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2010年8月8日 - 2010年8月14日

2010年8月14日 (土)

「デザイナー」という種類の労働者の実態を考える(7)

 強いて言えば、インダストリアル・デザイナーの専門性は、専門的な知識よりもむしろモノ全体を形作る造形的なセンスやさまざまな要素をさまざまな制約の中でまとめ上げる能力であろう。しかし、実はその能力は、あらゆる生産物の設計的労働に要求される能力でもあり、さらに本来はあらゆる生産的労働に従事している生産部門の労働者にも、そして、後に述べるように、生産物を使用する(購入ではなく)人々にさえも必要とする能力であるといえる。本来「売るためのデザイン」に特化されてはならない能力なのである。

 資本家的産業は、しかし、その能力を、まず、生産的労働者からその生産手段を切り離すことで、奪い取り、生産物の生産に先立ち、物の機構や形態をあらかじめ考えて決めるという設計労働の専門的能力として固定化し、さらに商品の販売促進という目的のために、設計労働の専門的労働内容からそれに必要な要素を分離し、抽象し、販売促進という目的のために特化することにより、インダストリアル・デザイナーという職能(労働種)を誕生させたといえるだろう。

 すべてのデザイン的能力を奪われた生産部門の労働者は、もっとも大きな搾取率の労働過程のもとに働かされ、設計労働者やインダストリアル・デザイナーは生産的労働者に比べると、はるかに恵まれた労働条件のもとで、生産的労働者から搾取された資本家の分け前を少しばかりいただくことで、実際には生産される商品の価値構成の面ではそれほどおおきな寄与をしていないにも拘わらず、市場での「付加価値」(つまり価値以上の価格を生み出す虚偽の価値)の追加に寄与しているが故に、いわゆる「中産階級」の一員として、言い換えれば「プチ・ブルジョア」階級のはしくれとしての地位に収まっているのである。

 たしかにいまわれわれは消費主導型資本主義社会の真っ只中にいるのであって、インダストリアル・デザイナーも日々の労働をこなしていかなければメシが食えなくなるのである。しかし、段々に高価なデザイン商品が売れなくなり、それを買ってくれる中国やアラブのお金持ちも、やがては消費を無限に拡大できないという「自然界の壁」にぶつかりその利益獲得の経済的基盤が崩れ、消費主導型経済社会は全体として崩壊し、世の中は「100円ショップ」の時代になるかもしれない。そうなったとき、インダストリアル・デザイナーという職能は社会的にほとんど不要な存在になる可能性がないとはいえないのである。

 このような状況がやってきても、「プチブル」的意識に染め上げられてしまったデザイン労働者にとっては労働者階級としての自覚をもって、生産部門の労働者と共に闘えるようには簡単になれないであろう。

 そこで、われわれ研究者のしなければならない行動として、まずは思想的な面で既存の設計論やデザイン論と対決し、その矛盾や誤りを明らかにし、新たな労働過程論(設計論やデザイン論ではなくそれらを否定的に包摂した理論)の構築を目指すことが必要であろう。既存の設計論やデザイン論は消費主導型社会の中でそれを補完するために生まれてきた理論であるため、設計者やデザイナーの労働の現実からかけ離れた内容であり、消費主導型社会の矛盾の根本にある問題に対してまったく無自覚だからである。これらの虚偽のイデオロギー(現実にはこれが社会常識となってしまっている)によって「デザイナー意識」を植え付けられている限り、労働者階級としての自覚は不可能であると考えられるから。

 例えば、既存の設計論(例えば、一般設計学)では、設計者の目的意識は設計過程の論理の内部ではなく、外から「設計仕様」として与えられることを前提としている。そのため設計対象となるモノがなぜどのような環境のもとで必要とされるのかが設計者の主体的目的意識との関係で問われることはなく、もっぱら外的な設計意図のもとに設計過程が展開されている。また、設計過程と労働手段の関係も論じられず、設計の目的をどのような手段と方法で生産物として実現していくのかは、設計過程の問題ではなく、その結果に基づいて製造する生産過程の問題として除外される(つまり分業体制の現実がそのまま反映されている)。さらには、設計者の目的意識(意図)がどのように生産物に表出されて、それを使用する者にとって、その意図がどのような「意味」を発揮するかについても、設計過程と切り離された他の専門分野の問題として除外される。

