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2010年8月1日 - 2010年8月7日

2010年8月 6日 (金)

「封印された被爆者の記録」を見て

 さきほどNHKの1chで表記のドキュメンタリー番組をやっていた。この内容は衝撃的であった。広島に原爆が落とされてから2日後の1945年8月8日から陸軍の軍医を中心とした被爆者の調査団を送り込み、被爆者の詳細な調査が行われたが、終戦と同時に陸軍はこれを新たに国内で結成された医学調査団に引き継ぎ、180冊に渡る報告書を作成したが、日本の調査団はこれをわざわざ英訳までして全部まるごとアメリカ側に渡してしまったらしい。アメリカではこれを核兵器の殺傷力を裏付ける貴重な研究資料として、極秘扱いにして核兵器の開発に役立ていたが、日本においてもその報告書の所在は最近になるまで知らされていなかった、という話である。当時のアメリカ側調査団にいた人の証言によると、彼らは「被爆国でなければ得られない貴重な資料をもたらしてくれたことで大変役に立てることができた」と言っていた。

 しかもこの膨大な被爆者調査の資料は、その治療には一切役立てられたことはなかったというのである。当時娘が被爆してほとんど治療も受けられず苦しみながら亡くなった後にその遺体を負ぶって帰ろうとした父親に、当時の日本の医学調査団の一員が声を掛け、今後の研究のために遺体を解剖させてくれと頼みにきたらしい。父親は最初断ったが、目の前で多くの犠牲者が死に、多くの患者が苦しんでいる有様を見ているので、その治療に役立つならと、解剖を承諾したそうである。しかし、娘の遺体は内臓を摘出され切り刻まれた上、アメリカに持って行かれてしまい、父親が亡くなるまで、そのもとに返されることはなかった。そして最近になってアメリカから日本の大学に返還されたらしいが、それを知ってその遺体の一部を引き取りにいった甥が、見せられたのは、何枚かのプレパラート標本になったその断片であった。そしてその解剖調査の結果は、極秘にされ、被爆者の治療のために役立った形跡はまったくないのである。

 まったくやりきれない話である。戦争とはこういうものだということを痛切に感じさせられる番組だった。悲惨とかむなしいとかいう言葉をはるかに越えて、もう何も言うことが出来ないほど、怒りとも悲しさとも何ともいえない気持ちに襲われた。

 今朝の、国連事務総長やアメリカ大使が初出席した広島原爆死没者慰霊の日での管総理のスピーチでは、非核3原則を堅持し、云々という内容があったが、その後の記者会見では、核抑止力は、核拡散が現実に進んでいるという状態では必要なものだ、と言っていた。これで本当にアメリカの核の傘から離脱することができるのか?いや本当に核廃絶ができるのか、はなはだ怪しいものである。私の予想ではオバマ大統領は多分広島には行かないだろうと思う。エノラゲイはいまだにアメリカ人にとっては、真珠湾に始まる対日戦争での最終的な戦勝のシンボルなのであるから。戦争とはそういうものなのである。

追記:「国家のため」、「国益のため」といって、人々を戦争に駆り出し、その駆り出した張本人たちは生き延び、駆り出された人々の過酷な運命に自らの罪の重さを重ね合わせることもなく、それを政治の問題として片付けようとする連中。国家とはそのような連中の隠れ蓑であるに過ぎないのか?

