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2010年7月25日 - 2010年7月31日

2010年7月31日 (土)

お雇い経営者の報酬は非正規労働者と同じでよい

 最近、企業の経営トップの報酬額が話題になっているが、これに関する論議(例えば今朝の朝日新聞)を見ると、世の中の「オピニオン・リーダー」たちはいずれも、企業の経営者は「企業価値」を高め、企業の収益を上げた能力に応じて報酬を得るのは当然であり、問題は、従業員の給料との格差の大きさにある。つまり従業員が認める格差であれば問題がない、という考え方が主流のようだ。

 ここにはいくつかの基本的な誤認(事実の隠蔽というべきであろう)がある。第1は、企業の収益の源は誰が生み出したものなのか、という問題。第2は、経営者の能力が従業員の労働能力の何十倍何百倍とする根拠は何か、という問題。そして第3は、「企業価値」とは何かという問題、などである。

 第1の問題は、そもそも資本主義経システムにおける企業の生み出す価値額は、その企業が生産する商品を、延べどのくらいの労働者がどのくらいの時間を掛けて生み出したかによって決まるのであって、経営者一人が生み出すわけではない。経営者は、その企業で働く多くの労働者の労働の結果生み出された商品を、資本主義的な市場の中でいかにうまく実際の価値以上の価格で売りさばき、多くの利益を獲得するかにその「能力」を使うのである(当然その「能力」の中には、合理化による労働者の削減への「能力」が含まれる)。これこそ資本家の機能のすべてであり、資本家がもし労働者と同様な「労働力商品」の一つであり、彼が企業経営という「労働」を行ったと考えるならば、その労働力の再生産に必要な価値に相当する「賃金」がまともな額であろう。それは他の従業員より1円も多くはないはずである。そしてもっとも重要なことは、彼の「労働」は価値を生み出すことには全く貢献しておらず、単に、労働者が生み出した商品を市場でその価値以上の市場価格で売り抜けることに捧げられているのであって、彼は、「価値増殖」という視点から見ても、生産的労働において価値を生み出している労働者の労働に寄生した存在でしかないのである。

 第2の問題は、したがってほとんど明らかであるが、もし資本家である経営者がその「労働内容」に相応しい報酬を要求するならば、彼の従業員であるすべての労働者は、彼らが生み出した価値全体に当たる額を、つまり全剰余価値部分を含んだ商品の全価値額を経営者の報酬から差し引き、取り戻すことを要求しても少しも不当ではない。経営者の手には、商品の購買者が、価値以上の価格で買わされた商品に対して支払った貨幣額が残され、それは結局のところ誰か別の企業で働く労働者が生み出した価値を商人的に巧みな手口で自分のものとして詐取したカネなのである。だから、彼の「労働の質」が生産的労働者より何十倍も高いなどという根拠はまったくないのである。

 第3の問題は、株という形で資本を集め、それを企業経営のための資本として用いる現代の資本主義的企業においては、株が有価証券として証券市場で売買されることによりその企業の「価格」が決まり、それによって資本の回収率が左右されることになる。つまり企業それ自体が証券市場での商品として扱われているのだ。株主は収益性の高そうな企業に投資し、そうでなくなれば、そこから投資を撤退させる。市場で売買する者たちにとっては、価値と価格の違いが理解できないから、企業の証券市場における価格を「企業価値」と呼ぶ。もし仮に本来の意味で企業価値というならば、それはその企業のすべての労働者が労働によって生み出す全生産物の総価値とそこで用いられている生産手段の価値を合計したものであろう。労働そのものは価値ではなく、価値を生み出す実体であり、資本主義的労働市場において初めて労働者の能力が資本家によって「価値を生み出す商品」として見なされるようになるのだ。

