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2010年8月29日 - 2010年9月4日

2010年9月 3日 (金)

ハイエクの「自由主義」をめぐる問題について(その4)

 資本主義生産様式での、社会的に要求される生産物の生産が、「市場原理」として現れる価値法則の「見えざる手」によって社会全体としてバランスを保たれているとすれば、それは、社会的分業としての資本家的企業への社会的な労働力の配分の調整(多くの需要を満たす分業種では多くの生産物が生産されねばならずそれには多くの労働力が必要となり、その反対に需要が下がった分業種では労働力が過剰となる)としてそれが作用するからであるといえる。

 社会全体として必要とされる生産物は、さまざまな種類があり、必要とされる生産量もそれによって様々であり、しかも時々刻々変化している。資本家は、つねに自分の企業で最大限の利益を上げるために、商品市場での商品価格を調整し、需要が多い場合には価格を価値以上につり上げ、需要が少なくなれば価格を価値通りかそれ以下に設定してでも競争に打ち勝とうとする。一方、労働力商品市場では、モノとしての商品の生産に必要な労働力の価格(労働賃金)を、やはりその需要供給によって上げ下げする「自由」を持っている。同様に、彼の企業が所期の利益をあげられない場合には、余った労働力を廃棄し(クビにする)、労働力商品の新規購入を控える(労働者の雇用を控える)「自由」を持っている。

 これを社会全体として見れば、社会的に要求度の高い生産物を生産する分業種を経営する資本家は、より多くの労働力商品を購入して、より多くの商品(モノとしての)を生産し、より多くの利益をあげることができるが、やがてそれを横目で見ていた、要求度が低下した分業種を経営する資本家は、その分業種の内容を要求度の高い分業種と同じ内容に変更するか、その企業を倒産させて、新規に要求度の高い分業種の企業を立ち上げるであろう。それによって、要求度の低い、したがって社会的に需要が減少した業種の企業に雇用されている労働者は、クビになるか企業倒産で職を失うことで、その分業種における労働力は減少する。職を失った労働者の多くはその分業種に特化された専門技術を身につけているがゆえに、再就職が困難になるが、運良く別業種の企業に雇用されれば、そこでは従来の専門技術を捨てて、一層不利な状況で働くことになる。

 こうして、価値法則のもとで、社会的に必要な分業種への労働力の配分が「見えざる手」によって突き動かされている個々の資本家の「利己的な目的」の集積によって「達成」される。資産を持つか、資本をかき集めることができる資本家は、「自由」にその経営する業種を変えることができるが、労働者は、つねにそれによって翻弄され、社会的にはつねに一定の失業者が存在することになるのである。

 こうして資本主義社会は、価値法則の下での「平等な」商品経済社会の完成された姿として、同時に商品(モノ)ではありえない労働力をも商品として売買するという形で、その本質において最後の階級社会として成立しているのである。

 ここでもう一つ重要なことは、個々の社会的分業としての資本家的企業の内部で行われている「企業内分業」では、生産的労働者は、その労働過程を、資本家が求める相対的剰余価値の生産に相応しい形で分割され、個々の労働者の分割労働の過程から生産の目的意識が奪われると同時に、その奪われた生産の目的意識が、資本家の利潤獲得というきわめて抽象的で利己的な目的意識に取って代わられているのである。

 したがって、一言でいってしまえば、資本主義社会全体を動かしている価値法則の「見えざる手」は個々の資本家の利益追求というきわめて抽象的で無内容な、したがってある意味ですべての資本家に共通な目的意識によって動かされている、人為的なしかし個々の資本家の意図を越えた形としてそれらを支配する「法則性」を発揮するのである。

 資本家にとって自分の企業で何を生産するかということよりも、どう利益を追求するかの方がはるかに重要な問題であり、だからこそ資本家はその業種内容を「自由に」変えることができるのである。例えばトヨタはたまたま自動車生産技術に関する知識の蓄積と生産設備を「私有」するためにそれが市場での立場を圧倒的に有利に導くので、自動車を作ってるが、世界市場の変化如何によっては、利益をあげるために金融企業に変貌することすらありうるだろう。そのために切り捨てられるであろう多くの生産労働者や自動車設計労働者やデザイン労働者の運命がどうなろうとも、経営者の本音としてはどうでもよいのである。

 そこには、社会全体の生産を担う労働者の生活を基準としたその運営に関する計画性などは市場原理への「攪乱要因」以外の何物でもなく、利己的な利益追求のみがリアリティーを持つという資本主義社会特有の「倫理」が横たわっているのである。