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2010年8月 5日 (木)

「デザイナー」という種類の労働者の実態を考える(3)

 生活に必要な資料を自らの手で作り出すという行為は人類があらゆる歴史を通じて常に行ってきた普遍的な行為であるといえる。初期の人類社会では、生活資料を獲得するための道具、つまり労働手段(例えば動物を捕まえるための槍や家を作るための縄など)は、生活する人々自身がそれを作っていたと考えられる。やがて社会が大きくなり、社会的分業が発生し、剰余生産物が蓄積されるようになり、それを支配する階級が登場するようになると、自分の持ち場で労働することを通じて他人のためにものを作るという労働の形が登場したと考えられる。

 しかし、そのような社会においても、自分の担当する分業種においては、その生産物がどのような形になるかをそこで働く労働者は知っていたし、発注を受けてから、発注者、つまりそれを使ってくれる人に合わせてそれを作っていたであろう。例えば、靴ギルドでは靴職人が作業を分担して(皮を鞣す人、それを型に合わせて裁断する人、それを縫製する人、そして多分親方がその全体の形や飾りの付け方などを考えていたであろう)靴作りをしていたであろうが、そのすべての作業者が、その靴をどのような人が履いてくれるのかを頭に描きながら作っていたであろうし、その中で自分の専門的知識や技能を生かした工夫が成されていたはずである。

 ところが、ここ数百年の間に立ち上がってきた資本主義社会の中で、社会を構成する人々の殆どが生産手段を奪い取られ、自らの意図で必要な生活資料を生み出せなくなった。自らの生産的労働の能力を労働力商品として資本家に売り渡すことで、「売るための」生活資料商品を生産する資本家の手足や頭脳として働き、その能力と引き替えに得た労働賃金で、自らの手で、しかし資本家の意図のもとで生産した生活資料を資本家から買い戻すという生き方を強いられるようになった。

 そのような資本主義生産様式の中では、不特定多数の人に商品を売り込むために、最小限の生産費と生産時間で作れるように、一つの生産物を作る工程が無数の部分労働に分割され、出来るだけ少ない人手で、多くの製品を作れるように労働が配置される。生産の現場でこれらの部分労働を行う労働者は、労働手段である機械や工場を所有する資本家に、その労働力を買い取られた人々であって、生産現場の労働者にとってはその生産物が誰のために作られるかはあまり関心がないといえる。一方、資本家はそれを買ってくれる個々の人々がその生産物をどのように使用あるいは消費するのかに関してはほとんど無関心だが、それを何のために作るかをもっともよく知っている。「売るために作る」のである。だから、どう使われるかよりも、その商品を買ってくれそうな購買者、つまり「ターゲットユーザ」のイメージだけが必要なのである。

 雇用主である資本家の意図を汲んで、その「ターゲットユーザ」のイメージに合わせて、商品全体のデザインを行うのが、わがデザイン労働者である。デザイン労働者は、そのデザイン対象である商品を購買する「ユーザ」の生活について、他業種の資本家的企業から生み出された商品群に囲まれた生活を送る人々のイメージとして描き出し、その中に自分が対象とする商品の位置づけを行おうとする。しかし、その商品が、どのように使われ、どのようにその本来の機能を全うするのかに関しては、あまり関心がない。

 しかも、例の「ターゲットユーザ」のイメージ自体が、商業マスコミやネットワーク広告およびそれに加担するブロガーなどで意図的に作り出されてきたイメージであったりするのである。それらのイメージ作りをする人々は、それによって購買されるであろう商品を生産する企業と、持ちつ持たれつの関係にあり、互いに利益を分け合う関係なのである。

 「ユーザ」と呼ばれる商品の購買者たちは、そのキャンペーンに乗せられ、流行の最先端を行くスタイルで自分の生活スタイルをかたちづくろうとする。彼らは購買した商品を実際には使い切らないうちにまた次のモデルに次々と買い換える。これが資本家たちの狙いなのである。言い換えれば、これが「豊かで便利な社会」という見せかけの姿の本音にある「売るために作る社会」の現実の姿である。

 労働者たち(この中にはデザイン労働者も含まれる)は、自らの手で、しかし資本家の意図のもとで生み出した生活資料商品を、華やかな広告やキャンペーンのもとで購買欲をかき立てられ、「ユーザ」あるいは「消費者」と呼ばれながら、その買い戻しをさせられる。しかも多くの場合、それを使い切ることなく廃棄したり買い換えたりすることで自ら「地球に優しくない」生活を営むはめになってしまっているのである。