 だから結局、経営者の報酬は、本来の、したがって資本主義社会ではない社会を想定しても、その社会の生産単位としての企業における「指揮官役」という労働に対しては、他の生産現場の労働者とまったく同様に、その労働時間に相当する価値額を受け取るだけであってそれ以上では決してありえない。まして、現代資本主義社会での、「経営手腕」を見込まれた「雇われ経営者」は、せいぜい非正規雇用の労働者と同じ水準の給料しかもらえなくても当然といえる。

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2010年7月30日 (金)

がんばれ!中国の労働者(続き)

 そこで視点を少し変えてみよう。外国資本と中国資本から二重の搾取を受けている中国の労働者にとっては、自分たちが安い労働力商品として「商品価値」があるとされている。そしてその「安さ」を支えているのが、農村や内陸地方の貧しい農民や農村から食いっぱぐれて出稼ぎにでてきた都会の下積みで働く人々の労働なのである。それらの安い労働が、大企業で働く比較的余裕のある労働者の生活資料を驚くほど安く提供できる土台を作っているのである。そしてストライキを打っているのは多分、そうした比較的余裕のある労働者なのではないだろうか?

 ストライキそれ自体は、労働者の当然の権利であるが、ストも打てない下層労働者がたくさんいて、結局そうした人々が、資本家たちのふところを最下層でを支えていることを忘れてはならない。

 そして日本においても、一流企業のデザイン部などで比較的余裕のある生活を許されているいわゆる「中間層」労働者は、自分の会社が中国の労働者からの搾取で潤っているということと、日本国内でもデザイナーのデザインした製品をラインで汗水垂らして働きながら生産している労働者がいて、彼らは非正規雇用の労働者や季節労働者あるいは時間賃金のアルバイトだったりするのであって、そうした人々の労働なくしては、自分の労働賃金も自分のデザインした製品も存在し得ないということを忘れるべきではない。もしそういう事実が理解できるなら、もう一つ深いところから、中国の労働者、がんばれ!と言いたくなるだろう。

 中国の労働者も日本の労働者も、企業が大きくなって、国の経済が盛んになっても、自分たちが働いて生み出した富に相当する恩恵は何一つ受けることは出来ないのだ。特に下積みで働く、労働者は、その労働が生み出している価値のほとんど全部を資本に吸い取られ、やっと毎日を生きているのだ。資本はつねにこういう人たちを必要としている。資本主義社会では、すべての労働者がみなリッチになるなどということは絶対にありえないのだということを理解しよう。

 だから、われらは、ともに労働者階級として正当な権利を要求し、この手に収めるために国境を越えて手を結ぶべきなのだ。国際資本市場での無益な競争のあげくの果てに、支配者たちが流す思想キャンペーンに洗脳された労働者や農民が「民族」や「国家」などというカンバンを背負わされ、個人として互いに何の恨みも憎しみもない人々と「国益のため」に戦場で殺し合わねばならないなどということは絶対に絶対にあってはならないのだ!

追記:http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/sapio-20100812-01/1.htm

上記のニュースを読んで欲しい(8月12日)。

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がんばれ!中国の労働者

 最近のニュースによると、中国で生産をしている日系大企業の70%近くが、中国人労働者のストライキに遭遇しているらしい。

 日本の大企業にとっては、生産計画が狂ってしまい、売り上げに響くので「迷惑至極なこと」であろうが、私はそうは考えない。

 中国では、いま「世界の工場」と言われるほどに、ありとあらゆる工業製品が生産されている、そのうち多くは中国に投資し生産拠点を置いている外国企業を経由して国際市場に出される輸出商品であるが、最近国内需要が伸びてきた中国国内向けの商品もかなりあるだろう。

 一方で、最近、日本国内でのデパートや有名店街では、高級品を買うのは、中国人が多いそうである。しかも日本製の高価な商品を買いあさっているらしい。日本人は不況のせいもあってか、安くて比較的品質の良さそうなもの(その多くは中国製である)を買う人が多いらしい。皮肉なものだ。

