« 2010年8月29日 - 2010年9月4日 | トップページ | 2010年9月12日 - 2010年9月18日 »

2010年9月5日 - 2010年9月11日

2010年9月11日 (土)

「合法的殺人」の危機に晒されるアメリカ市民

 ある友人から、ワシントンポストに大変な記事が出ているという報告を受けて、その記事をダウンロードしてみた。http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/09/06/AR2010090603221.html それと一緒にYouTubeに投稿された関連情報のビデオを見た。http://www.aclu.org/national-security/aclu-video-targeted-killing 英語力が優れているとはいえない私にとってこれらの英語情報から即座に正確な判断を下すのは少々自信がないが、要するに、次のような訴訟が、アメリカの市民団体(ACLU)から提訴されているというニュースである。

 オバマ政権が、ブッシュ政権から引き継いだ、「合法的調査」という名目の非民主的条例に反対する人々が、訴訟を市民団体を通じて行った。それはコンピュータに入っている個人的通信文やデータの内容をテロの防止という名目で当局が調査できる権限を与える条例であり、国境を越えて侵入してくるテロリストを防ぐことが目的であるが、それに伴って、テロリストの疑いが強い人物を合法的な殺人標的リスト(targetted killing list)に載せることである。

 ここでいう「合法的な殺人標的リスト」とは、テロリストが標的にする人物のリストではなく、アメリカ政府が、テロリストとして「殺してもよい」人物のリストのことである。自由と民主主義の国アメリカで、このようなことが公然とではないにしても、既定の事実として行われてきたことは、驚くべきことである。

 しかし、よく考えてみれば、それほど驚くことでもないかもしれないのである。というのは、第二次大戦が終わった直後、まずは東西対立が第三次世界大戦の危機を孕んでいた時期に、マッカーシー旋風として吹き荒れた悪名高き「赤狩り」で多くのアメリカ市民が監獄に送られ、あるいはスパイ容疑で電気イスに送られたという事実に始まり、その後幾度かあった中南米での紛争における革命勢力に対してCIAが送り込んだアメリカ政府お墨付きのテロリストグループが、反革命勢力を支援し、要人を暗殺し、多くの左翼政権を倒したり、それらの運動を挫折させてきたことはすでに周知の事実である。そしてその同じ論理がベトナム戦争やイラク戦争、アフガン戦争へとつながっている。

 第二次世界大戦で勝利した連合国側の盟主として、世界の「自由と民主」の守護神という座を得たアメリカは、それを守るという名目で、手段を選ばぬ行動に出ると共にそれらの行動を暗々裏に合法化していたのである。そしてアメリカ市民はそれを明確な形では知らされていなかったとはいえ、何となくその事実を知っており、しかし、ある意味で「当然のこと」として了解していたフシがある。

 それだけアメリカ的な「自由と民主主義」が世界を越権していたのであり、アメリカ的「正義」がデファクトスタンダード化していたのであるが、見方を変えれば要するにアメリカ的正義が、その裏側で、それに異議を唱える国や人々に対して「悪の枢軸」という烙印を押し、いつでもどこでも殺して良い対象にするという常識によって支えられていたということであろう。そして実はそういう表と裏とを一体とした社会通念こそが、「自由と民主主義」をカンバンとするアメリカ資本主義社会の「上部構造」を形成しているのである。それは、もしかすると先住民族の命と土地とを奪い続けながら成長してきたアメリカという国の歴史によって育まれた社会通念なのかもしれない。

 しかし、いまそれが少しづつではあるが崩れ始めている。それが証拠には、こうした手段を選ばぬ「誅殺行為」が、自国民に対して向けられることによって、ようやく市民にとって訴訟問題として取り上げられるようになったのだから。そして一方では、キリスト教過激派がイスラムの聖典であるコーランを焼く儀式を強行しようとしたり、モスクの建設に反対したりする動きが大きくなりつつある。今後のアメリカ社会の混乱が危惧される。

 かつてのイギリスよりはるかに大規模な「金貸し国家」になってしまい、「ものづくり」から離脱してしまったアメリカで、必然ともいえる金融恐慌をきっかけに、その隆盛を支えてきた膨大な消費による「いつわりの豊かさ」が崩れ始めたのだ。

 一方でアメリカは世界一強力で高度な技術に支えられた軍事力を持っている。無人ロボット機によるコンピュータゲームそこのけの殺人攻撃や核拡散条約によって他国の核保有を阻止しながら、自国での戦略的核兵器の保持を続け、世界を軍事力で支配している。考えようによっては世界で一番おそろしい国である。

