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2010年9月26日 - 2010年10月2日

2010年9月30日 (木)

「社会をデザインする方法論」という空想(続)

 前回の続きである。この「社会をデザインする方法論について」という認知科学会研究発表会でのワークショップのプロシーディングスでは、デザインを「サービス」という言葉と関連づけようとしているのが特徴的である。例えば、ある論者は「サービスのネットワークとしての社会のデザイン」というタイトルで次のように書いている「さまざまな議論を俯瞰してみると、サービスの定義としては「価値を生む社会的相互作用」あたりが適切だろう。すると、社会とはサービスのネットワークであり、社会のデザインはサービスのデザインに帰着される。社会的価値を高めるには、本来は価値基準を異にするステークホルダー同士がサービスの価値と評価と関連情報を共有して協調する必要があり、サービスのデザインの本質は、そのような価値と情報の共有およびそれに基づく共同行為のデザインに尽きる」とし、実際にはこれが成立していないことがしばしばあるのが問題だとしている。

 そもそもここでいう「価値」が個人の価値観なのか経済的カテゴリーとしての「価値」なのかを明確に区別していないところが大きな問題であり、そこから、個人的価値観に依拠した「価値以上の価格」(価値と価格とは同じではない)で収益を上げようとする「付加価値」という考え方が登場するのであるが、これについてはすでにこのブログでも何回か取り上げたのでここでは省略する。

 またもう一人の論者は「サービス社会のデザインにおける多様性の役割」というタイトルで、サービスには「サービス産業」と「使用」という二つの意味があり、社会のデザインには後者が重要であると述べている。その上で「モノの流れだけでなく、認知のプロセスも循環型となることに注目する必要がある。循環系になると、いわゆる目的指向的な問題解決の枠組みが適用できない。循環系のどこにも目的を固定できないからである」と述べ、「循環系社会ではそのループに多様性をもたせることがシステムの安定性や省資源化に効果がある」ので、「サービスを指向する社会のデザインでは、「多様性」が一つのキーワードになる」としている。

 「サービス工学」はもともとは、第三次産業が雇用の比率を急速に高めつつある我が国で(このこと自体、大きな問題なのであるが)、産業界の主導でサービス自体をソフトウエアも含めたかたちで「付加価値」という視点から捉え直そうとしたものであるが、それを最初の論者のように「社会とはサービスのネットワークである」というところまで拡張してしまうと、社会が成立するために必須の基盤であるモノの生産と消費の仕組みとその現実がまったく見えなくなる。

 毎日、冷蔵庫生産ラインで単純作業をしている労働者や、建築現場で炎天下に、コンクリートの打ち込みを行っている労働者や、田んぼで汗を流して草むしりに励む農民は「サービス」を行っているのか?彼らは生活に必須のモノを生産しているにも拘わらず、少なくともいまの社会では事実上、社会をデザインする立場からは除外されている。「社会のデザインはサービスのデザインに帰着される」のであれば、過酷な労働の中で生活必需品を日々生み出している人々はそれを「サービス」としてやっているのだろうか?、もしそうでないとすれば「社会のデザイン」の対象にすらならないのか?

 サービスとはいったい誰が誰に対してサービスするのか?そしてそのサービスをいったい誰が誰のために「デザイン」するのか?「社会的価値を高めるには、本来は価値基準を異にするステークホルダー同士がサービスの価値と評価と関連情報を共有して協調する必要がある」というときの「ステークホルダー」には企業の経営者は含まれるが、そこで働く従業員は現実には「ステークホルダー」から除外されているといえるだろう。

