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2010年1月17日 - 2010年1月23日

2010年1月22日 (金)

インダストリアルデザイナーの労働が直面する諸問題 その4「グランドデザインの意味するもの」

 社会的に必要なモノを、私的な資本家的企業が「売るために作る」という行為を通じて達成させるのが資本主義経済の基本であるが、資本家的視点から表現すれば、彼らが「自由な私的個人」として所有する財産を「自由な企業活動」によりいくらでも増やすことができる(税金という足かせのもとにではあるが)という法的な保護のもとで、その私的企業どうしが、「自由な市場競争」のもとに、利益を競いあうことで、社会的な(公的な)生産を担うことが保障されている社会である。

 そして基本的に、市場の需要供給関係によって、モノの価格が決まり(同様に労働市場では労働力の価格もきまり)、価値より高く売る企業はやがてより安く売る企業に市場を奪われるという原理(労働力商品は余れば価格のつかない失業者として放出するという原理)によって、モノの価値が価格を通じて実現される、という仕組みである。この中には、社会全体の姿を構想する役割の人間は登場しないのである。別な言い方をすれば、資本主義社会の理想的な姿は、無政府的社会であるともいえ、社会の成り行きは市場の動向がすべてを決することになる。

 しかし、この基本が崩れた場合(例えば経済恐慌などのように)、社会全体の姿を構想しコントロールする人間が求められる。そこに登場するのが、ヒトラーのようなカリスマ的独裁者である。もちろんヒトラーの登場は当時の世界情勢を無視しては語れない。一方に資本主義社会を否定する社会主義体制が登場し、他方でアメリカに中心を移した西欧資本主義経済体制が行き詰まり、後進資本主義諸国では民族主義や国家主義が台頭し、そしてソ連においては実質的に労働者階級の支配権が、共産党官僚に奪取され、カリスマ化したリーダーであるスターリンのもとで、国家の構想が決められるという事態が生じていたのであるから。しかし見方によっては、ヒトラーやスターリンは、完全なトップダウンという否定的な意味であるとはいえ国家の「グランド・デザイン」を行おうとしたデザイナーであるともいえる。否定的な形ではあれ、社会がグランドデザインを必要としたからであろう。

 一方アメリカを中心とした資本主義経済体制の本拠は、その後、国家の経済的指導力を強化し、国家予算の多くを社会的インフラ作りに投入する方策を取るようになった。つまりアメリカでも大統領は国家の「グランド・デザイン」を構想するデザイナーとしての役割を果たしたのである。ただ、アメリカでは、旧ドイツやソ連でのような、トップダウン的政治選択の構造で指導者が決められる仕組みではなく、一応ボトムアップ的に大統領が選挙によって決められるので、その意味では、大統領は、ある程度民意を反映したグランド・デザイナーであるかもしれない。

 さて、このような長い前置きをした後に、私が言おうとしたことは、次のようなことである。

 かつて、産業資本主義社会が台頭し産業革命といわれる事態を引き起こした時代に、産業資本家の金儲けへの思惑で一杯の頭脳では、考えることが不可能な、生産物全体の構造や機能を生産に先立って考えるという仕事を請け負ったのが設計技術者であった。その後、資本主義社会が金融資本主義段階へと進み、産業資本家達は金融資本家に支配される運命となったが、それが金融恐慌というかたちで行き詰まり、大量の労働者を失うことが結局自分たちに利益をもたらさないという事実に直面したとき、労働者の生活資料市場での絶え間ない消費拡大を利益の源泉にせざるを得なくなったのである。

 そのとき、相変わらず金儲けへの思惑で一杯の頭脳しか持っていない資本家達に代わって商品の姿形を魅力的にして販売を促進する役割を請け負ったのが、インダストリアルデザイナーであった、という事実をここでまず思いだそう。

 たしかにインダストリアルデザイナーは、設計技術者と協力して(ただし資本家の金儲けへの思惑の一端を担った営業部門の支配権のもとで)ありとあらゆる生活資料をデザインしてきた。それはそれで、良くも悪くもこの社会を象徴するの歴史的文化遺産となるであろう。

 しかし、これはあくまで一つの私的な資本家的企業の利益を挙げるために、言い換えれば売るためにデザインされたモノたちであって、それらが無秩序に社会にあふれ出し、一方で地球の資源や環境が無秩序に破壊されていくことに対してどんな優れたデザイナーにも歯止めをかけることはできなかったのである。

 そこで、一企業の利害を超えた立場で社会全体を構想するグランド・デザイナーの役割を「政治」が担うことになる。しかし、この役割は決して独裁的であってはならない。あくまでもボトムアップ的視点に基づいていなければならないはずだ。

 しかしなのである。街にあふれる若い失業者達に向かって、「おまえたち自身の努力がたりないからだ」と言い切る自民党政権はいうまでもないことであるが、政権交代した民主党も、貧困や差別に目を向けているとはいえ、一皮むけば、資本家陣営の代表選手なのである。だからあくまでも、景気回復を優先し、それによって賃労働者の雇用をふやし、資本がふたたび利益を挙げることを通じて、その分け前を労働者階級にももたらしてもらおうとするわけである。現実には、企業の業績回復には「首切り」が必須であり、それによって失業者の数はますます増えるのである。

