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2010年8月22日 - 2010年8月28日

2010年8月28日 (土)

デザイン労働者は生き残れるのか?

 リーマンショック以来落ち込んでいた景気は回復した、回復の途上にあると言われてきたが、それは資本の側の観測であって、労働者の側では、まったくその実感はなかった。それもそのはず、もともと「景気」という言葉そのものが、資本の側の言葉であって、景気を回復させるために「人減らし」をやって資本の利潤低下を防ぐという方法を取るのだから、労働力を売りに出して生きている労働者にとっては、労働市場が供給過剰になれば、失業率はますます高くなり、労働力商品の価格は下がり(つまり労働賃金は低下し)、生活は苦しくなるのが当然なのだ。資本が労働者の生活を犠牲にすることによって再び力を蓄え、より多くの剰余価値を搾取できる体制を整え、したがってより多くの労働力を必要とし、労働市場での労働力商品の価格が上昇するまでは、労働者はまったく景気回復の恩恵を受けない。これが資本の論理である。

 ところが、資本主義経済体制の構造的あるいは本質的矛盾が原因で起きている今の「不況」は資本の側の姑息な回復手段では収まらず、再び悪化の兆しを見せている。このような状況の中で、デザイン労働者はどうなるのであろうか?

 為替レートが絶えず変動する現在の「グローバル資本主義経済」で、各国が自国の資本を護るために為替レートの間接的コントロールを試みる中で、アメリカとEUの資本エゴに挟まれ円の独歩高という事態が起きているが、それによって輸出に頼ってきた自動車産業や、家電産業などが「不況」の波に呑まれつつある。

 こうした産業ではデザイン労働者が資本に利潤をもたらす上で大きな役割を果たしてきたが、まず、直接的な影響を受けるのは生産部門である。大メーカーの生産部門を受け持つ多くの下請け中小メーカーは、生産拠点を労働力の安いアジアなどの海外に移すことになるだろう。しかし、資本にとって、まだ今のところ海外のそれよりも優位に立てる設計技術や基本技術開発などは、相対的にその存在意義が増し、したがって設計労働者や基本技術開発労働者の地位は保たれるであろう。

 しかし、デザイン労働者の場合は、これとはやや違う。設計技術や基本技術開発に費やされる労働時間は、そのまま自動車の商品としての価値に反映されるが、デザイン労働は、いわゆる付加価値的要素が強いので、労働時間がそのまま商品の価値に反映されるわけではない。むしろ、そのブランドの力とかデザインの評判を高めるというデザイン労働時間とは関係のない「デザイン」要素で市場価格が決められるからだ。ブランド性の高い企業のデザイン労働者はその意味で有利であるし、有名デザイナーの名前が入った商品は圧倒的に有利となる。ところが、ブランド・イメージがあまり高くない企業で働くデザイン労働者は、不利な立場に置かれ、むしろ価格の安い、アジア諸国産のクルマに市場で圧倒されることになりかねない。

 さらに、この「世界不況」が長引き深刻化すれば、アメリカ・日本・ヨーロッパでは多くのいわゆる中間層の労働者は労働賃金が実質的に低下し、安くて実質的なクルマを求めるようになるだろう。一方中国・インドなど、新興資本家が蓄財して富裕層が急増している国や、アラブの産油国の富裕層、アメリカ・ヨーロッパの富裕層は、高級ブランドの高価なクルマを求めるだろうが、数はたかがしれている。

 すると、日本やヨーロッパのブランド性の高い自動車産業で働くデザイン労働者は、いわゆる高付加価値商品を受け持つデザイン労働者となり、それ以外の「普通の」自動車メーカーで働くデザイン労働者は、アジア各国のデザイン労働者と、モノとしての商品のみならずヒトとしての労働力商品市場でも競い合わなければならなくなるだろう。安いデザイン労働力をどんどん供給している中国やインドなどでは、安いデザイン労働力が確保でき、しかも彼らのデザインは決して「質」が低くないからである。

 すでに我が国では、バブル崩壊以来、十数年前からデザイン労働力が供給過剰となっている。だから、「創造力や才能を生かせるデザイン学科」をカンバンに、大切な収入源として学生を獲得してきた多くのデザイン系大学では就職率の実質的低下や、デザイン以外の業種への就職先の開拓が懸命に行われており、教育内容も、いわゆる「つぶしの効く」労働力として労働力商品市場に対応できるために「デザイン」の拡大解釈の方向に向かっているのだ。そしてそれが、かつての職能教育的カリキュラムを変質させ、労働の現場からかけ離れた、高踏的で抽象的なデザイン論や、デザインの専門そのものではない周辺技術の知識を詰め込むためのカリキュラムへと変貌させている。

 こうしてかつて黄金時代を築いてきた、日本の工業デザイナー(デザイン労働者)は、産業でも教育でもいまやその存在が風前の灯火となっており、その崩壊過程を迎えているのである。われわれはこの現実を真摯に受け止め、いたずらに虚偽の「夢」を売るのではなく、労働者としての立場を踏まえた対処を考えねばならないだろう。

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2010年8月23日 (月)

「マルクス思想」という新商品?