 後の方の論者についていえば、「循環系」が具体的に何を指すのかこの記述からだけでは判断しかねるが、社会的に必要なモノが生産され、流通機構を通じて分配され、諸個人によって消費され、それによってモノを生産するに必要な労働力が再生産されるという形での社会的循環の構造が資本主義社会では、商品ー貨幣ー労働ー商品’という形で循環していることは事実である。だから社会システムはつねに循環系なのだが、「そのループに多様性をもたせることがシステムの安定性や省資源化に効果がある」というのは、見当違いであろう。もともと社会の循環系は多様であることが本質である。社会に不安定性や資源の無駄遣いが生じるのは、循環系のループが多様性に欠けるからではなく、むしろその循環系のループを形成している社会システムの推進実体の問題であり、現実に社会に必要なモノを日々生産している人々と、その成果を握って社会システムの循環系を支配し推進している人たちとの関係に内在する決定的な矛盾をあたかも当然のこととして前提にしているからだといえる。

 「社会をデザインする」まえに、社会がいま、いったいどうなっているのかを知ることこそ先決であろう。

 

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「社会をデザインする方法論」という空想

 日本認知科学会の研究発表大会で、「社会をデザインする方法論について」のワークショップがあったようである。この学会は私も少し前まで常任運営委員だったので、内情はよく知っているが、様々な領域から認知科学的領域という接点によって研究者が集まっているユニークな学会である。しかしこのようなワークショップがなぜ日本デザイン学会ではなく認知科学会で持たれたのか、奇異な感じを持ったのは私だけではないだろう。

 1980年代の末から認知科学会に「デザイン」の領域から参加していた私にとっては、デザイン行為そのものは「認知」ではなく「実践」であると承知しており、そのデザイン的実践の中の認知に関わる問題をこの学会で議論してきたつもりである。しかしデザインの学としての問題や方法論の問題は、すでに長いことその問題が議論され続けてきたデザイン学会での議論を優先し、それを無視すべきではないと思っている。

 このグループは昨年の暮れに、同じ学会の冬のシンポジウムで「デザインの学と術」というシンポジウムを行っている。私はこれは聞きに行ったのでどのような成り行きになったか承知しているが、まったくデザイン労働の現場とデザイン教育の現場を正視しようとしない人たちの机上の空論であったと記憶している。

 今回の研究発表大会には私は行かなかったので、この「社会をデザインする方法論について」のワークショップがどのように進行したかはしらない。しかし、この研究発表大会のプロシーディングス(http://www.jcss.gr.jp/meetings/JCSS2010/pdf/JCSS2010_W1.pdf)を見る限り、なんとも現実感覚に乏しい内容であることが窺い知れる。

 プロシーディングスでは次のように書かれている「「社会のデザイン」や「サービスのデザイン」においては直接制御可能なモノゴトとそのようなモノゴトの環境(ユーザ、社会など)とのインタラクションを考慮することが重要である。考慮の空間的スパンにはモノゴトの近傍(例えば、ユーザインターフェースにおける使用者個人)から社会全体(例えば、二酸化炭素排出量の制御における世界全体)にわたるさまざまな大きさのレベルがある。時間的スパンについても短期的スパンの改良を重ねるモノゴト(例えば、現代のデジタル・デバイスや自動車)から長期的スパンを視野に入れるモノゴト(例えば、社会制度の設計や都市計画)などさまざまなレベルがある。考慮する空間的スパンや時間的スパンが大きくなればなるほど、デザイナが直接制御できる部分の割合は小さくなり、それ以外の部分は直接制御できる部分と環境とのインタラクションに期待することになる」

 ここでは、暗に、デザイナという「職能」が果たせる役割の範囲を(「直接制御可能な」という記述で)問題としながら、しかし「デザイン」の対象はそれを越えた「社会制度」や「サービス」であると(「部分と環境とのインタラクション」という記述で)捉えていることが分かる。しかもそのモノゴトの「環境」とは「ユーザや社会」のことを言っているようである。

 ここでは、まず第一に、職能としてのデザイナの労働内容およびその対象と、それを一つの特殊な個別的形態として位置づけるデザイン的行為一般との区別が成されていない。そして第二に、職能としてのデザイナの労働内容および対象と、デザイン的行為一般との間の関係を、単なるスケールの問題として捉え、この間の関係を「インタラクションに期待する」として曖昧にしている。