 そこで、ちょっと考えてみよう。日本企業が生産拠点を設けて生産をするのは、まず第1に、労働賃金が日本より遙かに安く、しかも質の高い労働力が得られるからだろう。第2には中国の国内市場の伸びを計算に入れているだろう。しかし、中国人労働者が中国で生活するために必要な生活費が相対的に安くて済む分、労働時間の長い生産的労働から吸い上げられる剰余価値部分の比率は非常に大きいので、日本の資本家が吸い上げることのできる利益の何割かを日本企業から投資を受けている中国の資本家が分け前として受け取ることで、中国の資本家たちは巨額の利益を手にすることが出来るのだろう。そのため、中国では、金持ちはどんどんお金が貯まるが、中国の資本家にとって彼らの雇用する労働者はその低賃金を売り物に世界中からの投資を呼び込んでいる手前、簡単に給料を上げるわけにも行かない。それでも労働力の供給より需要が上回り少しづつ労働賃金が高騰してくれば、労働者もその生活の中で、家電製品やクルマを購入したくなる。そこで賃上げのストライキが頻発するようになるのだろう。

 日本にやって来て高級品を買いあさるのは、お金持ちの中国人であるが、中国国内でストを打っているのは、厳しい労務管理の下で毎日長時間働いて膨大な価値を生み出しているにも拘わらず、中国と日本の資本家にそのほとんどの部分を剰余価値として吸い取られている労働者たちである。

 一方、世界に誇る「メードイン・ジャパン」製品を売り物にしている日本の企業では、安い労働賃金で働かされている中国やアジアの労働者の生み出す生産物が、世界市場で安い商品として流通しているのに対抗するためには、いかに国内の生産ラインを合理化し、人手を減らすか、あるいは不況を逆手にとって雇用を確保しながらもいかに低賃金労働を可能にするか知恵を絞っているのである。

 だから、中国の労働者たちの賃金が高騰することは、日本の労働者にとっても、救いになるのではないか。中国の労働者ががんばって資本家からどんどん高い賃金を勝ち取ることができるようになれば、中国製品は安く国際市場に出回ることはなくなる。そして日本の労働者も低賃金にとどめられることが少なくなり、雇用も増えるかもしれないのだ。

 だが、これには最後に大きな「落ち」がつく。それは、中国の労働者の賃金水準がアメリカや日本並みになれば、中国製品は国際市場で安さを売り物にできなくなり、中国に生産拠点を設ける企業が減り、中国に投資する外国資本が減り、中国経済は厳しい状態に置かれる。もっとも中国は国内市場が大きいから、かなりの間持ちこたえるだろうが、それも消費拡大には資源枯渇と自然環境の破壊という大きな「壁」があり、ある程度以上の拡大は不可能になるため、やがて崩壊するだろう。その結果、「世界経済の牽引役」としての中国の地位が低下し、それを頼りにしていた日本、アメリカ、ヨーロッパの大資本は総崩れになる。さてどうするか!

(続く)

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2010年7月28日 (水)

「生産すること」=「売ること」ではない

 前回では、「買うこと」=「消費ではない」ということについて考察したが、今回は、生産の視点から考えてみよう。

 実際に社会に必要なものを直接生産しているのは、生産現場の労働者(デザイナーも含まれる)である。しかし、その生産を実現させるためには生産手段(原材料や労働手段)がなければならない。しかし、それらのものは、現場の労働者が所有しているのではなく、彼らを雇用した資本家が所有しているのである。資本家は自らが所有する生産手段に労働力を結合させることで、そこに生まれる新たな価値を獲得することが目的であって、ものをつくるのはそのための手段にすぎない。