 そのアメリカで、汗と血と涙によってアメリカ社会の土台を支え続けてきた労働者階級を中心とした下層市民の疑問から出発するであろう、批判勢力の成長こそが、唯一本当の意味でのデモクラシーを発揮する力になり得るのではないだろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月 9日 (木)

クルーグマン先生の「2010年の1938年」で見えていない問題

 今朝の朝日新聞の「クルーグマンコラム」でクルーグマン先生が、現在2010年に起きているオバマ政権の直面している事態を、1938年のルーズベルト政権当時の状況になぞらえて「苛立ち」を表明している。

 クルーグマン先生は、オバマ大統領が、2008年から始まったアメリカの金融危機に起因する経済不況に対して、政府が景気刺激策としての大規模な財政支出を行ったにも拘わらず、景気が浮揚せず、財政赤字が増大する中で、失業者も増加している事態に対して、オバマ政権の人気が落ち、中間選挙を控えた政治状況の中で反対勢力の力が増し、オバマによる追加的財政出動が行われなくなったことに対する不満を述べている。

 クルーグマン先生は、例え財政赤字が増えようとも、さらなる財政出動によってしか景気供養はありえないと主張するのである。今日の事態を1938、長引いた大不況の中でニューディール政策などの大型財政出動を図ったにも拘わらず、アメリカの景気が思わしくなかったとき、ルーズベルトへの反対勢力の圧力によって、追加的支出が中止になったときの状況と似ていると指摘している。しかし、当時は第二次世界大戦という「偶然」の出来事が勃発し、それによる、有無を言わせぬ形での軍需産業への政府の大規模財政出動によって、戦後のアメリカ経済の復活がもたらされたというのである。そして現在の事態ではそのような「偶然」が期待できないとして「ほんの少しの知性の明晰さと、多くの政治的な意志」に期待するしかないと述べている。

 ここでクルーグマン先生が見落としている大きな問題が二つある。それは、第二次大戦後のアメリカ産業を支えていたのは、アメリカとソ連の対立を軸としたいわゆる東西冷戦体制化での大規模な軍需産業への政府援助の継続と、労働者階級の「中間層化」による労働運動からの社会主義的思想の排除である。

 前者は、湯水のごとく資金をつぎ込んだ、ハイテク技術の開発につながり、そのハイテク技術を核としてそれを民需に応用する産業が多く登場したこと、そして後者は、インフレ政策を通じた見かけ上の労働賃金高騰による、労働者階級の生活資料商品市場の活況化、そしてハイテク技術の民需への応用をそのような消費資料市場で生かせたということである。軍需産業は核兵器や航空機・ミサイルなどの兵器産業を成長させ、民需では自動車、家電製品などでの新商品市場を活性化し、労働者階級はマルクスが19世紀に予想した「窮乏化」とは違って、次々と生活資料商品を購入する「消費者」という社会的な位置づけを与えられ、「社会主義は悪魔の思想」というアメリカ的イデオロギーを植え付けられたのである。

 その中で、両者に共通するのは、大規模で継続的な過剰資本の処理方法が確立されたことであり、それが新たな不生産的産業の隆盛とそれらの資本への大量の雇用を生み出したことである。これがなければ戦後のアメリカ経済の繁栄はなかったといえるし、アメリカ的大量消費社会の出現もなかったといえるだろう(蛇足ながら、したがって「デザイナー」が新職業として活躍する舞台もありえなかったであろう)。

 こうしてヨーロッパや日本などでも、このアメリカ的消費文明が主流となり、それがついこの間まで続いてきたのである。しかし、いまやそれが根底から崩れつつあるのだ。クルーグマン先生はにはそのことが何も見えていない。つまり今日の状況は、戦争という「偶然」や「ほんの少しの知性の明晰さと、多くの政治的な意志」に期待しても無駄であり、根本的に社会の仕組みを変え、われわれ自身の社会観をも変えていかなければ解決の出来ないような時点にまで到達しているのである。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2010年9月 8日 (水)