 だれでも気づくように、デザイナはその職能によって、社会全体をデザインすることなどできはしない。これはかつて1960年代に、「デザイナ=文明の形成者」という捉え方があって、それが後に馬鹿げた幻想でしかなかったと反省された事実を無視し、同じ誤りを繰り返している。現実のデザイナ(これ自体、工業デザイナ、建築デザイナ、グラフィックデザイナ、インテリアデザイナなどなど様々な形態が存在し、それぞれ大きく労働内容が異なる)の個別労働現場で行われているデザイン労働の実際の内容と、すべての人間の労働一般に含まれている「デザイン行為的側面」とは同列に扱われるべきではない。前者をすべて捨象していきなり後者の問題として(悪しき抽象)議論を進めることは完全に間違いであり危険なことですらある。

 現実に「社会のデザイン」を行いうる人間がいるとすれば、それは「○○デザイナ」ではなく、政治家か、それを下支えしている経済的実権を持つ人々である。デザイナとそれらの支配的立場にいる人々の間には立場上大きな溝(正確には対立関係)が存在しているにも拘わらず、それを見えなくさせているのが、いわゆる「社会通念」と呼ばれる現社会の支配的イデオロギーである。そのイデオロギーは現実社会で支配的実権を握っている人々の考え方を代表するイデオロギーであり、例えばデザイナという現代社会特有の労働形態の本質が何であるのか、という問題や、なぜデザイナがいくら「社会のデザイン」を力説してみてもそれが現実のものになり得ないのか、そして「消費者」とか「ユーザ」として十把一絡げにされている人々が現実にはどのような人々であり、日々どのような生活を営んでいるのかという事実を覆い隠し、それを見えなくしているのである。

 虚偽のイデオロギーのおかしさに気づき、真実に深くメスを入れることなくして「社会をデザインする方法」など論じてみても、これはまったく「空想的な幻想」に過ぎないし、むしろ事実を隠蔽する虚偽のイデオロギーを尻押ししていることになると言わざるを得ない。真の研究者はこうした真実を正視し、そうした問題に誠実に取り組むことが最小限必要であると言えるのではないだろうか?

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2010年9月27日 (月)

資本論を「科学としての経済学」に純化しようとした宇野経済学最大の欠陥

 このブログでしばしば宇野弘蔵とその学派によるマルクス経済学への取り組みに触れてきたが、これまで私自身の宇野経済学に対する立場を必ずしも明確にしてこなかった。そこで、今回は私自身が感じている宇野経済学がかかえる最大の欠陥について述べることにする。

 私自身が、マルクスの資本論を理解するために、宇野の「経済原論」や「価値論」から多くのものを学んできたことは事実である。しかし、宇野学派のアプローチの仕方が見えてくると共にその欠陥もまた見えてきたのである。それがもっとも顕著に表れているのが、次のような、科学とイデオロギーに対する考え方である。

 宇野は「資本論の経済学」(岩波新書)で唯物史観と経済学の関係について次のように述べている。「両者を同時に、いいかえれば唯物史観を経済学の中で説くということはできないのです。逆に経済学を唯物史観によって説くこともできません。たしかにマルクス自身は唯物史観を経済学研究の「導きの糸」としたとはいっていますが、唯物史観自身はまた経済学研究の過程の内にえられたものであることも示唆しています」(p.89)「いいかえれば経済学は上部構造から内容的に既定されない原理を明らかにしえないかぎりは、上部構造に対するその決定的な、能動的な作用も明らかにしえないわけで私は、唯物史観を科学的に証明する第一歩は、ここにあったのではないかと思うのです」(p.91)

 こうして宇野は資本論を「科学としての経済学」をめざす経済原論として整備しなおし、それはあたかも永久にその法則性が貫徹されるかの様な経済システムのメカニズムを明らかにすることが目的とされなければならないとするのである。そして「原理論」が明らかにされることによって、はじめて、資本主義社会がどのような歴史的な経緯によって形成され、どのような方向に向かいつつあるのかを明らかにする「段階論」が展開されうるのであり、それに基づいた「現状分析」が可能になる、としている。