 そして、そのような虚偽に満ちた社会の実現と拡大のために、デザイン労働者は資本家に雇用されているのである。だから、いま、デザイナーは、資本家とともに、限りない消費の拡大に努め、同僚である生産労働者たちの生活を資本家的な虚偽のイメージの中に埋没させ、結局は地球を食いつぶして資本家と共倒れになるか、他のすべての生産労働者たちと連帯して、デザイン労働者としての自覚を深めて、社会的生産の主導権を取り戻すために共に闘うか、その選択が迫られているといえるのではないだろうか。

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2010年8月 4日 (水)

「デザイナー」という種類の労働者の実態を考える(2)

 さて、少し前に私が「デザイン労働の生み出す価値」というタイトルで書いたブログでは、一つの生産物に対象化された価値という視点から見ると、生産に先立ち生産物のメカニズムや形態を考えるデザイン労働が生み出す価値部分は、生産量が増えれば増えるほど、生産ラインで日々生産物を生み出している労働者が生み出す価値部分より小さくなる、という事実であった。

 しかし、現実にはデザイン労働者も、生産現場の労働者と同じように、毎日朝から夜遅くまで働いている。なぜか?

 それは、例えば一つの新製品のデザインが始まってから終わるまでに、かなり長い時間が費やされるということと、多くの機種のデザインあるいはリ・デザインが同時並行的にデザイナーの労働の中に投入され、比較的少ないデザイン労働者数で各デザイン労働者の仕事がフル回転するような労働配分が成されているからである。そのため一人当たりのデザイン労働者の労働量(労働時間)は非常に多いのである。資本家は労働者を「遊ばせる」ようなことは絶対にしないのである。

 ここで分かることは、量産を前提とすれば、一つの生産物に対象化されるデザイン労働の生み出す価値部分は小さいが、複数の生産物のデザインを同時並行的に行い、それらがそれぞれ少しづつ時間的なずれを以て、常にデザイナーの労働の中に入ってくれば、デザイナーの労働は同じ労働時間で複数の生産物の価値部分を同時に生み出すことになる。その意味では、企業全体が生産している商品の価値に関して見れば、デザイナーの生み出す価値部分は生産現場の労働者が生み出す価値部分より少ないが、一人当たりの労働時間数は同じか、むしろデザイナーの方が多いといえるだろう。従って、資本家にとって必要なデザイン労働者の数は、生産現場の労働者の数より常に相当少なく設定されており、これがデザイナー労働市場での需要(雇用者数)を決める要因になっているのである。

 ところが現実には、逆にこれがデザイナーにエリート意識を持たせる根拠にもなっているようだ。比較的少ない数のデザイナーで企業全体のあらゆる生産物(商品)のデザインを手がけているという認識に通じるからだろう。つまりデザイン労働者は、生産物に関わりながらも、生産現場(つまり生産手段)から離れた場で、しかも生産的労働の内容に支配力を持つ労働内容(生産物の形や使い勝手などを考えることは生産物の製造方法に大きな影響力を及ぼす)なので、生産労働者に対して一定のエリート意識を持てると同時に、雇用数においても彼らより少なく、「選ばれた」存在という意識が生まれるのだろう。特に、そのデザインが宣伝や広告によって、流行を生みだし、社会的に一つのステータスとして受け止められるような「ブランド」にでもなれば、商品の「付加価値」を上げ、実際の価値よりもはるかに高く市場価格を押し上げることに寄与するので、一層そうである。

 そのような理由で、デザイン労働者は、自分が労働者であるという自覚を持つことが殆どないといえる。本社で労務管理や財務管理を行う事務労働者も、その労働内容が資本家の機能の一端を担う労働なので、意識においては決して自分が労働者であるとは認識していないであろう。しかし、デザイン労働者は、生産の場面に深く関わりながら、つまり実際に生産物に対象化される価値を生み出す労働の一部を担いながら、自分は労働者ではないと感じているところが彼らとは違うところである。そのため、デザイン労働者は、自分たちがその労働内容を通じて、直接、社会の環境やモノのあり方を変えることができるという幻想を抱くのであろう。