 そのことは、池田信夫の次のような言葉に典型的に表現されている。「...だから日本の「格差社会論」のほとんどは、実証データにもとづかない情緒的なものだが、かりに格差が大きいとして、格差に反対する人たちは、いったいどうしろというのだろうか。すべての人の所得を完全に同一にしろとでもいうのか。もし能力に応じて分配をしろというのだとすれば、その能力はどうやって測るのか。ハイエクはこうした「社会的正義」の要求を、社会主義の一種として斥ける。」(p.164)そしてこれに続けて池田は次のようなハイエクの言葉を引用する。「社会主義者がめざすように、各人が受けるに値すると考えるものを、共通の具体的な目的をもつシステムを当局が全員に押しつけることによって保証しようとすることは、何百万もの人々の知恵や願望の活用と自由文明の有利性をわれわれから奪ってしまう逆行への第一歩であろう」(p.164)。

 さて、これでハイエク=池田の本質が明らかになったと考えるが、皮肉にもこの本が出版された直後に世の中は、再び、ケインズ的資本主義への回帰の兆候を見せている。要するに、ケインズとハイエクの対立は、資本主義社会がその「成長の限界」に達しているのに対して、そのカラの内側でそれを乗り越えようとする、資本主義社会の本質的矛盾を理解しようとしない経済学者たちによる「疎外の両極」的対立であると考えられる。このような徒労の論争が繰り返されている間に、いかに多くの労働者が過酷な労働や失業に苦しみ、生きる道を見失い、あるいは生きるために兵役につき、戦争で死んでいっているかを、彼らは見ようとしない。彼らにとっては、人々がそうするのも「個人の自由」だからであるというのだろうか?

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2010年9月 2日 (木)

ハイエクの「自由主義」をめぐる問題について(その3)

 前回の続きである。池田信夫によるマルクス批判は、前回述べたようなマルクス経済学における価値法則の解明というの基本的テーマを無視して、最小限ルールによる最大限「自由」に裏打ちされた諸個人の「不完全な知識」の集積による市場経済の均衡メカニズムを、社会主義における「完全知識の想定」とそれによる目的設定、そしてそれにもとづき中央から上意下達的に実行される「計画経済」を対置させて批判するのである。

 しかし、マルクス自身は、そのような「完全知識」(これ自体が明らかに不可能な前提)や硬直化した社会目的を想定した「社会主義経済」などおそらく考えもしなかったに違いない。これらはすべてマルクス以後の(正確に言えばスターリン以後の)「マルクス的経済学」の産物である。1920年代後半、「永続革命」を主張し、当時ロシア革命を成し遂げたソ連を資本主義を脱したばかりの「過渡期の社会」としてとらえ、絶えざる革命を通じて世界的な規模で徐々に社会主義社会を実現していくことを主張したトロツキー派を、スターリン派が追い落とすことに成功し、一国内での社会主義革命が達成できると主張したのである。そこから生み出された数々の「計画経済」的政策が一党独裁体制の官僚的指導部のもとに打ち出され、労働者は、上からのノルマにしたがって労働を行うことになったのである。ソ連東欧型の「社会主義経済体制」はその後、資本主義陣営側の市場経済的メカニズムを一部採り入れたりして修正されるが基本的には、こうした上意下達的計画経済であって、その本質的な欠陥が、労働者の主体性の完全な喪失という形で現れ、労働者の生活自体が、閉塞的で「自由のない」生活になって行ったと考えられる。

 しかし、これはイギリス労働党政権などにおけるケインズ的消費主導型政策導入による資本主義体制内での「社会主義的」経済とは根本的に異なる。ソ連東欧型「社会主義」経済体制では基本的に、ケインズ型資本主義経済体制と異なり、「資本と賃労働」という関係が存在しなかったからである。しかしこうした違いを無視する池田=ハイエクは、十把一絡げにドイツのナチス体制までもひっくるめて、「全体主義的体制」として批判するのである。そうした池田=ハイエク的「全体主義的計画経済」の対極に置かれるのが、ハイエクの「意図せざる結果による均衡」に任せる、「自由な」個人の利己的活動なのである。