デザイン商品「差別化」についての考察

 大企業に雇用されたいわゆるインハウス・デザイナーはもちろんのこと、独立したデザイン会社であっても、そこでデザイン労働を行うデザイナーは生産手段を持っているわけではないから、資本家ではない。にもかかわらず、デザイン労働者は生産現場の労働者と違って、商品のコンセプトやそれを売りに出すことの目的に関しては、資本家の頭の中と同様な意識構造を持っている。その理由は彼らが、自らの社会的存在意義として与えられた使命が、資本家の「売れる商品を作りたい」という抽象的目的意識にたいして、「買いたくなるデザイン」という具体的な姿を与えることにあるからだ。

 しかし、この「買いたくなるデザイン」の内訳はいくつかに「差別化」される。まずいわゆる「高級デザイン商品」に属するカテゴリーを考えてみよう。先日、中国の金持たちが買ったフェラーリのスポーツカーが相次いでエンジンルームがら火を噴いて燃えてしまう事故が何件もあったと報じていた。ニュースによるとフェラーリの車のエンジンルームは少量生産での軽量化という制約のためにポリエステル系の樹脂が用いられており、それが原因でエンジンの熱で発火したらしい。これを見ても、あの馬鹿高い価格のフェラーリがいいかげんな技術的内容で作られていることが分かる。しかし、それを買う富裕層に取っては、それは二の次の問題で、要は、有名ブランドで高価なクルマに乗っているという社会的ステータスが欲しいのである。フェラーリという会社で働くデザイン労働者は、そのためそのデザイン能力に関係なく「一流デザイナー」というカンバンと自負を獲得しているのだ。

 次に、量産大企業でのデザインを考えてみよう。ここではいわゆる「中間層」が主なターゲットになっている。ここではかつて1930年代にGMがインハウス・デザイナーとして雇用したハリー・アールのデザインによって、いわゆる「フルライン・ポリシー」という販売戦略を初めて採り入れて以来、高級ランクからスタンダード・ランクまでさまざまな商品の「差別化」を行い、それをデザインの上で表現することが日常になっている。つまり買い手のフトコロ具合に会わせて、価格のランクを付けて、各商品ランクの買い手が自分のフトコロ具合と「欲しさ」とのせめぎ合いの妥協点を見つけて買えるようなデザインを考えるのである。そこには無理をしてでも少しでも高いランクのクルマを買わせようとする意図が含まれている。多くの買い手はマンマとこの戦略に乗せられ、長期ローンで賃金の先取りをされても高めのクルマを購入する。デザイン労働者の労働の成果はこうして「役に立った」のである。

 さて、考察の対象をクルマという奢侈品的商品から生活必需品に移してみよう。例えば、台所の調理器具。いまでは我が国においては冷蔵庫と電子レンジは生活必需品となったが、しかしこれらの商品は労働者の賃金を意味する労働力商品の価値を決める上で、労働力の再生産に最小限必要な生活資料商品の価値として算入される。つまりそれは出来うる限り安い市場価格で売られる必要があるのだ。したがってそれらの商品を生産するために要する総合的労働時間は、デザイン労働も含めて出来うる限り短く(安く)しなければならない。だから市場に並ぶ「お買い得」な冷蔵庫や電子レンジは、ステレオタイプ化したデザインが多い。われわれが生活で必要としているもののデザインは、大企業ではあまり時間を掛けずに行うデザイン労働の対象であり、さもなくば、その大企業が置く海外生産拠点であるアジア諸国などのような生活必需品の安い国での低賃金労働で働く名もないデザイン労働者によって生み出されているのである。

 しかしもちろんここでも奢侈品的性格を持たせて「付加価値」(これについてはすでに別項で述べたように、実際の価値以上の価格で商品を売るため主観的価値観に訴えることで設定される虚偽の「価値」のことである)によって利益を挙げようとする目的のデザイン(つまり富裕層をターゲットとしたデザイン)では高級品のイメージを出す必要があるので、「イタリア風システムキッチン」などといってデザイン労働に時間を掛けて非常に高価な商品に仕立て上げられている。

 これらの事実を見ても明らかなように、デザイン労働者の労働がもっとも資本家にとって効果を挙げる(だからデザイン労働に充分な時間が与えられる)のは、高級品や奢侈品のカテゴリーに入る、いわゆる「高付加価値」商品であって、生活必需品のカテゴリーに入る商品においては、労働者階級の賃金レベルを決める要素になるために出来うる限り労働時間を掛けずに、あるいは「安い労働力」によってデザインされるのである。

 この本末転倒の事実、つまり本来どうでもよい世界でのデザインがもっとも資本家に有効に利益をもたらし、もっとも生活に必要なデザインがもっとも軽く見られているという事実を、これまで世のデザイン研究者の誰があきらかにし得たであろうか?

