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2010年9月19日 - 2010年9月25日

2010年9月24日 (金)

グローバル資本主義体制の「成長」を牽引する中国政府の強圧的態度

 尖閣諸島問題で中国政府が日本に様々な形で圧力をかけてきているのは周知の通りである。これに対して日の丸を掲げて民族主義愛国主義丸出しで反中国を叫んでみても始まらない。それでは中国政府と同水準の馬鹿げた行為になるからだ。

 中国は沖縄がアメリカから日本に返還された当時は、尖閣諸島のことには無関心だったが、周辺の海底油田などの資源の存在が明るみに出ると、一変して尖閣諸島の領有を主張するようになった。毛沢東路線で経済が破綻した中国が鄧小平路線に切り替え、資本主義的市場経済の導入で復活し、資本主義国際市場で急成長を遂げ始めるとともに、天然資源の囲い込みを目論むようになったのである。そして21世紀になって、アメリカや日本の資本主義社会の「成長」が怪しくなり、不動産バブルや金融恐慌などの資本主義経済体制の末期的症状が明らかになってくると、その労働力の安さを武器にして「世界の工場」となった中国が、外資を導入して安い生活資料商品を量産し、アメリカや日本に輸出することで国内の資本家を育成し、資本主義国際市場での競争力を強化してきた。そしていまや一大消費国に変貌を遂げ、国際資本主義経済体制を牽引する立場になったのである。今回の尖閣諸島での事件を巡る中国政府の居丈高な態度はそうした背景の元で起きた事態である。

 しかし、一方で、今朝の朝日新聞に出ていたように、労働者が政府や党のやりかたに反対を唱えると、警察が裁判もなしに、逮捕し、「労働教養所」という強制労働機関に送られ、何年もそこで人権を無視した強制労働を行わさせられる制度があるのである。

 海岸部の大都市周辺では、巨万の富を獲得した中国の資本家やその分け前に預かった中産階級的富裕層がリッチな生活を営み始めたが、奥地の辺境では農民が貧しい生活を強いられ、そこから仕事を求めてあふれ出してくる労働者を低賃金で雇用して働かしている企業が数多く存在している。下層労働者や農民たちは政府や党のやりかたに反対をすればたちまち「労働教養所」送りになるので、だまって不条理な生活に耐えるか、党・政府が行ってきた反日愛国主義教育に感情移入して、尖閣諸島問題で反日デモを繰り出し日本の国旗を燃やしたりすることで鬱憤を晴らすしかないのだ。

 革命当時は、労働者・農民を代表する党と政府であったはずなのに、いまは資本家による労働者の労働搾取を認めむしろそれを促進し、それに反抗しようとする労働者農民を圧政で押さえつけたり、愛国民族主義教育の成果を利用してその不満を領土問題に転化しようとしているのだ。

 そして中国の富裕層はそうした下層労働者や農民の労働を搾取することでリッチになっているのである。そういう人たちが日本に観光ツアーや買い物ツアーにやってきたり、日本の不動産を漁りにやってくるのだ。

 小さな島の帰属を巡って、両国の政府高官が「国のメンツ」をかけて外交交渉の席を蹴ったり、粛々と国内法で処理したりしている限りは我々にはあまり関係のないことであるが、もともとそんな馬鹿馬鹿しいもめごとに関わりのない両国の労働者や民間人の交流や生活にまでこの問題を進入させてくる中国政府のやり方には実に腹が立つ。

 ここで見極めなければいけないのは、「反日」や「反中国」という形で問題を十把一絡げにするのではなく、中国の中で搾取と圧政に苦しむ労働者・農民は、グローバル巨大資本の搾取のもとで苦しむ日本の労働者階級と国境を越えて同じ地平に立っているということである。本来あるべき労働者階級のインターナショナリズムに立ち返って問題を見直さなければその本質は見えてこないのである。社会主義本来のヒューマニズムとインターナショナリズムからまったく逸脱してしまった中国政府の「覇権主義的」振る舞いは、国内での労働者階級への搾取と圧政の表側の顔である。皮肉にもかつて中国を侵略した日本の国家主義的思想の指導者たちと酷似した姿勢である。

 

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2010年9月23日 (木)

自由な競争が安くて良い商品を育てるという神話

 このところ厳しい暑さが戻り、少々疲れが出てしまったが、ようやく少し気温が下がり再び頭脳労働が出来るようになってきた。

 ところで資本主義経済の社会では、自由な市場での自由な競争が安くて良い商品を育てるという定説がある。では次のような事実をどう受け止めるのか?