 ここで特徴的なのは、ケインズもフリードマンもハイエクも、みな、資本主義経済の「市場」つまり資本の流通および分配の局面のみを中心に論じており、資本の生産過程についてはまったく触れていないことである。マルクスの労働価値説はまさにその資本の生産過程に関わる問題を分析した結果なのである。どのような社会においてもその構成員が生活するに必要な資料を作り出せなければならないし、さらにそれを越えて、社会の共通ファンドとなり、社会の発展のために消費される剰余生産物が必要である。これを資本主義社会は、生産手段を所有する資本家階級と、それを持たずに労働力を売りに出すことで生活する労働者階級によって、行っている社会である。労働者は自分の労働力を売ることで、生活に必要な貨幣を賃金として受け取るが、これは、生活資料商品を購入することで再び資本家の手に還流する「前貸し資本」であり、資本家が商品を売って獲得する所得とは本質的に異なる。一方、資本家は労働者の労働力を自分の所有する生産手段と結合させ、労働者の労働力を再生産するに必要な価値の生産を越えて、剰余価値を生産させ、それをすべて自分の所有物として獲得する(これを搾取という)。彼はその剰余価値部分を含んだ商品を市場に出して売ることで、利潤を得、それによってまた新たな生産手段や労働力を購入する。したがってそこでは本来の商品市場と労働力商品の市場(労働市場)が同じ「市場原理」つまり価値法則で動いているのである。

 価値法則は、市場のメカニズムを動かす法則として、資本家および労働者各個人の意志から独立した「外力」として作用するのである。しかし資本家は、その中で自らの利益追求に関して障害となるどのような拘束も取り除き、「自由」に商品の売買と利益獲得競争をすること(その中には労働者の解雇や不採用の自由も含まれる)ができることを望んでおり、市場が価値法則にしたがって作用する成り行きを「意図せざる結果」として受け止めているのである。

 一方、労働者は、前貸しされた生活資料購入のための貨幣を、賃金として受け取り、生活に必要な商品を購入した後には、最良の場合でさえわずかな蓄えを残すことしか出来ず、再び労働力を資本に売りに出さねばならなくなる。彼にとっては、自分の労働が生み出した価値の大半を資本家に搾取され続け、労働力を売りに出さねば生きてゆけない生活を死ぬまで繰り返すことになる。彼に与えられた「自由」は、生活資料商品を買うこと、つまり自らの労働力の再生産だけである。

 したがって価値法則の下ではモノとしての商品の売買とは違って、労働力商品における「売りと買い」は決して同等に「自由な」な関係で行われるのではない。しかし、そのことによって「見えざる手」としての価値法則は「法則」として成り立っているのである。

 資本主義社会が、「最大限自由」とそれによる諸個人の利己的活動が結局は「見えざる手」としての市場原理によって「意図せざる結果」を伴いながら均衡を保っていく、というハイエク=池田の主張が、実は商品売買での決定的に不平等な関係を前提とした体制のもとで成り立っているのである。これが、マルクスの言うように、資本主義社会が、表面的には自由と平等を求める社会のように見えながら、実は「最後の階級社会」であるということなのだ。

 それでは、資本主義的市場のメカニズムとして作用する価値法則は、生産場面でどのように作用するのであろうか?これは分業の問題と関わることであるが、次回にそれについて述べることにしよう。

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ハイエクの「自由主義」をめぐる問題について(その2)

 前回に引き続き、池田信夫著「ハイエク〜知識社会の自由主義」の批判的検討を行う。池田は、ハイエクによる計画経済とそれを導く前提としての「完全な知識」というものを否定し、「意図せぬ結果」によるバランスで経済活動を保つ市場経済のメカニズムとそれを支える個人の「無知」による行動(不確実な知識による消費者の「必要」という主観的価値で決まる市場の動き)を正当化するために、ケインズや新古典派、シカゴ派などの資本主義的経済学の論者を批判し、それと同時に、マルクスを「計画主義経済」の流れを作った元凶として批判する。

 歴史的に見れば、1930年代には、一方で金融恐慌に始まる世界的な経済不況で資本主義経済体制が完全に行き詰まっており、他方でスターリン派が共産党独裁体制を恒常化させ、一国社会主義という戦略のもとで遂行した計画経済の体制がほぼ確立されて成果を上げ始めていた時期に、それに対抗するために資本主義陣営から打ち出された新たな経済戦略がケインズによる考え方を参考に、政府の財政主導で需要創出を行い、それによる景気回復と失業者の吸収を図るという形で行われ、第二次世界大戦をテコにして戦後の欧米資本主義社会で成功したという事実から、1960年代まではケインズ派が資本主義経済理論の主流を成していた。