(続く)

 

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「デザイナー」という種類の労働者の実態を考える(1)

 mizzさんのコメントへの補足という意味も含めて、デザイナーの仕事を現代資本主義社会における労働者の一つのタイプとして捉え返してみよう。

 現代資本主義社会における労働者階級の実体を把握するためには、マルクスの時代と違って、いわゆる「頭脳(知識)労働者」というグループに区分けされる労働者の実態を見る必要があるだろう。しかし、古典的には、「肉体労働者」と「頭脳労働者」という分け方があったが、本来人間の労働は頭脳と身体的活動の統合されたものであるため、このような外見的な区分は適切でないと思われる。

 むしろ、労働種の区分は、生産手段との結合の度合いとそれへの関係の仕方によって区別すべきではないだろうか。生産現場で働く労働者(いわゆる肉体労働者)の労働内容は、資本家の所有する生産手段と直結している。まさに機械に従属した労働である。そのため彼らは、殆どその労働の中で何か新しい知識を見つけ出したり適用したりすることはない。しかし、設計労働者やデザイン労働者の労働内容は、実際の生産に先立って、生産物のメカニズムや形を考える労働であるという意味では生産に深く関わっているが、生産現場の労働者のそれに比べると生産手段との結びつきが間接的になる。さらに本社機構や営業部などで資本家の機能を分担してカネ・モノ・ヒトの管理を行うオフィスで、いわゆる事務労働を行う労働者は、生産物の生産に関わることは殆どなく、その意味でもっと生産手段から離れている。もっとも生産手段から離れているのが、各産業資本の上に立って、「総資本」を支配する立場でカネの流れを管理する金融資本企業で働く事務労働者であるといえるだろう。エンタテイメント、観光、スポーツなどの娯楽産業で働く労働者はサービス産業なので、本来の生産手段とはほとんど関係がないが、エンタテイメント商品を生み出すという意味での「生産手段」(ゲームマシンを生産する機械やアニメを作るコンピュータなど)には深く結びついているともいえる。生産手段から離れているという意味では、医療関係の仕事や法律関係の仕事をしている労働者がいるが、彼らはもともと資本との結びつきが間接的であり社会的要請に直結した労働内容であるため、金融機関の労働者などとはまったく異なる分類に入ると思われる。

 この生産手段からの「距離」や関係によって労働者の意識はまるで違ってくる。生産現場での労働者がもっともダイレクトに労働者としての自覚を持つことができる。しかし生産手段からの距離は離れるに従って、その意識は労働者ではなく、「ビジネスマン」や「タレントマン」的な意識として現れる。

 デザイナーは生産場面に近いところにいるにも拘わらず、タレントマン的な意識を持った労働者であるともいえ、むしろ、生産手段所有者である資本家の意識に近いといえるだろう。その理由はこのブログで何度も述べたように、デザイナーという職能の誕生の根拠を見れば明らかである。資本家の意図に沿った「売れる商品」のスタイルを考え出すことがそのミッションだからである。

 デザイナーや設計者は従って、その仕事の中で、(mizzさんのコメントにあるように)独居高齢者が知らぬ間に熱中症で亡くなってしまうようなことがないようなオートマチック機構を持つエアコンを考えたことも当然あるだろう。しかし、それがコスト高につながり、市場での競争に不利な要因であるという判断によってオミットされることが多かったのだろう。ところが、それがいったん、商品イメージを高めると判断され、市場での競争に有利であると判断されれば、たちまちTVCMでの「売り文句」となるのである。いまはやりの「エコ商品」も一昔前ならコスト高になるからと敬遠された考え方であったといえる。いまや「エコ」は「付加価値」(付加価値の虚偽性については何度もこのブログで述べている)を生むコンセプトであり、市場価格が高くても顧客が買ってくれるための手段である。まして最近は政府が「エコポイント」などで尻押ししてくれるのだからますますそうである。