 (私にこの考察のきっかけを与えてくれたのはかつてデザイン労働者であった私の尊敬すべき友人である)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月 7日 (火)

自殺・うつ病の「経済損失額」という意味不明な数値

 本日の朝日新聞夕刊に、小さく、「自殺・うつ病の経済損失を試算」という記事が出ていた。経産省の依頼を受けて国立社会保障・人口問題研究所が推計した結果、2兆7千億円の経済的損失なのだそうだ。

 それによると昨年中に自殺した人が32,845人でこのうち15歳から69歳の人が70歳まで生きて働き続けたとして、得られる所得の合計は、1兆9,028億円。うつ病関連では、休業しなければ得られる賃金所得が1,094億円、うつ病で掛かる医療費が2,971億円、うつ病がきっかけとなった生活保護者への給付金が3046億円、となっていた。

 さて、私にまず分からないことは、いったい誰が「経済的損失」を被るのかである。ここに挙げられた数値を合計すると、2兆6142億円になるので、これが「経済的損失」の内訳なのだろうと思う。そうなると、15歳から69歳の人が70歳まで生きて働き続けたとして、得られる所得の合計である、1兆9,028億円と、うつ病関連では、休業しなければ得られる賃金所得が1,094億円というのは、労働者が自殺やうつ病にならなければ得たであろう彼らの「所得」である。だからそれが、得られなかったことは、自殺したりうつ病になった労働者にとっての経済的損失であろう。そうであれば、治療に掛かった医療費2,971億円は、それがすべて健康保険などからの支出として、国や共済組合などの「損失」と考えるのか、全額個人負担として労働者の損失と考えるのかが分からない。

 では政府が被った損失は、といえば、労働者が生きていれば、あるいはうつ病で休業しなければ得られたはずの「所得」から税金が取れなくなったという意味で「損失」であろうし、国保や生活保護などへの支出が増えた分だけ「損失」となるだろう。

 どちらにしても資本家は何ひとつ損失を出していない。労働者が勝手に死んでしまったのだから、補償金も保険料も払わなくてすむし、潜在的失業者があふれている現状で、別の生きのいい労働力を獲得することなど彼らにとってはたやすいことであろうから。

 そして、何よりも、失われてしまった32,845人の命はもう戻らないのであり、その家族や関係者の被った、心理的・人間的な損失は計り知れないものがある。彼らは得られたはずの「所得」を失っただけではなく、人間としてのすべてを失ってしまったのである。これを「経済的損失」として計算する人たちの心情が私にはもっとも分かりにくい。

 どなたか、この「経済的損失」の真意をお教え願えないでしょうか?

 

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2010年9月 6日 (月)

「広い意味でのデザイン」の矛盾

 前回までは、ハイエクの「自由主義」と「反計画主義」の本質と矛盾について考察した。今回は、一転してデザイン論で用いられる「広い意味でのデザイン」の矛盾と、それが実はハイエク的「反計画主義」と無関係ではないことについて述べることにする。

 「広い意味でのデザイン」というとらえ方は、××デザイナーと名の付く職能の領域が拡大して行くにつれて、デザイン教育側が、それを一般化してとらえる必要が生じ、そこから登場した表現であると考える。それは、単に、いまある職能や仕事の中に含まれている共通の「デザイン的要素」を一般化した表現に過ぎない。そのため、そこには何ら現実の、従って個々の「デザイン的仕事」における矛盾やそれへの批判が含まれていない。だからそれは無内容で形式的な「抽象」でしかない。

 また、「普遍的な意味でのデザイン行為」という表現は、それに比べると、特殊と普遍という歴史的把握が含まれている点が違うが、それは川添登などに見られるように、マルクスの労働過程一般の記述(これについては資本論第一巻第三編第五章第一節「労働過程」を参照されたい)を「普遍的デザイン行為」という表現に置き換えているに過ぎない。じつはこれはかつて私自身の「デザイン行為」のとらえ方でもあったので、その自己批判も含めてこの論考を行う。