 こうして既存の設計論では、設計過程においてもっとも重要な内容的な要素(つまり設計者にとっての設計することの意味)が疎外され、もっぱらその形式的論理操作のみが、「中立的で客観的な理論」として抽象化されて論理整合性を保つように構築されるのである。

 来るべき変革期にインダストリアル・デザイナーは、自分のデザインするモノが何の目的でデザインされるのか、誰がそれを実際のモノとして作るのか、誰が、何のため、どういう環境のもとでそれを使うのか、を考え、その内容と企業でのデザイン目的の間に矛盾があると感じられるときには、自分がどういう行動をとるべきかを決断しなければならないことになるだろう。そしてそれをバックアップするためには行動方針を決めるための手がかりとなる理論と、何らかの形でデザイナーの組織的な活動が必要になるだろう。労働者が単独で資本家階級に対峙しても絶対に勝ち目はないのだから。

 これまでインダストリアル・デザイナーを養成していた教育機関では、むしろデザイナーとしての専門教育を行うのではなく、様々な設計分野での専門知識の教育と共に、それらの専門的知識をどのように使って、何のために設計行為を行うのかを理解することができるような共通の考え方や行動の方針を決めることを支援するような理論を導入すべきであろうと思う。それは決して販売促進のための方法論などではなく、あらゆる設計労働と生産労働を、その生産目的の根拠の理解と、それを生産物として実現させるための方法との有機的関係のうちに統合するように再構成された労働過程論であるべきだろう。それが当面のわれわれデザイン研究者に要求される理論的課題であろう。そしてそのような理論は、将来、労働者階級が社会的生産の主導権を握ったときには、設計労働のみならず、政治的・経済的な政策決定にいたるまで、人間労働に共通した計画的・構成的行為の支援を行いうるものに成長させるべきなのだと考える。

 しかし、もちろん理論だけで世の中全体が変わるはずはない、これは社会変革へのほんの小さな模索的提案であり実践であるに過ぎないのだ。

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「デザイナー」という種類の労働者の実態を考える(6)

 インダストリアル・デザイナーという職種は、20世紀半ばにアメリカで誕生し、その後、いわゆる先進資本主義国の基本的経済体制となった「消費主導型」資本主義社会の中で登場した職能であって、生活資料として用いられる工業製品の販売促進のために生まれた職能である。

 そして、その大量に生産される生活資料としての工業製品を次から次へと買い換えることで、モノのあふれた生活が当たり前となり(これが「豊かな生活」であると思わされている)、まだ使えるモノを棄て、モノを買うこと(使うことではない)が人生の意味であるかのような生活文化を生みだし、その一方で限られた資源やエネルギーを使い果たし、自然環境を破壊していく生活スタイルを生み出した。こうした矛盾は今や疑いのない事実となったのである。

 しかし、そうした社会の中で存在意義を持たされたインダストリアル・デザイナーという職能は、まさにあだ花的職能であるとともに、それがあらゆる工業製品の生産の中に浸透し、拡散する(まさに口紅から機関車まで)ことで、それまで様々な分野に専門分化した形で存在していた設計的労働の中に、共通する要素があり、実はそれが、各専門分野の知識を越えた、人間の「モノづくり行為」の中に共通に見いだすことのできる要素であるという事実を気付かせることになったと考えられる。そしてそれが設計教育やその理論的裏付けの必要性から、設計論や設計方法論という分野を生み出したと言えるだろう。

 しかし、皮肉なことに、これはすでに150年も前に当時産業資本主義が成熟してきたイギリスの労働者階級の悲惨な生活を目の当たりにしながら、その社会の経済的な矛盾の中で価値増殖の手段と化してしまった労働の現実を徹底的に分析したマルクスによって、初めてそのアンチテーゼとして明らかにされた、本来あるべき普遍的な労働過程の論理として、描き出された内容に似ているのである(決して同じではない)。

 それでは、あらゆる工業製品を作っている企業に「要請」されるインダストリアル・デザイナーという職能は、マルクスの描き出した普遍的な労働過程をそのまま実現した職能なのか?断じて否である(これを否としなかったのが川添登に代表されるような考え方であり、職能としてのデザイナーの上位に「広い意味でのデザイン行為」という抽象的規定を設けるデザイン論者である)。なぜ否なのか、その理由は以下のようなものである。

