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2010年10月3日 - 2010年10月9日

2010年10月 6日 (水)

「市民感覚」という危うさ

 民主党の小沢氏が再び起訴となったことで検察審査会の存在が脚光を浴び、「市民感覚」の正しさが強調されているようだが、たしかに上意下達的官僚主義に比べて格段の進歩であることには違いないが、そこに大きな問題が潜んでいることを忘れるべきではない。「市民感覚」は無責任なマスコミによって煽動されるのが常だからである。

 私は小沢氏の肩を持つつもりはまったくないが、例えば、先日の尖閣諸島問題においても商業マスコミの反応はひどいものであった。日中の経済関係などを考慮した菅内閣の対応に「売国内閣」とか「土下座外交」という罵声を浴びせかた週刊文春などはその最悪の例であろう。そのほかの週刊誌も同様に、日本人の民族意識を刺激し、国威を高揚しようとする見出しにあふれていた。これによって多くの「市民」は、中国という「国全体」に対して急速に悪感情を持つ人たちが増え、日本は国家としてもっと強くなるべべきだという言論に流れたようであり、菅内閣への支持率が一気に落ちたという。

 しかし週刊文春を初めとした週刊誌などのマスコミは「売国奴」とか「土下座外交」などという右翼そこのけの用語を使って、現内閣を罵倒することでどういう事態が起きるか考えているのだろうか?確かに中国の尖閣諸島領有主張は間違っているし、不法なことであるが、それをただただ民族意識や国家意識の高揚に訴えるほど危険なことはない。この反応がエスカレートしていく先は、かつての「愛国精神」や「強い日本の誇示」に繋がり、いまの中国での悪しき愛国教育と同じ結果を生むことになる。そうなれば再び日中間での「国民感情」の悪化が急速に進み、戦争への危機が高まり最悪の事態になる。

 ここは冷静に構えなければいけないのである。私は菅さんのとった一連の態度は、状況判断としては正しかったと思う。マスコミは、ただただ刺激的な見出しを並べて、商業誌としての存在感を示そうとしているようだが、「市民」はそれに簡単に流される。まったくもって危険なことである。かつて戦時中に軍が主導して報道や教育をコントロールしたときに、当時の「市民」は見事にそれに煽動されて、戦争に突っ走ったではないか。週刊文春がいけないのは、さもさも「インテリ面」をした面々を抱えており、いかにも社会のオピニオン・リーダーであるかのように振る舞うことである。

 「市民」はもっと賢くならねばならない。かつて菅さんが正直にも消費税10%を口に出してしまったためにマスコミにたたかれて参院選で民主党が惨敗し、ねじれ国会という自体が生まれたのも、やはりこの「市民感覚」の危うさも結果であろう。同じ参院選で自民党も消費税率を上げることを考えていたのであるから、民主党から自民党に投票先を鞍替えした人は、いったい何を考えているのかと疑いたくなる。ことわっておくが私は民主党の全面的な支持者ではない。ただ、自民党の行ってきたことに比べれば、まだいくらかマシだと思っているので、もう少しお手並み拝見してから評価したいと思っているだけだ。

 一方アメリカでもオバマ政権のやっていることに不満をもって「ティーパーティー」と称する共和党寄りのグループが支持を高めている。医療保険の国民皆保険制に国家予算を使うことに反対する中間層が多いのには驚く。彼らは「自助努力」を看板とし、政府の関与が少ない方がよいと考えているようだ。しかし現に医者にもかかれない下層階級も人たちがどんどん増えているという自体に対して、ただ「自助努力が足りない」からと批判するのは間違っているであろう。アメリカの中間層を主体とする人々は、自分たちが安全圏にいるために、自己保全的になり、保守的な思想を持っている。悪くいえばエゴイストである。そしてそういう人たちの「市民感覚」を煽動している商業マスコミがあるのだ。それらの商業マスコミはそういう中間層を自らのドル箱として位置づけているのだから始末が悪い。

 どちらにしても、ひとくちに「市民」といってもその中には様々な階層があり、それらに応じた思想があるのだ。そして結局はその最下層にいつも矛盾のしわ寄せが集中するのだが、それに対して支配者はかれらに「国家意識」を植え付け、矛盾の矛先をそらそうとするのである。

 「中国」という国家として中国社会を十把一絡げにとらえるのではなく、その中国社会を構成しているさまざまな人々の実態を見るべきであろう。そこには、一方に高圧的な政府高官や党官僚たち、そしてその恩恵を受けて彼らを支持している資本家や中間層などの富裕階層がおり、他方でそれらの人々に支配されて日々の生活にも難渋している人たちが数億人もいるのだ。そういう下層の人たちは、悪しき愛国教育を受けていない限り個人としては日本人には直接には何の悪感情も持っていないだろう。愛国教育により「中国」という国家を背負わされたとき、そこに初めて「幻想共同体」としての「国家」という概念が個人の意識の中に植え付けられ、その「国家」が他国との領土権の争いや政治的対立を起こせば「国民感情」を煽り立てられ、挙げ句の果てには他国との戦争に駆り出されることにもなるのである。

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2010年10月 4日 (月)

「社会をデザインする方法」は試行錯誤しかない

 認知科学会でのワークショップ「社会をデザインする方法論について」に関して、その現実感のなさを批判したが、それに対して、自分の考え方を言わずに、人のケチつけばかりやっているという「反批判」が当然予想されるので、私の意見を言っておこう。