 「広い意味でのデザイン」は上述したようにデザインの現実への批判が含まれたいないので、その本質が「売るためのデザイン」であることや、それが資本主義的量産体制の中で分割された個々の分割労働全体を「上から」支配する生産物生産の目的意識(なぜそれを作る必要があるのかという)を資本家の目的意識にしたがった商品の全体像として具体的に表現するために必要となった一つの職能(デザイナー)が受け持つことになったという、歴史的事実を一切見ようとしないのが特徴である。だから「広い意味でのデザイン」は本質的に資本家のトップダウン的なデザイン観の表現であり現実のデザイン労働における矛盾を覆い隠す役割を果たしているといえる。

 「普遍的な意味でのデザイン行為」は、職能としてのデザイナー誕生の歴史的経緯を知っており、その意味でそれを歴史的に特殊な一つの時代(20世紀的資本主義社会)の産物であることを示し、それゆえその職能が持つ本質的矛盾(売るためのデザイン)を指摘しながら、本来あるべきデザイン行為として、マルクスの労働過程一般のとらえ方を対置する。それは「広い意味でのデザイン」よりもはるかに内容があり、実践的な目標が含まれているといえる。しかし、あるべき姿としてマルクスの労働過程を対置するだけでは、いわば「絵に描いたモチ」に過ぎないのであって、サンシモンやフーリエのユートピア思想とあまり変わらないことになる。

 それでは、何が問題であり、われわれはどうすればよいのであろうか?これは非常に重要な問題であるが、とりあえずは以下の二つの問題について考察する。それは、思考の方法としての「抽象」と「批判」の問題である。

 「広い意味でのデザイン」における「抽象」は、単なる共通点の抽出であり、無内容な形式的表現であると同時にそれは資本家の利潤追求という抽象的で無内容な目的意識をある意味で象徴しているといえる。これは丁度、ハイエクが「自由主義」と同じことを裏側から表現した「反計画主義」における無内容性と共通の根を持っていると考えられる。つまりここでの「広い意味でのデザイン」はその具体的な目標が何もない。「取り戻されるべき自由」という意味での目標がないハイエク的「自由」と、実現されるべき目標のない「デザイン行為」とは裏表の関係にあると考えられるからである。このように現実に存在する矛盾への批判なき「抽象」はつねに無内容で、しかも本質的にトップダウン的であるといえる。

 これに対して、現状のデザインの矛盾に対する批判から出発し、それに対して「取り戻されるべきデザイン」のイメージが「労働過程一般」としてあるのだが、単にそれを対置したにすぎない。そのため「普遍的な意味でのデザイン行為」という把握は、批判そのものが抽象的になってしまい、したがって目標それ自体も漠然としたイメージでしか描かれ得ない。

 そこで必要なことは以下のようなことであるといえる。

 個々のデザイン労働の現場においてデザイン労働者自身がその労働を通じて感じる矛盾を取り上げ、それを批判的に考察することを通じて、その原因を突き止めていく。個々のデザイン職場でのさまざまな形の矛盾をそれぞれ批判的に考察することから得られる、その背後にある共通な大きな原因を抽出していく。そしてそれを克服するために何らかの実践を通じて現実に働きかける。その結果を見てさらに考察を重ねていく。こうした批判的抽象とそれにに基づく試行錯誤を通じて、はじめて問題の全体像が具体的に明らかになり、「獲得されるべき目標つまりあるべきデザイン行為の姿」それ自体も具体的になっていく、という思考方法が必要であろう。

 マルクスが初期の批判的考察である「ドイツイデオロギー」や「経済学・哲学草稿」にみられるような、ややユートピアン的な、未来社会へのイメージを対置する思考から、資本論におけるような徹底した資本主義経済社会への実践的批判に移行したのは、そのような意味があるのではないかと考える。現実的矛盾への批判的抽象とそれによる現実への働きかけを試行錯誤的に繰り返すことでしか、具体的な未来社会のデザインは不可能であることをマルクスは身を以て示したのではないだろうか?マルクスの批判的抽象は、その本質においてボトムアップ的であると同時に、それは単なるトップダウンの「裏返し」ではなく、個別的問題にこそ全体的問題の具体的内容が内在するという意味での「個別における全体性」を明らかにしたのではないだろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月 5日 (日)

ハイエクの「反計画主義」をめぐる問題

 ハイエクの「自由主義」がいかに資本主義経済を支配している価値法則への無知に基づいているかは前回までに述べたとおりである。今回は、その「自由主義の」反面である「反計画主義」について、いわゆる計画経済との関係と、さらにデザイン論での「広い意味でのデザイン」というとらえ方との関係を考察してみよう。

