、今回はソフトウエア開発におけるデザイン労働の生み出す価値について考察してみよう。

 MSのOfficeやAdobeのデザイナー用ツールとして使われるソフトなど、さまざまな業務に必須のソフトウエアを例にとっても、みな結構な高価である。個人で買うには高すぎる。そこで、これらのソフトウエアを開発するに要する労働がどれだけの価値を生み出すか考えると以下のようになる。

 ソフトウエア商品Sを開発するために、20人のソフトウエア・デザイナーが合計200労働日の労働を要したとする。1労働日の労働時間を8時間とすると、1600時間であるから、Sの開発に要した労働時間はのべ20x1600=3,200時間である。

 ソフトウエアの場合は、ハードウエアと違って、オリジナルが出来上がった後に、一つ一つの商品を作るために付け加えられる労働は非常にわずかである。いったんオリジナルが出来上がれば、それを単にコピーするだけで済むからである。だから、ここではコピーに要する時間は無視しうるものと考える。

 したがって、ワンパッケージのソフトウエアSに含まれる価値はソフトウエア開発労働時間を、そのコピー数で割った値で与えられる。いまコピー数を10,000とすると、S1個の価値=3,200時間/10,000個で与えられ、0.32である。

 売り上げが好調でコピー数を増やせば、それに反比例して1個当たりの価値はどんどん小さくなる。しかし、実際の市場販売価格はほぼ一定である。

 売られたパッケージは買い手がそのままそれをコピーすれば、いくらでも同じものができてしまうので、それでは売り手は利益を得られなくなる。そのため、ハードウエアとは違って、ソフトウエア著作権という法律を作らせることによって、法律的にコピーを禁じ、パッケージはコードを含めてまるごと買い手に売られるのではなく、単にその使用ライセンスを与える、という形が取られるのである。そのため、競争相手の企業は、類似のプログラム・コードによるソフトウエアを開発することができなくなり、ソフトウエア商品Sの市場価格は競争相手によって引き下げられることがなくなる。もちろん、内部のプログラム・コードが類似していなければ、著作権法に触れずに同じ機能を果たすソフトウエアを商品化することは可能である。ATTのUNIXに対するLINUXがその例である。

 さて、こう考えると、MSやAdobeが最初にソフトを開発するのに要した時間と費用は莫大なものであったとしても、その後は少しづつ手直しをしていけば済むのであって、販売数が多ければ、1個当たりの実際の価値はおどろくほど小さいはずであるにも拘わらずそれとはかけ離れた市場価格で販売されているということが分かった。もちろんライセンス販売であるからには、その期間中、そのソフトウエアに関する間違い(バグ)や問題点が見つかった場合にメンテナンスを行うという義務が生じることにはなるが。

 要するにソフトウエア開発企業においては、ハードウエア製造企業に比べて、商品1個当たりから得る利益は、はるかに大きくなるということである。しかもそれが、著作権法という法律のおかげであることが分かる。

 もともとは小説家などが、自分の作品を出版する際に出版社がその利益を確保するために作られたのが、この著作権法という法律である。現在ではこの法律に護られて、莫大な利益をあげる産業はコンピュータ・ソフトウエアに限らず、映像ソフトや音楽ソフト(これらはコンテンツと呼ばれている)についても同様である。(Appleはこれによって莫大な利益をあげている)

 これらの産業が、莫大な利益を上げうるのは、その開発や制作に掛けた費用に見合うだけの価値で売られるからでは決してなく、実際の価値よりはるかに高い市場価格で売るに出せる特権を与えられているからなのである。この特権は、結局のところ、ソフト開発に要した知的労働の成果を「知財」として私的企業(その経営者である資本家)が「合法的に」所有権を確保し囲い込むことによって、得られる利益なのであって、それを生み出したソフトウエア開発労働者には、その労働力の再生産に必要な価値のみが支払われるのとは対照的に、その労働の成果の所有者は莫大な利益を得るのである。

 ところで、ソフトウエアとはハードウエアの機能をコントロールするための「機能情報」であって、ハードウエアにインストールされねばその機能を発揮することが出来ない。コンテンツといわれる音楽や映像もそれをプレーさせる機器が必要である。このことは忘れてはいけないことである。これについては別の機会に考察することにしよう。