 資本主義生産様式がその経済体制とともに歴史的に成長するとき、それ以前にあった、生活資料の生産様式(例えば中世的なギルドなど)を破壊し、生産手段をそこから切り離し、資本家が私有する資本の一部と化すことで、社会的に必要な生産物の生産が資本家の私的所有のもとにそれを豊かにするためにあらゆる労働力を用いて行われるようになっていった。そこで、商品市場の競争に勝ち残り利潤の増加を促進すべく相対的な剰余価値を生み出すために「合理化」され、分割された労働(大規模機械による工場労働など)が登場し、その中で、分割労働を資本家的立場から統合してひとつの商品の姿としてまとめ上げる仕事が要請されるようになった。そこに設計技術者やインダストリアル・デザイナーという職能が登場する根拠が発生したのである。具体的、詳細な歴史的事実は別に新たに研究されねばならないが、その歴史的根拠はおおむねこのような経緯によるといえる。

 したがって、インダストリアル・デザイナーの労働内容を以てして、マルクスのいう普遍的労働過程の内容が実現されたと考えるのはとんでもない間違いであって、それはまさに、歴史的に労働者階級から資本家に奪い取られた労働の計画的・構成的能力を、資本家的に、資本家の能力として、つまりあらゆる生産物を「売るために」その姿形を整えるという目的で実践しているに過ぎないのである。言い換えれば、資本主義社会が登場する以前には、家具職人、食器職人、衣類を作る労働などあらゆる生活資料を作り出す労働の中に共通の要素として埋め込まれていた、ものづくりの設計的能力が、今日ではすべて生活資料を、一方の極では、分割された直接的生産労働として、他方の極では、それらの分割労働を資本家的「売れる商品」として生み出すための能力として意義づける労働、具体的には設計技術者やインダストリアル・デザイナーという職能などの労働という形で現出させているのである。

 だから、この社会的に必要な生活資料の生産が、資本家による生産手段の私的所有のもとでそれによって生み出され、市場での資本家同士の競争に打ち勝って、資本家により多くの富(資本という形での)をもたらすために、あらゆる労働者の労働がその手足あるいは頭脳の一部として分割されたうえで駆使されている状態から解放されない限り、普遍的な労働過程は現実のものとはならないのである。

 さて、次回では、これに基づいて、もう一度具体的な話にもどそう。

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2010年8月13日 (金)

「デザイナー」という種類の労働者の実態を考える(5)

 さて、ここで再び、デザイン労働者の実態について考えよう。

 ちょっと過激なことを言うようであるが、もし世の中から医者がいなくなったらどうなるか?おそらく社会そのものが成り立たなくなるだろう。しかし、世の中からインダストリアル・デザイナーがいなくなったらどうなるか?おそらくそれまでインダストリアル・デザイナーが担当していた仕事をエンジニアや営業マンなどが担当し、洗練されたデザインとはいえないにしても、曲がりなりに稼働する製品は生産されるであろう。ただし、それが本当に世の中に必要とされるモノならばである。

 ここでは仮定として取り上げたが、実はこのような状況が現実にならないとは限らないのである。社会を形成している分業種の中で、普遍性の高い職種とそうでない職種があり、それらがどのような重み付けや位置づけで社会全体の分業種や労働種を構成していたかということは、その社会が歴史的にどのような生産関係とその上部構造としての文化を持った社会であるのかを分析するときに重要な指標であるといえる。言い換えれば、歴史の流れの中である社会が崩壊し、新しい社会が生まれるときには必ずいくつかの新たな職種が登場する一方で消えて無くなる職種が出てくるのである。

 およそ80年ほど前までは、世の中、インダストリアル・デザイナーがいなくても成り立っていたのである。80年以上前に作られたカメラの名機と言われるバルナック・ライカや、現代でもすばらしい航空機の機体のデザインは、完全にエンジニアリング・デザインの産物である。インダストリアル・デザイナーという職種は20世紀後半に咲いたあだ花のような職種であるといっても過言ではないのである。それに比べるとエンジニアリング・デザインはまだ普遍性の高い職種であるといえるだろう。いたずらに「売るために媚びた」デザインに比べて、論理的に詰めていって出来上がったデザインの方が遙かに健全であり美しいと思われる。

 その場合、エンジニアはその設計対象となる生産物の種類によって要求される知識が専門分化しているので、ある専門から他の専門に移行することはそれほど簡単ではない。例えば、自動車という一つの生産物においてさえ、エンジン設計とボディ設計ではまったく異なる労働内容なので、おそらくほとんど移行することはできないと思われる。一方インダストリアル・デザインは最近では専門分化してきているとはいえ、自動車のエクステリア・デザインからカメラ・ボディーのデザインへ移行することはそれほど難しくはないだろう。それはなぜか?