 資本主義経済体制はサッチャー・レーガンそしてその「一周遅れの継承者」だった小泉・竹中による規制緩和による「小さな政府」に代表される、ハイエク的市場主義がさんざんな失敗に終わった後、再びケインズ的な「大きな政府」型資本主義、つまり、資本家同士の市場経済で賄いきれない部分を政府が補完的な機能を演じることでとりつくろう形の政治経済体制に戻ろうとしているかのように見える。

 このケインズ型(あるいは新ケインズ型)資本主義体制を「社会主義」だといって非難する人々には、そのまったく的外れな非難にはただあきれかえるしかないが、それらの人々に共通した「計画経済的な管理体制」への感情的な反発があるように思える。そうした感情の思想的な表現がハイエクの「自由主義」に裏打ちされた「反計画主義」であるといえるだろう。

 ハイエクの言う「計画主義」とは、トップダウン的で官僚や権力者が決めた全体計画にすべての人が従わねばならないという形のヒトラー的「全体主義的」体制、あるいはスターリン的社会主義の体制を指しているのであって、資本家的企業がその組織の経営方針などを計画的(トップダウン的)に決めることは、その非難の対象から外されている。つまり資本家企業の経営者は、「自由社会」での代表的個人であって、彼らが私有する企業ではその運営や管理は徹底して計画的に行わねばならないが、それら資本家すべてが利己的で自由な競争のもとで利益を追求する場としての市場は管理されてはならないという主張である。

 この主張には明らかな矛盾がある。それは、一方で、特定の資本家が一人勝ちして甘い汁を独占させないようにするため市場への参入の自由、競争で相手をつぶす自由、労働力商品を出来うる限り安く買いたたく自由を確保しながら、他方で徹底的な合目的性において労働力の使用価値を使い切る、つまり徹底的に労働を搾取し、必要な場合に「合理化」のために労働者のクビを切るのである。

 この矛盾が、本来社会全体として必要な生活資料の生産が、生産手段の私有を前提に行われる資本主義社会の矛盾であることをマルクスは指摘しているのである。マルクスの資本主義社会への批判の中で重要なことは、社会的に必要な労働の持つ本来の合目的性が、生産手段を私有する資本家の利潤追求の手段とされてしまうことで、労働の目的意識が労働者の手から奪い取られ、資本家の利潤獲得という目的にすり替えられていることである。それによって、社会的な生産全体が、無政府的競争市場で売るための、商品の生産となり、生産体制全体が無駄な消費を促進するような経済体制が出来上がってしまっているのだ。

 この矛盾を克服するためには、労働者が生産の実権を握り、社会的な生産における合目的性を自分たちの目的意識として取り戻さねばならないのである。

 マルクスの目指したのは、こうした体制を確立し、労働者自身が生産の目的と運営を計画的に行えるような社会を実現させることであったといえる。その意味でそのような社会は、完全にボトムアップ的な計画性を持った社会であり、後にスターリンが生み出したような、党官僚が労働者を支配しトップダウン的な計画で運用される社会ではない。ましてそれはハイエクのいうような最初から完璧な計画で作られることなどはあり得ないことであって、資本主義社会への徹底した批判を通じてあきらかになったその仕組みの矛盾を克服するための確かなな指標を立て、その実現に至る過程は試行錯誤を繰り返すこと以外にはあり得ない。つねに目標の吟味を行いつつ試行錯誤で目的実現を具体化させることこそが、新しい社会の仕組みを創出させる唯一の方法なのである。

 ところで、デザイン理論界における「デザイン」のとらえ方においては、職能としてのデザイナーという現実から出発し、その職能内容の曖昧さからくる無原則な領域の拡大に従って、「広い意味でのデザイン」という概念が登場している。

 「広い意味でのデザイン」というとらえ方は、あたかも文明社会全体の形成を射程に入れるかのごとくに拡大され、「デザインとは、未来に向かってあるべき姿を構成すること」などと「再定義」されたりしているのである。

 この「再定義」では、「あるべき姿を構成する」主体が誰なのか一言も語られていない。もし政治的な権力を握ったヒトラーのような人物が、「われわれの社会の未来はこうあるべきだ」と主張し、それを社会全体の人々が「構成させられる」ことになったらどうなるか、まさにハイエク的「反計画主義」のターゲットにされそうな定義である。

 この問題については次回でさらに考察を行うことにしよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年8月29日 - 2010年9月4日 | トップページ | 2010年9月12日 - 2010年9月18日 »