 

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2010年7月19日 (月)

デザイン労働の生み出す価値

 ふたたびデザインの問題に帰ろう。デザイナーという職能が歴史的にみてどのような社会経済的コンテクストのもとに生まれてきたかはすでに述べたが、それは設計技術者の労働の一部が自立して、商品の形態や色彩、そして使い心地などの、商品の売れ行きにもっとも直接的な効果を与え、購買者の感性に訴える要素のあり方を決める「デザイン労働」の担い手として登場したのである。

 ところで、デザイナーは、その試行錯誤的労働過程の終わりに、その労働の成果として、モデルや図面、あるいは3次元CADデータを出す(当然その中には試作品の製造やテストに要した労働も含まれる)。その後は、生産部門がそのデータに基づいて実際の生産物を生産する。したがって、デザイナーの労働結果は、それ以後の生産的労働者の労働内容を決定する立場にあるのだが、生産物はデザインだけでは成り立たないのであって、それが実際にモノとして作り出されなければならない。

 これをマルクスの労働価値論に従って分析してみると意外なことに気づく。ある商品Wのデザインに、デザイン労働者が5人必要であったとしよう。そのデザインが終了した後、それが実際の商品として生産されるためには、60人の生産部門労働者が必要だったとする。この中には生産工程を考える労働者(この人たちはむしろ設計労働者に近い立場にあるので)は含まないとして、主に生産ラインに沿って並んで、商品を組み上げる人たちと、その品質チェックなどをする人たちおよび部品やできあがった商品を搬入、搬出する人々などである。

 一労働日に生産される商品の個数が、480個であったとすると、その商品に埋め込まれた価値は、次のような形で示されるであろう。

 Wの1個の価値=デザイン労働に要した時間/生産個数+1個の商品の生産に要した労働時間

(ただし、ここでは、実際の商品の価値に含まれる、原材料や、パーツ類を作るために支出された過去の労働は考えないこととする)

 ここで、デザイナー5人がデザイン終了までに要した労働時間が合計200時間であったとすると、デザイン労働時間は5x200=のべ1000時間であるから、1個当たりのデザイン労働による価値は1000/480つまり2.08時間である。一方生産労働が1個の商品Wを作るのに要した労働時間が、部分労働者1人あたり1分であったとすると、1個の商品全体の生産に要した労働時間は60x1/60=1時間である(1日に生産されるWの個数は480個であるが、これはそれぞれの部分労働者が自分の持ち場の労働を1時間に60回づつ繰り返すことで、ラインから1分に1個の割でWが転がり出るからであって、最初にラインが動き始めてから最初の1個がラインオフするのに要する時間は1時間である)。このままだとデザイン労働による価値が生産労働による価値の約2倍になる。

 しかし、商品Wが1日だけしか作られないなどと言うことはあり得ないのであって、その生産が100日間続いたとすれば、事情は全く異なる。

 デザイン労働時間は労働日ごとに繰り返されることがないので、全く変わらず1000時間のままであるが、生産されるWの個数が100日間に合計48000個になることで、1個当たりに含まれるデザイン労働の価値は1000/48000時間つまり、0.02時間となる。一方、生産労働の価値部分は労働日ごとに繰り返されるので、相変わらず日々1個のWに1時間づつ入り込む。したがって、1個当たりのWについてデザイン労働の価値が生産労働に対して占める割合は、生産個数が増えれば増えるほど小さくなるのである。(このことは資本論のどこをひっくり返してみても書いてない。しかし資本論で明らかにされた論理をそのまま今日の労働形態に適用してみるとこう言えるのである)

 それにも拘わらず、デザイナーの労働力が資本家によって、生産労働者に比べて高く買われる理由は、商品市場における販売価格を実際の価値以上に高く設定させるためにデザイン労働が必須の要因だからである。商品が労働により生まれた価値通りに売られるのではなく、市場価格で売られることは資本論に述べられている通りである。

 こうして、一つの商品ができあがるまで、それに要したさまざまな分割労働種の労働が生み出した価値は、ある場合にはその価値以上に、ある場合にはその価値以下に見なされ、その「見なされた労働力価値」に相応する「価格」によって資本家に買い取られるのである。

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