« 2010年9月5日 - 2010年9月11日 | トップページ | 2010年9月19日 - 2010年9月25日 »

2010年9月12日 - 2010年9月18日

2010年9月18日 (土)

「就活」という労働力商品市場の姿から見えてくるもの

 今朝の朝日新聞に高校卒の求人倍率(就職希望者数に対する求人数の割合)が0.67倍で昨年度に比べ平均で7.6%も落ちているというニュースが出ている。地域差が激しく、東京では2.23倍であるのに対して最低の沖縄では0.12倍である。この地域差も問題であるが、最上位の東京においてさえ、ある家電量販店の90人枠の面接に200人もの希望者が来ているそうである。また沖縄県宮古島の実業高校では就職希望者70人のうち企業の面接を受けることができたのはわずか9人だったそうである。他の人たちは面接を受けることすら出来なかったのである。おそらく大学・大学院卒ではもう少し求人倍率は良いのだろうが、それでも0.8倍も行かないのではないだろうか?

 これらの数字や状況をどう解釈するかという問題もあるが、一方で高学歴社会である日本でも最近は、非正規雇用労働者の割合が急増しているという現実がある。しかし、おそらく高卒の人たちは何らかの理由(多くの場合、経済的理由であろう)で大学への進学を断念した人たちであろう。彼らが卒業した後に、社会人として活躍する場は、急速に閉ざされつつあるし、たとえ就職できたとしても不安定でいつ解雇されるか分からない状態で暮らしを立てていかねばならないのである。

 アメリカでも、2009年の生活困窮者(09年の貧困ライン基準は4人家族の世帯収入で約187万円以下、1人の場合は約93万円以下)が4360万人(この数値は半端ではない!)となり、史上最悪となった。生活貧困者の数は3年連続で増加し、人種別で見ると、白人が12.3%なのに対して、アフリカ系25.8%、ヒスパニック系25.3%となっている。これはアメリカではアフリカ系とヒスパニック系が貧しい労働者層を占めていることを物語っている。アメリカでの貧困ラインをそのまま日本に適用することは適切ではないだろうが、日本でもこれから確実に貧困率が高まっていくだろう。

 一方で最近テレビなどでよく取り上げられるのが、若者の就職活動での奮闘ぶりである。企業の面接試験で好印象を与えるために、面接の際の態度やしゃべり方、服装など細かいところを指導する大学や高校での就活対策は、見ていて、なんだか悲しくなってくるのは私ばかりではないだろう。たしかにいまの若者は礼儀作法をわきまえない人が多いのは事実であるが、礼儀作法よりももっと大切な、その人固有の人格やそれと一体となった人間的能力をむりやり企業が好む枠にはめ込もうとする指導は考えものである。しかし、大学などの就職担当者は、そうも言ってはいられないのだろう。就職率が下がればその大学もブランド価値が下がり、入学者が減り、経営が成り立たなくなるからである。

 就活という場は、自分を労働力商品として企業に買ってもらうための活動であり、いまの資本主義社会では、こうするしか、社会的に必要な労働を行うことも、それによって生活の糧をえることもできないのである。自分が持っている能力や人格を素直に出してそれがそのまま社会のために役立ち、それによって自分の生活ができるような社会は、「夢のまた夢」でしかない。若者たちが「焼け野が原志向」になるのも無理からぬことだと思う。しかし「焼け野が原」にする前に、その先のことを考えることが必要なのではないか?

 社会に必要な生活資料を生産するさまざまな社会的分業種とそれぞれの分業種において生産を実施している生産単位(企業)が、それらの活動を「資本」のメカニズムにしたがって実行しなければならないという社会が資本主義社会である。そこでは資本が経済社会の主役であって、世の中のために働く人間たちはいわばその「しもべ」である。企業の経営者は、個人的にはどんなに「いい人」であっても、資本の論理に従って企業を運営せざるを得ないのであって、その意味では資本の機能を担う人格にならざるを得ない。そしてそこに雇用される人々は、実は、企業の経営者(機能資本家)に、雇用という形で、自分の労働力を賃金と引き替えに売り渡したことになるのである。好むと好まざるに関わらず、こうした形で機能資本家と賃労働者の関係が結ばれ、そこからすべての社会的に必要な生産物の生産や社会的に必要なサービスが始められるのである。