 しかし、その後、一方ではソ連圏の経済状態は国家的プロジェクト(軍需・宇宙開発など)を除いて停滞を見せ始め、他方では、ケインズ的修正資本主義経済を導入し社会保障や労働者の権利を重視したイギリス経済の停滞と財政赤字の増大、そしてアメリカの経済もいわゆるスタグフレーションによるインフレと失業の同時進行が深刻となり経済的停滞を見せ始めたことから、ケインズのように資本主義経済に計画的性格を付け加えようとした考え方を批判するフリードマンやハイエクの考え方が見直されるようになってきた、というのだ。

 資本主義経済学陣営にもケインズに反発するの流派がいくつかあり、アダムスミスの流れを汲み、「均衡理論」を主張する新古典派、それに数学的装いを凝らしたフリードマンらのシカゴ派など、いずれも市場のメカニズムを重視し、大きな政府を否定する立場であるが、ハイエクはそれらの学派とも一線を画し、社会的経済運営におけるあらゆる「計画性」を廃し、最小限のルールによる最大限の自由を強調した。

 池田はこうしたハイエクの考え方を支持し、社会主義的計画経済をその対極にある元凶として批判する。その批判のポイントは、「計画主義の誤りは、人間世界の秩序を人工的な組織(例えば企業など)と同一視することにある。組織は建築物のように、あらかじめ決まった設計にもとづいて計画的につくることができるが、社会全体を計画的に構築することはできない。社会全体には与えられた目的がなく、人々は各自の利己心にもとづいて行動するので、集権的にコントロールできないからだ。(中略)大きな社会では、人々の利害は一致しないので各自の行動が合成された結果は、だれも意図しなかった秩序(あるいは混乱)を生み出す。社会全体を計画的に動かそうとする社会主義や全体主義は、こうした意図せざる結果の法則を理解していないのだ」(p.128)という点にある。

 私は池田信夫のように資本主義的経済学の専門家ではないのだが、少なくともマルクス経済学については池田よりは詳しいと思うので、池田=ハイエクのマルクス批判におけるマルクス経済学への無知と恣意性について要点を指摘しておこう。

 前回、マルクス経済学をその主張にもとづき理解しようとした宇野弘蔵の考え方の一部を紹介したが、そこでの宇野=マルクスによる資本主義的市場経済のとらえ方は、「自由な」資本家よる個人的な利益追求の行動が社会全体として市場を均衡状態に導くという「見えざる手」(スミス)による市場のメカニズムは、実はそれが「自由な」個人が意図するとしないに拘わらず、価値法則という法則の下に置かれていることを示すと述べている。つまり「自由に」利己的利益を追求しようとしている資本家たちは、決して自由ではなく、実は無意識のうちに価値法則という法則のくびきの下に市場のメカニズムに導かれているという関係を示している。

 マルクスが分析したのはまさにその「見えざる手」という形で市場を支配している価値法則なのだ。そしてそこにはリカードらの労働価値説を批判的に継承したマルクス的価値論があり、価値を生み出す実体としての労働という視点から、社会的に平均的労働時間が示す価値量によって客観的に規定できる価値と、それが市場において需要供給の関係で表示される市場価格の物質的基板であり、その意味で価値と価格は明確に区別されねばならない(資本主義的商品市場では価値は価格としてしか表現し得ない)ことを論証しているのである。

 しかもその価値法則は、「商品を私有し、それを自由に売り買いできる人間」の存在を前提として成立しているのであって、たしかに資本家は基本的に商品を生み出すのに必要な生産手段を私有し、労働者から労働力を買い取ることで商品を生産し、その商品を自由に売ることができるが、商品を生み出すのに必要な労働力だけしか「私有」していない労働者にとっては、自分の労働力を商品として資本家に売り渡すことによってしか生きていけない。さらにその資本家の私有する富は最初から彼らの生み出した富ではなく、過去に搾取された労働者の労働の成果としていま資本家の手元に私有されているという事実をマルクスは見いだしたのである。このことをおそらくハイエクも池田も理解していない(したくない?)のだろう。

 そしてもう一つは、池田=ハイエクによる「完全なる知識」や「社会全体の目的」そして「計画的経済」への否定が、マルクスへの批判の主軸に置かれていることについては、マルクス以後の「社会主義経済」とマルクス自身の理論との恣意的な混同によって成されているということである。これについては次回に検討しよう。

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2010年9月 1日 (水)

ハイエクの「自由主義」をめぐる問題について(その1)

 資本主義経済体制の「理論的」指導者であり、ケインズ派に対抗する「理論家」としてしばしばフリードリッヒ・ハイエクが取り上げられるので、書店で見つけた、池田信夫著「ハイエク〜知識社会の自由主義〜」(PHP新書)という文庫本を読んでみた。