 たとえば、「国家戦略室」は本来ならば、働く人達(つまり労働者階級)の総意に直結したボトムアップ的組織でなければならず、資本家達に政治の場で対決できる場を保障する組織でなければならなかったはずである。菅さんや仙石さんの個人プレーでグランド・デザインをするための場ではないはずである。

 一番肝要なことは、デザイナーという職能も含め、ありとあらゆる社会的生産をそれぞれの分業種において担っている労働者達が、それぞれの私的企業の壁を越えて互いに手を結び、一つの「階級」として団結することである。

 社会的に必要なモノを、必要とする人達が直接協力し合い、社会的に共有化された生産手段をもって、直接それぞれの持ち場で、それぞれの分業種に固有なデザイン的行為を通じて作るという、当たり前の、そして普遍性のある社会の仕組みを生み出していくために、すべての労働者がその総意をもって自分たちの社会のグランド・デザインをすることができる社会こそわれわれが望む社会ではないだろうか?

 もしそれがすぐには無理としても少なくともそう言う「場」をいまの社会の中に生み出して行くことが必要なのではないだろうか?

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2010年1月18日 (月)

インダストリアルデザイナーの労働が直面する諸問題 その3「業務の細分化とデザイン教育」

 かつて資本主義社会勃興機にブルジョアジーたちの生活空間を美しく演出する仕事に携わっていた、建築家、家具職人、装飾家や芸術家などが、デザイナーというカテゴリーに組み込まれ、その一部が、20世紀後半に到来した大量生産大量消費時代に相応しいかたちの頭脳労働者として登場した姿である、インダストリアルデザイナーは、そのルーツにあった職人や芸術家の仕事の延長上のかたちを労働内容に持ちながら、それを「商品を魅力的に演出し、購買欲をかき立てる」労働として行うための分業種であるといえる。

 しかし、その職能はそれ自身の内部での階層化が進み、一方では、「付加価値商品」を生み出すブランド・デザイナー(個人名がブランド化した有名デザイナー)の労働へ、他方では市場競争で少しでも有利な闘いをするための商品の「差別化」を行うため、比較的低賃金で働くアノニマス・デザイナーの労働などへと多層化ししている。そしてその中間層は、デザインの実務から離れ、もっぱら管理職的業務に従事する中間労働者になっていく。

 またこうした横断的な階層化と同時に、縦割り的な細分業化が進み、業種別はもちろんのこと、同じ業種内でも、例えば自動車産業のデザイン労働者は、外装担当、内装担当、モデリング担当、付属品担当、カラリング担当等々といった具合に細分化されている。

 こうした中で、ブランド・デザイナーになれるチャンスは非常に希である。したがってほとんどは中間層以下の階層にあって、デザイン業務を管理する立場か、日々、個々に細分化された持ち場でデザイン業務に追われる、アノニマスデザイナーとしての労働を行っている人々である。

 一方、大学などのデザイン教育の場では、デザイン労働者(デザイナー)育成という産業界からの要請に応えるべく、基本的なデザイナーの労働力である、審美的センスや、魅力ある商品づくりのための能力を要請するための訓練を行うと共に、さまざまな、従来のいわゆる基礎知識としての心理学や図学などとは異なる、専門的能力を身につけさせよう努力している。

 例えば、市場調査の手法や商品の解析法、認知工学的あるいは人間工学的手法によるインターフェースの考え方、CADによるアイデアの可視化手法の習得、材料工学的知識、特許など法律的知識などなどである。これらのカリキュラムを完全に消化することは並大抵ではない。およそ一つの学科でまかないきれるような内容ではないのである。これはデザイナーという職能の範囲がきわめてあいまいであることから来る必然的帰結といえるかもしれない。

 この、職場での細分化された労働内容と教育現場での消化しきれないカリキュラムとの間に横たわるギャップは大きい。しかし大学側において、これは、大学を卒業して就職戦線で就職を有利にするため、言い換えれば「就職戦線」という名の元に行われる労働市場において、他の大学や専門学校を卒業してきた、「競合労働力商品」との競争において、デザイナー労働者の労働力商品としての交換価値を高めるために必要だと考えられていることと、デザイン労働者自身にとっても、いざとなれば「つぶしが効く」(他の労働内容をもこなせるフレキシブルな労働力という意味)という強みを身につける必要があるからであろう。

 一方、大学に入学し、無事に卒業するためには、莫大な教育費が必要であり、なけなしの財布を叩いて子息を大学に入れた親たちは、大変な支出を余儀なくされる。子供達が大学を卒業し無事に就職して自立できることを期待してこの負担を請け負うのである。大学の教員達もその期待に添うべく、日夜大変な努力をしてるのであるが、如何せん、問題の本質が見えていないと言わざるを得ない。

 デザイン労働力商品の生産は、資本家の工場やオフィスの中で行われるのではなく、そこに働く労働者階級(その多くはいわゆる中産階級化した労働者であるが)の人々が、資本家から前貸しされた労働賃金の大半を、自分の子息を労働者として育成するための資金(教育費)として用意し、使い果たすことによってはじめて可能となるような、彼らの生活の場で行われるのである。そしてその教育費のほとんどすべては、大学やそれに入るための予備校やその他のいわゆる教育産業の資本に吸収されていくのである。

 こうして毎年何千人もの新たなデザイン労働者が資本のもとに送り出されている。無用な消費を拡大するための商品を「魅力的に」し、販売を促進するために。そして「地球にやさしい」というふれこみで大量の資源やエネルギーの無駄使いをさせるために。

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