 その中で、労働者が受け取るのは、基本的にその生活を維持するために必要なだけの(最近ではこれにも満たない賃金が多い)貨幣であって、労働者がその労働において実際に生み出す価値はその賃金より遙かに大きな価値である。しかし、その実際に労働で生み出される価値と労働賃金との差である剰余価値は、その一部が政府機関による税として徴収され、社会保障や公共的資金として用いられているが、それ以外のすべては資本を太らせることに用いられ、世界中のあり余った(社会に還元されていないという意味で過剰な)過剰資本は、すべての産業資本家の上位にあってこれを実質的に支配している金融資本家(トレーダーや株主も含む)たちがこれを獲得しようと激しい争奪戦を繰り広げているのである。こういう人たちの多くは巨額の他人のお金を右から左に動かして、その利子や利ざやで富を築きながら、リゾートに大きな別荘を持って、ヨットで外洋セーリングを楽しんだり、美術品オークションで目の玉が飛び出るような値段で絵画や彫刻を買っていく人たちなのである(もちろん彼らの生き方がそうであるように、こういうお金の使い方そのものも健全ではない)。

 要するに世の中で働く人々は、自分たちが労働において生み出した価値(富)の大半を「資本」として吸い上げられることによって、逆にそれに支配される立場として「賃金奴隷」になっているのである。この事実を知ることがまずは大切であろう。そのために、世の中を「焼け野が原」にする前にもう一度、この事実を完膚なきまでに暴き出したマルクスの「資本論」を真剣に読んでみることをお勧めする。19世紀に西ヨーロッパを支配した資本という怪物は、相貌こそいくらか変わったとはいえ、いまや全世界を(グローバルに)支配していることが理解できると思う。

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年9月17日 (金)

「大きな官か小さな官か」の問題か?

 今朝の朝日新聞「記者有論」欄に「経済大国・中国 大きな「官」のおかげなのか」という記事が出ていた。このところ日本を抜いて世界第二位の経済大国になった中国では、政府が民意を大事にしているというポーズを採りながら、政治的に都合の悪いところは、共産党と政府官僚が押さえ込み、経済的に不利なことが起きれば、目立たぬようにそれを規制し、経済を上から管理・指導する「大きな官」体制に、日本政府などは注目しているが、実は中国国内の企業では自由な市場の促進を希望する経営者も多く、自由な市場活動、つまり行き過ぎた「官」主導を望まない企業活動が中国経済を成長させているということに注目すべきだという内容であった。

 大きい政府による経済活動の指導規制強化か、自由な市場に委ねるべきかという問題の設定は、アメリカなどでのケインズ型資本主義かハイエクに代表されるような、非規制管理の自由市場主導型資本主義かというパターンと同じである。

 実はこの問題設定のパターンこそが問題を深く捉えることを阻んでいる。そこには「官」対「民」という図式があり、その内実が見えていない(あるいは覆い隠されているというべきかもしれない)のである。前にも書いたが「民」の内実は一方に資本家があり、他方に労働者があるという対立のモメントが内在しているし、「官」には、その政府が「民」の何を代表した政府なのかという問題が内在しているのである。

 中国という国を、アメリカや日本のような資本主義国を見るのと同じ視点で捉えることは出来ない。なぜなら中国は、毛沢東指導のもとで「社会主義革命」を成功させたが、その後、大躍進運動や文化大革命における大失敗への反省の中から鄧小平指導の、市場経済導入型「社会主義」を基板として発展してきた国である。これを、「国家資本主義体制」などとして捉え、「大きな政府」のケインズ型資本主義経済体制と同列に扱うようでは問題の本質はどこかに吹っ飛んでしまうのだ。