 資本主義体制を普遍的な経済体制として捉える理論家の内部での論争にについては、私自身あまり知識がなかったので、そういう意味ではこの本はその世界でのいろいろな事実を学ばしてくれた。もちろん、池田信夫=ハイエクではないので、この本に書かれているハイエク像は池田信夫によるハイエクなのであるが、そこには実に見事に資本主義社会の基盤的思想となっている「自由主義」の性格(決定的矛盾を内包する性格)が表現されているのでおもしろかった。さらに池田信夫はマルクスを拾い読みしてマルクス主義に関する断片的知識を持っているようなので、池田信夫的マルクス像との対比でハイエクの「自由主義」が描かれているのでますますおもしろい。

 私は、この本を読む少し前に宇野弘蔵の「資本論の経済学」(岩波新書)を読んだので、これとの対比で資本主義的「自由」の本質を考えることは非常におもしろかった。極端な言い方をすれば、私の中でくすぶっていた、人間の実践における計画性や目的意識性に関する問題といわゆる「広い意味でのデザイン行為」というとらえ方の間にある深刻な問題(これはマルクスの労働過程論で表現されている内容と本来の社会主義経済における計画的経済の問題に関わることでもある)への歴史的な重大性とその検討の必要性をあらためて痛感させることになったと言ってもよい。

 しかし、まだこの問題について系統的・体系的に述べるまでに、私の思考がまとまっていないので、ここでは気の付いたことをいくつか述べるにとどめることにしよう。

 その第一は、池田信夫が言う「社会主義的計画経済」はマルクスのそれではなく、スターリンやその一派によって確立された、共産党独裁政権のもとでの一国社会主義的政策の一環としてなされた経済政策を指しているということ。

 第二は、1930年代の世界恐慌のさなかに実施された資本主義体制の実質的修正による、国家機関による経済体制の間接的コントロール(アメリカでルーズベルト大統領により実施されたニューディール政策などの財政政策とその後の戦争によるその「成功」と1970年代におけるその停滞、および戦後のイギリスで実施された労働党政権主導による経済体制に代表される国家主導型経済政策とその後の漸次的停滞化、という事実を、資本主義経済への社会主義的要素の導入による失敗と捉え、その後のレーガンやサッチャーによる「小さな政府」政策による国家機関の市場経済への介入の縮小とその一定の成功をケインス派の挫折と考える見方。

 第三に、それに対する、フリードマンなどのシカゴ派によるいわゆる「新古典主義経済学派」の提唱する、目的関数による計算論的な経済モデルの持つ矛盾を、市場の計画経済モデル化による矛盾として捉える見方。

 第四は、それらを「計画主義」として一括りにし、それに対して、ハイエクの主張する、してはいけないことのルールだけを決めてあとは市場に任せることにより、「意図せざる結果」が結局は経済のバランスを可能にする、という「自由主義」的思想を対比させる。

 おおむねこれが池田信夫の論旨であるようだ。これに対して、宇野弘蔵の興味ある指摘を引用しておこう。「...いわゆる無政府的生産といわれる資本の生産も、つくりすぎた商品は値段が下がり、不足する商品は値段が上がって、その間に価格の運動を通じて社会的に調節せられることになるのであって、その点では価値法則が、これを規制するといってよいのです。いいかえれば、商品経済の無政府性(これがハイエクの主張する「自由主義」と「意図せざる結果」の基礎である)は、特に資本家的商品経済では、決して無法則ではない(つまり資本主義経済が価値法則によって支配されているということ)のです。むしろ両者は表裏一体をなしているのです。」(資本論の経済学 p.28 アンダーラインおよび括弧内の注釈は野口による)このひとことを見ても宇野弘蔵が池田信夫より数百歩も数千歩もさきを行っていることが分かる。

 しかし、池田信夫はさすがに東大出のエリートだけに、そう単純素朴ではない、さまざまな思想家の考え方を断片的にちりばめてハイエクの思想を擁護しているので、批判する側もそれなりに構えなくてはならない。これからそれを少しづつ具体的にそれを進めることにしよう。

 しかし、もっと重要な目的は、ハイエクや池田信夫の批判などにあるわけではなく、さらにそのずっと先にある、われわれが目指すべき、計画的経済体制の輪郭と、その方法論としての「計画的実践とは何か?」という問題についての考察を進めることにあると考えている。もしかすると、これこそ私のライフワークとしての研究テーマになるかもしれないという予感を感じつつ。

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