 結論から言うと「社会をデザインする方法」はボトムアップ的な試行錯誤しかないということである。何か良い方法あるいは方法論が見いだせるのなら、とっくに世界中の政治家がそれを使って、世界は平和で豊かな状態になっていたであろう。また神様のようにすべてをお見通しの御仁がいて社会のデザインをしたとしても、あるいはいかに完璧な社会のデザインが成されようとも、多数の異なる個人で形成されている社会は必ずそれを越えた事態を生み出す。なぜなら一人一人の個人そのものが全社会をその個人特有の実存において抱えているのだから。「社会」は諸個人の実存を離れて存在する外在物ではなく、全体であると共に個の世界でもあるのだから。つまり私は「私」という場所においてしか社会全体を認識できないのだから。

 どちらにしても「社会をデザインする方法論」を「デザイン学」の研究として行うことは無理であり、「悪しき空想」に過ぎないであろう。

 一般にデザインの方法とは、ある目標が生成され、その実現に向かって様々な方法や手段を案出しながら試行錯誤を繰り返して、「納得の行く形(状況依存的に)」でそれを実現させる全課程のことを指していると考えられる。肝心なのは最初にどのような背景のもとに「目標」が生成されるかであって、目標が生成された背景や理由を正しく理解できていなければならない。

 しかし、最初に生成された「目標」はいわば直感的なレベルであり、その内容は曖昧であり、抽象的である。ほとんどの場合最初の目標は簡単な言葉で表現されるか、イメージで表現される。そしてそれを実現させていく過程は、まず「仮の答え」を出してみて、それを評価あるいは吟味することで、目標自体を具体化していくのである。そこには必ず失敗がある。仮の答えの殆どが「失敗作」であり、失敗を「失敗」として認識することこそが目標を進化させるといってもよいであろう。ここで仮の答えを評価あるいは吟味するためにはそれを実現させるために必要な手段や方法が問題となる。手段や方法との関係において初めてその「仮の答え」が不適切であるか否かを判断できるようになるのである。

 こうして「目標」ー「仮解」ー「実現手段」ー「評価」ー「目標の再構成と具体化」、というサイクルを繰り返しながら、段階的に「解」が妥協しうるレベルに達したときにデザイン過程は終わるのである。この全過程は試行錯誤そのものである。

 いわゆる「デザイン方法論」は、この試行錯誤のらせんの中でのワンサイクルにおいて、目標に対していかに適切な手段を選択あるいは生成できるか、というフェーズにおいて適用される。しかし、これも結果が出なければ評価できないのであって、最初から完璧な答えを出すことなぞは絶対に不可能である。すべては「やってみなければ分からない」のである。そしてその「やってみる」ために、あらかじめ致命的な失敗を避けるべくデザイン方法論が適用されるのである。「正しい方法」が正しい結果を生むのではなく、正しい目標の生成が正しい結果を生むのである。<「正しい目標」ということは、その目標生成過程において、社会の構成員すべてが、目標生成の背景と意味を共有できていなければならず、そうでなければ「納得の行く形」での解に到達することはできないのであって、そのための時間をかけた議論が必須の条件である。「方法」は単にその過程をできるだけスムースにさせるためでしかない。>

 現代社会の職能としてのデザイナーは、まず最初の目標生成のところで、道を誤るのだが、<それがおかしいということが>現代社会での「支配的イデオロギー」に自分の実存をどっぷり浸からせてしまっている者には分からない。それはひとことで言ってしまえば、「売れる商品」を生み出すことがデザインの大目標になっているということである。そして生み出されるべき商品の使用価値は、それを売るための手段として位置づけられる。最近では使用価値は売るために後から人為的に(トップダウンで)作り出されることも多い。これがいわゆる「提案型デザイン商品」である。したがって、そのデザインは、まず「必要」があって、その必要なモノへの最適なデザインではなく、売れるための最適なデザインが大目標としてあり、その手段として新たな使用価値がねつ造される(こんなモノがあってもおもしろいでしょ、といった具合に)のである。こうして一方では「地球環境の危機」が叫ばれながら他方では買ってもすぐに捨てられてしまうような「ガラクタ」が次々とデザインされている。そして第三次産業が必要以上に「活性化」される一方で、肝心の生活基盤の基礎<となる生活資料の生産体制が>ガラガラと音をたてて崩れていくというのが現代の社会なのである。

 虚偽の目標設定から出発したデザイン過程は、その途中の方法がいかに形式的に適切であっても、結果はただガラクタを生み出しているにすぎないことになる。言い換えれば、デザインや設計はその方法の形式的な論理整合性がいかに「正しく」ても、その出発点である目標、つまりデザイン行為や設計行為の「意味と内容」が正しくなければ結果は不毛であるといえる。このデザイン行為における内容と形式の乖離<およびその「内容」であるところの目標生成に関する議論の無視>こそが、現代社会の虚偽のイデオロギーの一環を成すものであることに気づかない限り「社会をデザインする方法」は単に間違った結果を生み出すばかりか、恐ろしいトップダウンの政治を生み出すことにも繋がるのである。

 現代社会がどのような矛盾に直面しているのか、それが何に起因するのかという大問題に関する論争(これはイデオロギー的論争を当然含む)がないところで社会をデザインすることなど出来るはずがないのだ。

 これが私の見解である。

(<>内は、Oct.5'10追加修正部分)

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