 今朝の朝日新聞の文化欄に「今、再びマルクスに光」という記事が出ていた。

その中で、「若者よマルクスを読もう」という本を出した、経済理論専門の石川先生は、「座標軸をなくした日本社会には、一本筋の通った左翼の存在が必要だと思う。今の若者は左翼アレルギーが強いが、ブルジョアジー出身のマルクスが弱者への友愛から連帯の思想を紡いでいったように、本来の左翼的知性とは熱くて柔軟なものだ」と言っている。しかり!その通りだ。しかし、マルクスはブルジョアジー出身であったかもしれないが、「弱者」にブルジョアジーの高見から愛の手をさしのべるというスタンスではなかった。どこかの政治家みたいに「友愛」をうたって総理大臣になってもどうすれば友愛が実践されるのか分からず、「友愛」というカンバンの次元で済むブルジョアジーの立場を自ら変革することができずに終わってしまうようなことはマルクスには決してなかった。

 また「超訳 資本論」で有名な的場先生は、「千年、二千年単位で構想されたマルクスの世界観にとって、ソ連、東欧の失敗は序曲に過ぎない。共産主義を求める波は今後も繰り返し訪れる」と言っている。これもしかり!その通りだ。的場先生は続けていう「マルクスの著作はきちんと読まれてこなかった。例えばブルジョアジーが競争と自由をもたらしたことを評価したが、疎外された労働も一方で人々をつなぐ喜びの源だとした点。マルクスの魅力は矛盾をはらんだ二重性の豊かさにあるのです」と。

 ううむ、これはこの記事を書いた朝日新聞の記者が的場先生の言ったことを間違って受け止めたのではないかと私は考える。的場先生がこんなことを言うはずがないからである。マルクスはブルジョアジーが自由と競争をもたらしたことを評価したことなど一度もない。マルクスはその弁証法的な思考の展開の中で、ブルジョアジーの「自由」や「競争」が商品経済の持つ論理として展開され、資本主義社会の中でそれが成熟し、特有の倫理的スローガンとされる一方で、自らの労働力を商品として売りに出さねば生きていけない人々を生み出したこと、したがって、資本家も労働者も同じブルジョア的センスでの「自由な市民」という見せかけを否定し、ブルジョア階級の「自由」が自分たちの人間としての自由を収奪することによって成り立っているという事実、そういう自らの立場を変革することなくしては本来の自由を得られない人々を生み出させたということを強調しているのであって、そこが明記されなければ、ブルジョア的自由や競争をマルクスが評価したなどというのはとんでもない誤解を生む。

 また「疎外された労働も一方で人々をつなぐ喜びの源だ」などとマルクスは決して思ったことはないだろう。「経済学・哲学草稿」で用いられた「疎外された労働」という概念は資本論では用いられていない。そのこと自体、よく考えねばならないことであるとともに、たとえマルクスが「疎外された労働」という概念を用いたとしてもそれは、獲得されるべき本来の労働を生み出すための否定的対象として言っているのであって、本来あるべき労働を闘い取る過程そのものがその姿を明らかにしていくということであったはずだ。それが「一方では喜びの源だ」などと言っては誤解も極みに達する。

 ブルジョア的なセンスでの「矛盾」や「二重性」という概念を遙かに超えたマルクス的な地平での「矛盾」「二重性」の論理を理解することを妨げるような記述は本当に困りものです。的場先生、ぜひ訂正記事を出してください!

 さらにかつて学生運動を担ったという、哲学者、長谷川さんは、資本論よりも「経済学・哲学草稿」のほうが今日的テーマを含んでいると感じ、「政治解決できる問題など実際には少ない世の中で、一人一人がどう生きたらよいのか?マルクスが、人が地べたで生きていること自体に可能性と希望を見た意味は深いと思う」と言っている。しかし、マルクス自身は「経済学・哲学草稿」時代の自分の限界を「資本論」で乗り越えようとしたのではなかったか?「一人一人がどう生きたらよいのか?」というレベルでは決して世の中も自分の実存も変革することはできないことを悟ったマルクスが生涯掛けて資本の論理を解明し続けたのではないのか。

 かくして朝日の言いたいことは、東工大の橋爪先生の次のような言葉で象徴される「政権交代が起きたのが象徴的だが、労働者が革命を起こす前提が日本では完全に消滅した。マルクスも、社会改善のヒントを提供する一人になったということだ」。

 これではマルクスも浮かばれまい。今の日本には労働者階級が革命を起こす前提が山ほどあるのに、それを覆い隠す、ブルジョア的イデオロギーにマスコミも大学の先生もごまかされているに過ぎないのだ。あたかも書店で、どの思想書を読もうかな、と迷っている顧客に、マルクスというのもありますがいかがですか?と売り込みを掛けているようでは、なにをか況んやである。

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