 中国では、「社会主義体制」という名目のもとで、労働者・農民の代表であり、それらの階級の指導部である共産党が恒久的な独裁体制を持っており、その党が指導する政府が国家機構を動かしている。しかし、こういう体制での上意下達的経済政策が失敗を重ねてきた結果、資本主義的市場経済のメカニズムを導入することで、経済体制を立て直そうとしてきたわけである。その結果、国内的には党・政府の指導の下で市場経済のメカニズムを使って資本家と労働者の関係を容認し育成したが、対外的には国際市場に進出し外貨を稼ぐために、国際的な資本主義経済の市場に他の資本主義国と同じ土俵で参入することになったのである。

 だから中国の場合は、国内的な資本家対労働者の対立関係が、屈折した形を取り、その矛先が党・政府に向けられそうになると、「チベット問題」などのように力によってねじ伏せるか、日本企業でのスト問題や尖閣諸島問題のように愛国心や民族意識を利用して不満を国内から国外へと逸らそうとするのである。その一方で党・政府は国内の資本家を育てようとしているのである。

 一方アメリカではかつて1930年代の大恐慌で行き詰まった資本主義経済体制をケインズ型の国家主導での消費拡大型資本主義経済体制に切り替えることで、労働者階級をいわゆる「中間層」として変質させることに成功したのである。それ以後、アメリカ社会の中核になった「中間層」は、資本家と賃労働者の対立関係を表面的には覆い隠す機能を発揮してきたので、その後のケインズ型資本主義の行き詰まりに対して、むしろケインズ以前の市場主導型経済体制(国家の規制をなくして「小さな政府」を目指す)に復帰しようとする資本家の思想が共和党を支持する労働者たちにも受け入れられてきたと考えられる。

 しかしこの「小さな政府」型資本主義が失敗するのは時間の問題だった。それはすでに1930 年代に経験した資本主義経済体制の矛盾を本質的に克服していないため、ふたたび、しかもより深刻な状況において繰り返すことになったからだ。どのみち資本主義経済体制は、市場に任せておけばすべてうまくいく、という素朴な資本家の理想がまったくの幻想にすぎないことは(リーマンショックなどの)事実によって証明されてしまったのである。

 したがって、いま問題なのは、中国の労働者階級もアメリカの労働者階級も日本の労働者階級も、ともに、自分たちが日々働いてその成果を直接自分たちの生活を豊かにするために用いることができるはずなのに、なぜそれが出来ず、本来の意味で(ものを消費することだけではなく)豊かな人生を送ることができないのかを考え、その矛盾の深奥にある本当の問題を暴き出すことの必要性に気付くべきであろう。

 中国では豊になるのは一部の資本家や党・政府官僚たちか、その縁者たちであり、大多数の労働者や農民は豊になれない。むしろ彼らの生活水準の低さを利用して海外からの富を獲得して豊になっているのは、社会主義体制が否定していたはずの資本家や「労働者・農民の代表」であったはずの党・官僚たちであるという事実を労働者階級が知るべきであろう。そしてアメリカや日本の労働者階級は中国の労働者の低賃金労働という犠牲のもとに、安い生活資料を得ることが出来、しかもそれが一方で資本家により賃金を抑制したり、安い労働力を求めて国内の生産拠点を撤退させ、雇用を控えさせる原因を作らせたりしているという事実を知るべきであろう。

 そこには「大きな官か小さな官か」という問題設定では決して見えてこない問題の本質があるのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月16日 (木)

再びラトゥーシュの「脱成長社会」についての疑問

 最近私のブログで、ラトゥーシュのことについて書いたページへのアクセスが多いので、ちょっとそれについての私の考えを述べることにする。

 書店で「経済成長なき社会発展は可能か?」という彼の本を見て、買おうかと思ったが意外と値段が高く、年金生活者である私は躊躇せざるを得なかった。そこで書店には悪いが、ちょっと立ち読みをしてパラパラとページをめくってみた。たしかに彼の考えている「経済成長なき社会」は、ある意味で美しいイメージなのだが、それがどのような経済的仕組みで成り立つのかについて、経済学的な分析や構想が述べられているわけではでないようだ。少なくとも言えることは、資本主義経済システムを土台とした社会では、ラトゥーシュ的「脱成長社会」は不可能であることは確かである。