 しかし、そのことは彼らが社会的生産の主導権を握ることになるので、自らは何一つ生産的労働をしていないのに、「生産者」と見なされる。だから本当の生産者である生産現場の労働者の視点からすると、資本家の「生産活動」は、社会的生産を実現させるために必須の労働力を価値増殖の手段として用いる私的利益追求活動であるとしかいえない。資本家にとっては「生産すること」は「売ること」に結びつかない限り無意味なのである。「すべては地球のために」とか、「未来への夢を実現させる○○社」などといっても、真実は「企業であるからには、慈善事業ではないのであって利益をあげねばやっていけない」のである。

 本当の生産者である現場の生産的労働者は、売るために生産するのではない。それは社会的に必要とされるものだから生産するのである。商品市場で競い合う資本家が、販売戦略で失敗して生産した商品が売れず、予期した利益が得られなくなっても、そんなことは労働者にとって本当はまったく関係のないはずである。ところが、それによってクビを切られるのは労働者の側である。「合理化」によって生き延びるのは資本家の方なのである。それでも彼らは「従業員の生活を護るためにも利益をあげねばならない」とうそぶく。クビを切られずに済んだ労働者の生活は護られたかもしれない(雇用は確保されても労働強化などで生活が破壊されることが多いのだ)が、切られた労働者はより賃金の低い労働条件の悪い企業に再雇用されるか、路頭に迷うかなのである。

 資本家が、株主や銀行からカネを集めてきて購入した生産手段も、元はといえば、労働者たちが額に汗して働いて生み出したものである。そしてそこに新たに購入された労働力(資本主義社会は奴隷社会ではないので、労働者をその体ごと買うわけではなく、その労働力を買うのである)を結合して労働者の生産的労働を価値増殖過程に転換しているのである。

 しかし資本家は、本質的に市場をコントロールできない。つねに市場の動向に左右されているから、何が売れそうか、どんなものを作れば売れるか、ということがつねに頭の中にある。現在ではコンピュータネットワークや高度な生産システムを全面的に公共的な立場から用いれば、社会全体の要求とそれに必要な生産量を推定し、的確に計画的な生産を行う技術基盤が出来つつあるにも拘わらず、資本家たちは、そこから得る私的な利潤のみを求めるためにそれを実現できず、相変わらず二百年前の資本主義商品経済社会と基本的に同じ資本主義的システムを踏襲せざるを得ず、そのため市場の動向に振り回されるのである。その資本家の脳みその機能の一部を受け持たされているのがデザイナーや営業マンや商品企画担当者である。彼らは、本来社会が必要としているものを的確に把握することよりも、「潜在需要の掘り起こし」という形で、資本家のために、あらたな「欲求」を掘り起こそうと努力している。それが彼らに要請された知識労働力の内容なのだから。

 その結果、実際に社会にとって必要な量を遙かに超えた生産物が生み出され、資本家にとってはデザイン労働などのおかげで実際の価値(実際の労働時間が対象化された価値)よりもはるかに高い市場価格で商品を売り、利益を獲得することができる一方で、その戦略や予測が外れて、無駄になった商品が山のように出現し、ディスカウントショップに回されたりまだ使える製品が廃棄処理会社に回されたりする。人々はひたすら買うことを迫られ、買うことこそが生きている意味であるかのような存在にされてしまう。

 これが「消費主導型」資本主義経済の現実であり、その結果、確実にわれわれの社会や地球環境は崩壊に向かっている。

 社会にとって本当に必要な生産物は何であり、どのようなものであるべきかを考え、それをどのような方法で出来うる限り少ない資源を有効に生かして、必要かつ十分な量だけ生産するかを考え、ひとつの生産物をできるだけ長く使えるように慎重にデザインすることこそがデザイン労働(それは現在のデザイナーという職能の形であるとは限らない)の使命であるべきはずなのだが、資本家の介在する生産様式ではそれは永久に実現できないだろう。

 

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2010年7月27日 (火)