(1)「○○焼きそばと××焼きそばグルメ対決!」これは食品メーカーの広告ではない、私の住んでいる町の郵便局に掲げられているポスターである。つまり地方特産の焼きそばをゆうパックで送るというサービスの宣伝なのである。郵便局が焼きそばの広告を出しているのだ。

(2)私が長年非常勤講師として働いていたある高専での最後の授業で、私は学生に対して「君の使っている携帯電話のすべての機能を挙げて、その中からいつも使っている機能を5種類までランク付けして挙げてください」という内容のアンケートを行った。その結果は人によってばらつきはあったが、平均35種類の機能が挙げられ、集計結果から、いつもよく使う機能は、1位電話、2位メール、3位電話帳、4位アラーム、5位メモ、という結果が出た。1位〜3位は「携帯電話」である以上当然の機能というべきであろう。それ以外の機能は人により様々で、ばらつきが大きかったが、データフォルダ、インターネット、電子辞書、カメラなどが5位以下では複数の人に使われている機能だった。つまり35種類もある機能はその3/4がほとんど使われていないことになる。しかし携帯電話を買うときにはずらりと店頭に並んだ多くの商品を比較して、「この機種が機能が多いのでこれにしよう」と考える顧客が多いということだろう。要するに使うための機能ではなく買わせるための多機能なのである。その機能を実現させるために膨大な労働力(設計・デザインを含めて)とエネルギーや資源がそこに注がれている。

 これはほんの一例に過ぎないが、このたぐいの例はいくらでも挙げられる。つまり、商品本来の(本当に必要な)機能での競争ではなく、いわば二次的で付録的な機能での競争がもっとも熾烈な市場競争の焦点なのである。その一方で、郵便事業のより公共的な面での利便性が犠牲になったり、携帯電話本来の使いやすさ(例えば高齢者向けの分かりやすいインターフェースや必要な機能のみに絞られた安い電話機など)への取り組みがおろそかになっている。

 それはなぜか?商品本来の機能を磨き上げることでは、それに要する時間や投資額に見合った利益が得られず、市場での熾烈な競争に負けてしまうからだ。手っ取り早く顧客の欲望をかき立て、とにかく「買わせてしまう」ことが競争に勝つための必須の要件なのだ。そのためには必要以上の「欲求」を生みだし、そこに「ビジネスチャンス」をひねり出すしかない。だから次から次へと、「無駄」と「無意味」が生み出されてくるのだ。デザイン労働者の能力はもっぱらこうした目的で用いられる。

 自由な競争は必然的に過当競争となり、そこから生み出されるのは競争相手を叩きつぶしてもかまわないという市場経済的論理と倫理であり、かぎりない無駄や無意味の生産で資源やエネルギーの無駄遣いを促進し、環境破壊を繰り返すしかなくなる。「自由な商品市場」の行き着くところは結局こういう過当競争の世界であり、それによる潰し合いである。

 しかし、現代の資本主義社会では、この膨大な「無駄」と「無意味」によって雇用が生まれ、経済が回っていく仕組みになっている。世の中の人々はこの「無駄」と「無意味」な消費をすることによって自分たちが「豊かな」生活をしていると勘違いしている(させられている)のである。

 ところで資本主義社会では人間の能力をも労働力商品として労働市場で売買されることはすでに述べたとおりであるが、資本家同士の競争によりいわゆる「合理化」(人減らし)が進むにつれて、資本構成の高度化(労働力としての可変資本に対する生産手段などの不変資本の割合が大きくなる)によって少ない労働者が多くの生産物を生産するようになると、雇用労働者数が減り資本が搾り取れる剰余価値量が企業全体としては減るので、必然的に事業を拡張し、労働者数を増やさなければやっていけなくなる。しかし、今日のような段階(社会的に必要な商品生産量が飽和状態になり労働力が過剰になる)では、それも壁にぶつかり、「合理化」によりクビを切られる労働者数の割合と事業拡張の割合とのバランスが保てなくなってきたのだ。つまり合理化によって利益増加を維持している資本側は、労働市場に「労働力商品予備軍」があふれているのに、それを積極的に買おうとはしなくなっている。だから企業が景気を回復しても雇用は一向に増えないという状態になるのだ。このような状況においては、労働力商品同士の競争が激しくなり、自分の持つ本来の固有の能力ではなく、資本側に媚びて自分をねじ曲げてでも労働力を売りに出さざるを得なくなる。労働力商品市場での過当競争である。これは労働者同士での足の引っ張り合いや潰し合いという、冷たい人間関係の世の中を生む。

 その結果、一方で労働基準法の換骨奪胎による低賃金労働の日常化と、「合理化」による人手不足にも拘わらず労働者を雇用しないことによる既雇用労働者の長時間労働や労働過重の日常化(巷に失業者があふれているにも拘わらず)、そしていつでもクビに出来る非正規雇用労働者の急増、他方で、水ぶくれ的に種類の多くなった商品の質の低下とそれらへの購買による「貧者への浪費の押しつけ」などなどである。

 これが「自由な競争」を謳歌する資本主義社会の実像であり行き着く姿である。

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