 というのは「経済成長」という言葉で表されるものは、「資本の成長」であって、働く人々の生活や人間としての成長ではないからである。グローバルな市場で、国際競争を繰り広げ、競争企業を打ち負かせながらシェアを拡大し、「勝ち組」になったと思ったらあっというまに新手の競争相手に打ち負かされる、というバトルを繰り返しているのは「資本」であって、生きた労働を日々資本に捧げている労働者ではない。労働者はその資本のバトルの中で、自分の生きていることの証しである労働力を資本家企業の勝利のために捧げつくし、自分が「資本の競争力」の実体となる。それが出来なくなれば、企業から体よく放逐され、やがて行方不明の高齢者として住民票にのみ名を残しながら家族にわずかな「不法」年金収入を提供しつつ消滅していくあわれな存在なのだ。資本家企業は、事情が許せばいくらでもあとから新しい生きた労働力を獲得できるから、一人一人の労働者の人生などにかまってはいられない。こうして資本は「成長」し、労働者はその生命力を吸い取られ「消滅」する。

 そう、たしかに「経済成長」があれば雇用が促進されるだろう、しかし雇用される労働者は「労働力」としてその生命力をすい散られるだけであり、彼の人生は何も成長しない。経済成長が滞れば、新規雇用は見送られ、すでに雇用されていた労働者は放出され、失業者となって生活保護を受けるか「消滅」せざるを得なくなる。政府は生活保護や社会保障が急務になると国家財政が厳しくなるので、雇用の促進と企業からの税収増加を期待して大規模な財政支援を資本家企業に対して行う。しかしその結果、太るのは資本であって、労働者はますますその生命力を過酷に資本によって吸い取られるしかないのだ。消費税などで労働者は重税に苦しみ、その徴税された税金の行く先は企業への政府の大規模財政支援となって、資本をどんどん太らせることになる。

 では、資本家企業がお互いに競争をやめて、「成長」をあきらめ、現状維持でなんとかやっていくようになるのか?そんなことは不可能である。なぜなら、利潤を増やすことができなくなった資本は過剰資本として資本そのものを圧迫し、その存在を脅かすことになるのだから。その状態で、労働者は、社会が求める生活必需品を作り出そうにも、それに必要な生産手段を資本が私的に所有しているのだからどうにもならない。資本主義的私有が崩壊するか、労働者が飢え死して社会が崩壊するかどちらかであろう。

 労働者は未来永劫「清く貧しい」生活に甘んじ、貧しいけれども「幸せな」生活を送るのか?そんなことはあり得ない。それは数百年の間、現在に至るまでに収奪され続けたあらゆる過去の労働の集積として、今日まであらゆる生産手段を含む巨万の富を資本家に提供し続け、自ら生み出した富をを資本家という他者の所有物として築くために生命力を捧げ尽くしてきた、のべ数百億もの労働者の人生を、あまりにも蔑視した考え方であり、歴史観である。われわれの目の前にある数千兆ドルもの地球上の富は、一握りの資本家が私的に所有しており、それを巡って資本家同士の争奪戦を生み出しているが、それは本来、全世界の労働者階級に取り戻されねばならない富なのだ。

 人類社会全体が、本当に成長できるためには、地球上のあらゆる場所で、社会全体が必要とする富を生み出している個々の労働者が「労働者階級」としてたがいに結びつき、生産手段を自らの手にとりもどし、直接その社会のあり方や成り行きを制御していけるような経済の仕組みを持たない限り、社会全体の成長がその構成員である一人一人の労働者の人生における成長の合体されたものになることは決してできない。そして資本主義社会の基本的経済システムを前提にするのであれば、それは絶対に不可能である。これは確信を持って言えることである。

 そのことをラトゥーシュはいったいどう考えているのだろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年9月5日 - 2010年9月11日 | トップページ | 2010年9月19日 - 2010年9月25日 »