「買うこと」=「消費」ではない

 デザイナーは、売り手の立場ではなく、消費者の立場に立って、デザインする。というのが、デザイナーの良心を象徴する言葉であるといえるだろう。

 しかし、現実のデザイン商品を見ると、それは明らかに、「消費者」に買ってもらうためのデザインであるとしかいえないことが分かる。例えば、携帯電話の売り場に行ってみると、売り場の店員の叫び声をバックに、各電話キャリア会社に対応したメーカーの携帯電話機がところ狭しとばかりに多くの機種を競い合っている。それはまるで機能の多さと、ファッション性を競い合う劇場のような感じである。キャリア会社は、「割引契約料」で2年間の縛りを与えながら、顧客を囲い込むために電話機メーカーに次々と目新しいデザインと機能を付けさせる。

 顧客は、華やかな雰囲気につられて、店舗に入るが、あまりに多くの機種があり、どれを買ったらよいのか迷ってしまう。そこで結局デザインが良くて、できるだけ機能の多くついている機種を買ってしまうことが多いだろう。機能が多い方が、それだけ買ってから何かができる可能性があるからだ。

 しかし、実際に購入した後は、結局その機能のうちの何十分の一の機能しか使わないことが多く、1〜2年使っているうちに、また新機種が登場するので、そちらに目が移る、ということを繰り返している。

 つまり「消費者」は買った後に実際に商品を消費しきっていない。彼らは現実には「消費者」ではなく「購買者」なのである。だから「消費者の立場に立ったデザイン」を行おうとしているデザイナーは、それにも拘わらず実際には、購買者に買ってもらうために日々過剰な機能やスタイルを商品に与える仕事を繰り返していると言わざるを得ない。

 それに引き替え、デザイナーを雇用する資本家側は、労働市場でデザイナーの専門的能力を、デザイン労働力商品として購入する(雇用契約をするという形で)わけであるが、その価値(労働賃金の算出基準)は、デザイナーが日々デザイナーとしての能力を再生産するために必要な生活資料の価値に等しいものとして扱う。しかし、資本家にとってデザイン労働は、商品(ここではモノとしての商品)の購買を促進させることが、その労働力の「質」(内容的な意義づけ)と見なされているため、デザイナーはこれを労働過程においてモノとしての商品の中に実現させながら、全体としては、自身の労働力商品としての価値を超える価値量を生み出すような労働量(労働時間で計測される)を支出させられるのである。これが資本主義社会の資本主義たる所以であるのであるから。したがって、デザイン労働の現場では、その価値を再生産するために必要な労働時間を遙かに超えてその労働力を消費するのであって、ここ(労働現場)では、労働力商品はその価値以上の価値を生み出すために「消費」される。資本家は実は「生産者」などではなく、単に生産手段を所有し、労働力を消費する「消費者」にすぎないのだ。

 しかもデザイナーを含むすべての生産的労働者(これが本当の生産者である)は、自身は資本の生産過程に組み込まれて生産的労働の一部を担いながら、生活においては、そこから生み出された商品を購買し、消費する立場でもあるのだ。資本家から前貸しされた貨幣としての資本(労働賃金)を、自らが生産した商品を「買い戻すため」の支払手段として使用し、それによってその貨幣形態の資本は、商業および流通資本を潤したのち再び資本家階級の手に還流しているのである。そしてその過程で、デザイナーを含むすべての生産的労働者は、資本の増殖のために、自らを購買と廃棄を繰り返す「消費者」として位置づけさせられているのだ。

 デザイナーが、「デザインとは、未来に向かって、あるべき姿を構成すること」だ、などという虚偽の幻想に惑わされながら、日々、課せられる「購買を促進させるための労働」の中で、「消費者のためのデザインをしなければいけない!」と自分に言い聞かせなければ納得の行かないような労働を続けさせられている、という現実が、どれほどアイロニーに満ちたものであるかを知るべきであろう。

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2010年7月26日 (月)