 ほとんどのデザイナーは、こうした世の中の流れの中で、自分は地球環境を大切にするために役立つ仕事をしていると感じているだろう。しかし現実には、こうして省エネのためにエコ商品に買い換える人が増えれば、それだけ生産量は増え、そこに使われるエネルギーは増えるのである。要は全地球でのトータルなエネルギー消費を減らさねばならないのであって、それが本当の意味での「エコ」であるはずなのだが、今の社会(資本主義的な市場競争を前提とした経済社会)は消費を増やすことこそが経済を、したがって資本を潤すという形にできており、根本的にそれができない仕組みになっているのである。それが「経済成長神話」を生みだし、ほとんどの資本主義国の政府指導者がそれに何の疑問も持たない理由でもある。

 しかしまた、これは「資本家的金儲け主義に対抗するデザイナーの良心」という図式からでは到底片付かない問題であることも明らかであろう。

(続く)

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2010年8月 2日 (月)

マルクスは「経済成長論者」なのか?

 マルクス経済学の視点から現代資本主義社会の経済成長神話への批判をすると、それに対して、マルクスは本質的に経済成長論者あるいは生産力主義者であって、もはや21世紀には通用しない古典的理論である、という論調の反批判が必ず登場する。これにはいくつかマルクス経済学への無理解や意図的曲解があることが殆どである。

 まず最初に、ここでいう「経済成長」という概念は、資本主義経済体制特有のカテゴリーであって、マルクスがこのカテゴリーを用いていたことはない。マルクス的に言えば、「資本の増殖」というのと同じ意味である。だからマルクスが経済成長論者であったというのは全くありえないことであり誤認である。

 次に、マルクスの時代には、今日のような、自然破壊や資源枯渇問題はまだ生じておらず、マンチェスターやロンドンあたりの工場地帯でのスモッグや大気汚染、河川の汚染問題があったくらいであろう。そこで彼は正面切って環境問題や自然破壊問題を取り上げていないが、資本主義経済特有の生産様式が、商品市場という本質的にコントロールの聞かない無政府性を基礎に成り立っており、その意味では、現在「成長の限界」と言われている、資本の限りない増殖にいずれは限界が来ることは、当然予想していたに違いない。

 もう一つ、マルクスは資本主義生産様式のもたらす生産力の高度化が、やがて資本主義体制そのものを桎梏とする時が訪れ、そのときに労働者階級が生産体制を彼らの手に取り戻すことによって、生産力が解放されるという考え方をしていたことは確かである。しかし、労働者階級によって解放されて、生産力が一本調子に右肩上りになるという意味では決してなく、労働の生産力が資本の蓄積という形で労働者階級自身を支配する力になってしまうような資本主義生産様式の桎梏から、それを解放することによって、本当の意味での生産者(つまり労働者階級)が生産力を直接コントロールできるようになるという意味としてとらえるべきであろう。資本主義生産様式においては、資本の増殖のための生産力であったものが、労働者階級自身がそれをコントロールすることにより、本当の意味での社会的な生産力としてそれが機能しうるようになるということである。

 特に20世紀後半以後のケインズ型資本主義体制に始まる、過剰資本の純粋消費商品(奢侈品化した生活資料や軍需生産)の生産による処理を機動力とした生産様式(これがいわゆる消費文明社会を形成した)では、無駄な消費を限りなく生み出すことが「経済の成長」につながるという完全に矛盾した体制を常態化させてしまったといえる。当然マルクスはこのような今日的資本主義経済体制を知らなかったわけであるが、上述した資本論における彼の論理展開の正当性は、それにも関わらず今日の資本主義体制への根本的批判の最強の武器を与えてくれるのである。

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