 インダストリアル・デザイナーの労働内容は、エンジニアの労働内容に比べ、専門的知識をそれほど要求されないからであるといえる。ちょっとした造形的なセンスとある程度の表現力さえ習得すれば、可能な仕事である。もちろん関係のある周辺他分野の知識はあった方が良いが、それがなければ仕事にならないというものではない。はっきり言ってしまえば、高度な専門知識がなくてもセンスと経験的知識があればある程度の実践が可能な職能であるといえる。

 設計技術者であるエンジニアの労働内容の中にはインダストリアル・デザイナーの労働内容に該当する要素が最初から含まれているのである。メカニズムや構造を設計するときには必ずそれら全体の形態を考えざるを得ないからである。逆にインダストリアル・デザイナーの労働内容の中にはエンジニアの労働内容は含まれていない。インダストリアル・デザイナーの仕事はエンジニアがいなければ製品として実現されえないのである。

 では、いわゆる電子機器の場合はどうか?機械的なメカニズムと違って、集積回路による論理設計がエンジニアの主な仕事であり、普通その中には製品全体の形態の設計は含まれていない。ここでは、電子回路のフィジカルな入出力部分と、人間の感覚器官や肉体の持つ生理的、認知的働きとの間を取り持つ仕事をインダストリアル・デザイナーが引き受けることになる。いわゆるインターフェース・デザインである。これは従来のエンジニアリング・デザインの労働内容には無かった部分である。しかし、ここでもインターフェース・デザインの内容は認知科学やエルゴノミックスの専門的知識がなければ不可能であるわけではなく、そのような知識があった方が良いが、常識的な知識や判断でも可能な労働内容であるといえる。

 だから生産活動に「販売促進」という至上命令が不要になったときは、むしろエンジニアリング・デザイナーがインダストリアル・デザイナーの仕事をも包含してしまった方が良いのかもしれないのである。

 さて、インダストリアル・デザインの専門である私がなぜこのようなことを言い出したか、それは次回に述べることにしよう。

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2010年8月12日 (木)

クルーグマン教授の苦言

 以前、mizzさんがコメントで書いてた、NY Timesのクルーグマン教授のコラムが今朝の朝日新聞に紹介されていた。そこで、クルーグマン先生は、「<真っ暗になる米国> 崩れゆく社会基盤と公教育」というテーマでアメリカの現状を嘆いている。

 要は、アメリカ地方財政が非常に厳しくなっており、街頭の点灯をやめたり、道路の補修工事をやめたりする州が増え、公教育への負担を減らすために教員を解雇したり授業時間を減らしたりする州も増加している、という現実があり、その一方で、共和党や民主党の保守派のグループが、連邦政府が公共的な部門への財政支出を増やすので財政赤字が増大していることを非難し、社会の2%を占める超富裕階級の減税を維持すべきであると主張していると述べている。そしてさらにこう述べている「だが富裕層への税金を低く維持することも、ある種の景気刺激策なのだろうか?それはあなたが気付くほどのものではない。学校教育の仕事を救えば、それは疑いの余地なく雇用を支えることになる。富裕層により多くのカネを与えれば、カネの大半は役に立たないままに終わる可能性が高い。」そして保守派の非難の対象となっていたものは、実は「非常に裕福な人々を除く、すべての国民が必要とするサービスであり、政府が提供しなければならず、政府以外に誰も提供しないサービスなのだ。それは例えば、街頭のある道路、車が走ることの出来る道路、全国民への適切な学校教育、である。」と述べている。

 オバマ政権の財政政策を支える助っ人であり、プリンストン大学の教授でノーベル経済学受賞者である人の発言である。クルーグマン先生はもちろんマルクス経済学などにはまったく無関心な経済学者であり、基本的には(多分)ケインズ派の系統に属する人だと思われるが、こうした非マルクス主義あるいは反マルクス主義陣営の経済学者の目から見ても現在のアメリカ資本主義体制は明らかに行き詰まっているのである。