 こうした宇野の主張は、1950-60年代当時の「社会主義国」などによる「科学や芸術は社会主義のために奉仕すべきものである」という考え方に対するアンチテーゼあり、その意味では資本論を一層深く理解するうえでの実践性があったのであるが、その反面次のような問題が浮かび上がってきたのである。

 宇野は、一方で、経済学のような社会科学は、それ自体が歴史的に形成されてきた対象を扱うために、イデオロギーと科学的立場を明確に分離しなければならないと主張したのち、自然科学はそれとは違うとして、次のように言う「技術的に利用される自然科学的知識は...、いわば機械的に全体から切り取られた部分で実践的に利用されるわけで、それが社会的にどういう影響があるかは問題にせられないできていたといってよい。原子力が戦争に使われてはじめて驚いた自然科学者は、もともと自分の科学的役割を知らなかったといわれても仕方ないでしょう。それは平和的にも使われれば、戦争にも役立つのです。資本主義にも社会主義にも使われるのです」(p.176)こうして宇野は科学の中立性を主張する。

 宇野も述べているように、イデオロギーは科学ではなく、つねに不確実であいまいな要素を内包しているが、(政治的な)実践には不可欠なものである。しかも日常性や社会通念という意識の内に現れる現社会のイデオロギー(多くの人たちはこれを普遍的なものと思わされている)が、歴史的に形成された「上部構造」の一部であり、これを打ち破らないかぎり変革や政治的実践に必要なイデオロギーが得られないことは確かである。そしてその虚偽性を明らかにするのが科学の役割であるともいえる。しかし、それをなし得るはずの科学は果たしてどうやって歴史的に登場したのか?

 歴史的に形成されてきた社会が、それ自身の内部からその社会自身を批判し、その矛盾を明らかにしうる主体を生み出してきたという事実から見れば、イデオロギーも科学もそのような歴史性をもった存在であり、科学だけが「中立」であるはずはないのである。科学も技術も資本主義社会のイデオロギーの中で育て上げられ、体系化されたのである。しかもその担い手である科学者や技術者は資本主義社会の中での一つの職業として、言い換えれば一つの分業種としての地位を与えられてきたのであって本来中立的ではありえない。しかし、それはまた同時に、資本主義イデオロギーを否定する主体(労働者階級)の登場により、それを越えた普遍性を持ちうるものとして再把握され、再構成される可能性を持っているといえるのである。

 核兵器を開発した科学者や技術者は、それが最初から戦争で大量殺戮に用いられることは承知していたはずである。彼らは完全に資本主義イデオロギーの中で育て上げられた人たちなのであり、その社会における「持ち場」に忠実であったはずであるのだから。むしろ、それが実際に大量殺戮に用いられ、悲惨な事態を招いたという事実による結果におそれを感じ、そこではじめて自らの存在の矛盾に気づいたと見るべきであろう。

 宇野は、イデオロギーから離れ、資本論を原理論として科学的に「純化」することによって、資本主義経済のメカニズムを明確にさせようとしたのであるが、その一方で、資本論がもっている、本来的目的でありモチベーションであるところの、労働者階級(資本主義社会が生みだし、それ自体を否定する主体)解放への実践のための理論的武器としての機能がどこかに吹っ飛んでしまったようである。だから宇野派がいかに原理論を整備し、段階論を論じ、現状分析(実践的な立場や実体がなければ本来の意味での現状分析はできないはず)をしてみても、世の中はまったく変わらず、事態は悪くなる一方である。これでは命がけで、その生涯をかけて労働者階級の解放のために資本論を書いたマルクスも浮かばれまい。宇野学派の先生たちは、学者としての地位よりも大切なことがあることに気づき頭を切り換えて欲しい。マルクスがそうであったように!

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