プロボノという労働形態

 WikiPediaによるとプロボノは、pro bono publicoというラテン語からきた造語であり、弁護士など法律に携わる職業の人々が無報酬で行う、ボランティアの公益事業あるいは公益の法律家活動をいうらしい。それが現在では、さまざまな職業的専門知識や技術を身につけた人たちが、その能力を生かして、ボランティアとして無報酬の公益活動に参加することを指すようになったそうである。最近では、自分の能力を自分の勤務している企業だけではなく広く社会のために役立てたいと望む人たちが増え、プロボノが盛んになりつつあるという。大いに結構なことである。

 しかし、リタイアした人たちならまだしも、実際に現役で企業などで働く人がこうしたプロボノに参加しようとする場合は、企業の労働時間を減らしてそれに参加するか、休暇を使って参加するしかない。少しでも労働時間を減らしたくない企業からすれば、困った話だろうと思いきや、どうやらそうではなさそうである。企業側では、自社の社員が、自分の持ち場と違う場で、いつもとは違うさまざまな問題を解決するために働くことで、その創造性を刺激され、専門的能力を磨き上げるチャンスを与えてくれると見ているようである。そして、それは結局、自社の競争力を高めてくれると考えているようなのである。

 要するに企業は、プロボノのようなボランティア活動は、企業に間接的に利益になる限りにおいてそれを認めているのであって、社会が必要としているが利益に結びつかない公益的活動は、単に従業員が労働意欲を取り戻し、同時に社会貢献できたという充実感を持たせることによって自社の業務にいっそう励んでくれるようになるための手段として意味があるが、企業の本来の目的ではないということである。

 さて、ここでちょっと暑さで熱中症になりそうな頭を冷やしてよく考えてみよう。

 まず、第1に、なぜこうした活動が盛んになってきたかを考えてみると、さまざまな企業での労働現場で働く人たちが、その職場では社会的な役割を果たし切れていないという実感を持っているからなのではないだろうか?もし、企業での労働を通して充分社会貢献ができていると感じていれば、そこでの労働時間を割いてまでプロボノを始めようなどとは思わないのではないだろうか?

 第2に、企業における労働の外で、無償労働としてしか、社会的な公益活動ができないという現実があるのだということ。

 第3に、企業は自社の労働内容に拘束されていたのでは、従業員(労働者)の創造性が磨かれないと認めているということ。

 つまり企業活動は社会的に必要な労働を直接その業務として行うことではなく、あくまで「利益追求」が第一の目的であること。その手段としては、社会的公益活動を利用するにやぶさかではないということ。そして、企業の専門職に就いている労働者は、その専門を直接社会のために生かすのではなく、企業の利益追求の一環を担うことを前提とした形でしか、つまり本来の目的と手段を逆転させた形においてしか、専門的能力で社会貢献することはできないのだということである。だから、専門職の労働者がまったく当然にも、自分の専門的能力を社会のために役立てたいと念じてもそれが企業活動においてはなし得ないという実感を持ち、ボランティアとしての企業外活動でそれを実現しようとするのである。

 プロボノは確かに新しい現象であるかもしれないが、これはあくまで、資本主義経済法則のくびきのもとで、労働者がなんとか社会貢献したいという切実な願いを果たす一つの過渡的な形態であると考えるのが本当ではないのだろうか。本当の意味で、労働者の専門的能力がその創造性を発揮して直接に社会貢献できる体制は、まだまだ現実のものになり得てはいないのである。

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2010年7月25日 (日)

デザイン労働の矛盾への批判を通して得られる次世代社会の労働の姿(その2)

 さて、デザイン労働という労働種が20世紀上半から登場した、現代型資本主義生産様式における特異的な労働種であることはすでに述べた。それは資本が250年以上かけて確立させてきた、資本制生産様式の中で、かつては労働者の目的・手段関係の統合された生産プロセスであった労働過程から、生産手段を奪い取り、資本家的商品の生産性向上のために労働過程を分断することで、労働の目的・手段関係の統合を労働者から資本家の側に奪い取ってきたという歴史的事実の上に成り立っている。分割された労働で失われた労働者の目的意識は、資本家の目的意識に取って代わり、その中で、かつては生産の主体であった労働者はその手段におとしめられてしまった。そうした中で、資本家の目的意識に沿って商品の構造や形態を設計する労働を請け負って登場したのが設計労働者およびデザイン労働者である。