 ここで着目すべきなのは、政府でなければサービスできない部門(つまり完全な無政府的市場経済原理に依存した資本主義経済の本質からは賄いきれない部門)に資金が投入できなくなり、資本家間の私的な利害関係に基づくやりとり(これがいわゆる無政府的市場原理として作用する)では、どうすることも出来なくなっている社会の状況が浮かび上がっているということだ。そしてここでいう「政府」がこうした資本主義経済のもつ本質的無政府性に対するある種の補間装置としての「社会の公的コントロール機関」としての機能を託されていることが分かる。

 しかし、もちろんいまのアメリカ民主党政権が、資本主義的経済体制を否定しているなどとは誰も思ってもいない。これは行き詰まった資本主義体制をどうにか再生させるために多くの労働者階級を巻き込んで政治的な「つぎあて工作」(コンピュータ・プログラムのパッチ当てに相当する)をやっているに過ぎないと考えるべきであろう。

 クルーグマン先生が、思い直して資本論を読み始めるかどうかは、分からないが、基本的に、労働者階級が日々の労働において生み出した価値が、資本という形での私有を前提として一握りの大資本家のもとに蓄積され、労働者全体の公的な資金へと回されるはずの剰余価値を、彼らが収奪し続けられるような仕組みが合法化されている社会の矛盾にこそ根本的な問題があるということに彼が気付かない限り、彼自身も労働者階級と一緒に真っ暗なアメリカの将来へと突き進む他はないだろう。

 しかし、今日の政治状況でいきなりマルクスの主張を掲げてみてもアメリカでは絶対に受け入れられないであろうということを考えれば、百歩譲って、クルーグマン先生の主張に一応は賛意を表明しておこう。

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2010年8月10日 (火)

mizzさんのコメントに応えて

 私の前回のブログに対して、mizzさんからのコメントがあった。その中でかつての学生運動の担い手だった世代への直言として「資本側の論理を跳ね返すだけの論理を持てたか。資本側の封殺に対する広い連帯を計画できたか。(中略)今、資本論を読めと云われれば、この歴史の再総括も求められる気分だろう。分かっているからなおさらだろう。歳を取った。実際の資本主義を身を以て学んだ。これが状況を変えている。改めて、資本論に取り組みたいはずなのだ。自然が働きかけている。教訓は生きているはずだ」という指摘があった。これはまことに重い言葉である。この言葉には、おそらく、私と同様に、mizzさんの自分自身の人生への苦い思いが込められていると察せられた。

 そう、われわれの世代の生き方への評価は、やがて歴史が明らかにするだろう。要は、われわれの挫折と失敗を次の世代で再び繰り返さないようにすることだ。野村監督ではないが「失敗と書いて成長と読む」ことができるかどうかである。

 かく言う私も、趣味を捨てて日夜、資本論の解読に邁進しているわけでは決してない。偉そうなことがいえる立場ではないのであるが、視力の衰えが激しくなってきた老眼を酷使してパソコンに向かうことが日常である。資本論もあるテーマについてもう一度読み直す必要があると感じたときには例の岩波書店版の分厚いやつを開く。赤鉛筆で引いた傍線や書き込みがページを汚している手垢に汚れた資本論である。ただし、未だに第2巻までした読み進んでおらず、第3巻はまだ手つかずである。第3巻はマルクスのメモ書き程度の下書きしか残っていないものをエンゲルスが老骨にむち打って1巻にまとめたもので、エンゲルスがいなければ全3巻は世に出なかったであろう。しかもそれでも決して資本論はマルクスの時代に終わってしまった理論書ではなく、現代に、そして未来に向かって開かれた書なのである。そこからさらに展開されることを待っている理論なのである。だから私は自分の人生の「総括」をおこないつつ、自分がこの資本主義社会の只中で生きていることの意味を知るためにもこの書の解読を続けようと思っている。

 現代のマルクス経済学者は、資本論に続いてその現代的展開を理論化すべきなのに、私の知る限りまじめにそれをやっていない。それは実に腹立たしいことである。もっぱら学者として、あるいは評論家としてのステータスを高めるために資本論をいじくっているとしか思えない。このブログを読んで、専門家として「そんないいかげんなことを書くな!」とでも言ってくれれば、私にとってこれ以上の励みはないのだが。