 であるから、設計労働者やデザイン労働者の目的意識は、自分の主体的目的意識ではなく、資本家による商品生産の目的意識なのである。つまり、外から与えられた目的意識なのである。これが「設計(デザイン)仕様書」である。

 本質的に問題なのは、設計仕様書に表現されている設計目標がどのような背景で、なぜ必要になったのかである。例えば、それが同業他社の競合製品を打ち負かすために行われるモデルチェンジであれば、心ある設計労働者は疑問を感じるであろう。なぜ、いまこんなことに多くの労働力と資源エネルギーを費やさねばならないのだと。社会全体からみれば、それに投入される莫大な資本はもっとべつな本当に必要な場所に社会的資本として投入されるべきではないのか?と。そう、それがまともな設計労働者の疑問であろう。しかし、商品生産の現場では、生活のためにとにかく職にありつけた非正規雇用の労働者たちが、自分が製造の一端を担っている製品が何のために作られるかなどということにはまったく関心を持たないだろう。彼らは、完全に資本家の所有する生産手段の一部として従属化されているのであって、労働の目的意識は、完全に奪い去られているのだから当然である。

 そこで、設計労働者が、自分の設計者としての良心にしたがって、資本家に疑問をぶつけてみても、帰ってくるのは、「この新製品の開発に我が社は社運をかけている。そんなのんきなことが言っていられるか!」という恫喝であろう。まして、生産現場から遠く離れて研究者としての安泰な地位を得た大学の先生が、「デザインの定義」として「デザインとは、未来に向かって、あるべき姿を構成することである」などと叫んでみても、それは、デザイン労働者にとって「ああそうなんですか」というだけで、まったくリアリティーをもって受け止めることなどできないであろう。まして生産現場で働く労働者にとっては、そんな「定義」は何の意味もない。

 しかし設計労働もデザイン労働も現実には生産労働がなければ生産物として実現できず、何の意味もない労働なのである。本来設計労働もデザイン労働も生産労働者の労働と統合されてひとつの目的意識を共有し会うべき関係にあるのである。そこには資本家が介在しなければならない理由などコレッポチもないのである。このことを理解することが、まず、設計労働者やデザイン労働者には最低限必要なことである。

 世の中から資本家がいなくなっても、社会的な生産は継続できるということ、しかもはるかに順調に継続できると言うこと、これである。資本家が所有していた莫大な資本の蓄積は、社会に還元され、無益な市場競争のために無駄な消費をあおられることもなく、労働者は直接的に社会に必要な富を生産する労働を行えるようになる。そして不当で過大な税金を取られることもなくなるであろう。

 そんなとき、設計労働者やデザイン労働者はいったい何を設計しデザインすることになるだろうか?少なくとも、同業他社の競合製品を必死になってデザイン開発するようなことはなくなるであろう。そして、むしろ生産現場の労働者との結びつきを強め、生産の目的を共有することで、彼らにも設計的側面を分担してもらうことができるようになるだろう。設計労働とデザイン労働もその境界線が薄れ、互いにほとんど同じ労働種に統合されるかもしれない。

 このようにして、現在の職能としてのデザイナーの労働内容は、本来の労働過程の一部として他の分業種の労働の中に吸収されて行き、そのことによって他の分業種の労働内容自体も変化してゆくであろう。そして何よりも重要なことは、生産が資本の支配から解放されることにより、その目的そのものが変化することである。

 さあ、どうすれば資本主義経済法則(市場法則)から解放され、資本家による生産の支配を終わらせることができるのだろう?それをみんなで考えることがいま一番必要なことなのではないだろうか?

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