 

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2010年8月 9日 (月)

「デザイナー」という種類の労働者の実態を考える(4)

 デザイナーという職能について、それが実は「デザイン労働者」という種類の現代資本主義社会に特有な労働種であるという事実について述べてきたが、その事実に気づいた後、デザイン労働者はどのように生きればよいのか?これが次の大問題である。デザイナーという職業を辞めるべきなのか、もっと直接世の中に役立てる職業に就くべきなのか、それとも労働運動とやらに身を投じ、「革命家」になるべきなのか?

 かつて60年代〜70年代の学生運動がそうであったように、あまりに短絡的にものごとを考えてはいけないのだろうと思う。たしかに自己否定をしながら現実の社会で生きるということは、まるで自分を引き裂きながら生きるようなものである。おそらくそれはどこかで破綻し、生きることを止めるか、現実社会に埋没するかどちらかの道を選ぶことになるのではないだろうか。

 そこで著者自身の経験からいえば、まずは世の中の歴史の流れを読み、それに逆らわずに、しかし、より深く自分自身の位置を理解しつつ、やがて来るであろう時期を待つのである。そのような生き方はある意味での「二重生活」が避けられないと思われる。つまり自分が生きている資本主義社会は否定すべき大きな矛盾を抱えているが、それをあるがままに受け止め、その中でとにかく生き抜くことを考える。そしてその否定すべき現実をひとつのエネルギーとして自分の内部にため込み、変革への意志とそれをバックアップする考え方を築き上げてゆく。そして、世の中の流れが一つの曲がり角に来たとき、自分がそれに対してどのような行動を取るか、その意志決定を内面から支える思想を築くことである。これは誰からも強制されるものでもなく、ただ自分の主体的な内面において成されるものであって、その思想形成の根拠は、歴史的・論理的な正しさへの直感と確信であるといえるだろう。

 そしてそのための最大の武器が「資本論」なのである。この未完の書に込められたマルクスの資本主義社会への鋭い論理的批判とその論理的批判を背後から裏付け、そのアンチテーゼとしての未来社会への指針を浮き上がらせようとした意図を汲み、その延長線上にわれわれの社会の現実を見据え、これへの否定から築き上げるべき社会へのグランドデザインを具体化してゆくことこそ、われわれがこの社会に生きていることの意味なのではないだろうか?

 しかし、このような生き方は楽ではない。この社会を肯定して、あるいは批判をあきらめてそれに迎合して生きる方がずっと楽である。何のために自分がこんなに苦しんでいるのか、分からなくなることがある。そして私の周辺でもかつて学生運動を担い、「労働者と共に闘うぞ!」などと叫んでいた者たちが次々と社会の中に埋没し、サラリーマンや教師としての生活の中で、労働者としての自覚も変革への意志もどこかに吹っ飛んでしまい、やがてリタイアしてからは、自分の趣味に明け暮れる日々を送っている者が多い。

 先日、かつての友人の別荘に泊まって酒を飲みながら一晩中話をしたときに、何かの話で、私が、「君は資本論をちゃんと読むべきだよ」と言ったことに対して、その男は急に感情的になり、「そんなことを強制される必要はない!」と私に食ってかかったのである。彼はかつて学生運動の先頭に立っていた男である。その彼が、自分が資本論をほとんど読んでいないことを吐露したのである。そしてその必要もない、と言ったのである。私は自分の耳を疑うと同時に、「そうだったのか!」と、心底情けなく悲しい気持ちに落ち込んでしまった。しばらく鉛のような重い沈黙の後、彼は言った。「僕はいい加減な男ですから、変な期待を持たないでくださいよ」と。私は返す言葉がなかった。自分の大学教員としての地位をあきらめ、当時彼らとともに闘った自分は何だったのか。その後の40年の人生は何だったのかを思い知らされたのである。

 しかし、私はこれからも資本論から学ぶことを止めないだろうし、そこからマルクスの意図を汲み取り、デザイン労働者の置かれている現実という場所を中心として、そこから得られる明日の社会への展望を求めて生きるつもりである。

 多分、世の中の流れが大きく変わるのはそれほど遠い未来ではないだろうという予測のもとに。

 

 

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