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2010年10月10日 - 2010年10月16日

2010年10月15日 (金)

"True or False"ではない「否定」の論理

 現代の形式論理学は、デジタル電子回路における論理の基礎にもなった「論理」の基本的考え方であるが、ここでいわゆる「真」と「偽」が互いに否定関係にあるという形は誰でも知っている。「ある」と「ない」や2進法における0と1のように互いに排他的な関係が「否定関係」と見なされがちであるが、本当はそうでない。ここでの否定関係は、いわば二つしかない対象のどちらかを選ぶという意味での否定であって、それは単なる表面的な結果でしかない。より深い意味での否定には、その対象をどちらかに選ぶ人間の側の立場が含まれるのである。そこには片方を選んだ人がなぜそれを選んだのかという理由も含まれている。つまり、「否定関係」には、否定されるものと否定する者との関係を含むのである。

 電子回路のように、本来アナログ的な値である電圧を例えば5V以上ならonそれ以下ならoffと決めて、それを二値化することでTrueとFalseの論理値に対応させているのであり、その意味では単に決められた約束事の上に立った二者択一関係に過ぎない。これはちょうど議会での多数決による「否決」のようなものである。

 しかし、例えば、コペルニクスが天動説を否定して地動説を唱えたとき、キリスト教的世界観にもとづく天動説が、当時進みつつあった自然現象の科学的解明という人類がある意味で必然的に具有しつつあった能力によって初めて「否定」されたのであるが、それは単なる二値的な否定ではなく、天動説という考え方がまずあったからこそ、その否定として地動説が唱えられたのである。もちろんこの場合、政治的な実践での議決と科学的認識の深化における否定とは異なる次元で考えられねばならないことも確かであるが、後者においては次のようなことも言える。

 否定される側の天動説は、それを唱えてきた人やそれを支持してきた人たちによってそれまで「常識」として認識されてきた世界観であって、コペルニクス自身も最初はそのように認識していたのであろう。しかし、それが自然現象のより深い理解という歴史の流れの中で、コペルニクスという人の内部にその矛盾を認識させる目を育てたのである。一つの「同じ」存在の中に矛盾を見いだす対立関係としての、否定される対象と否定する者の関係が生み出されるのである。人間はそれ自身が自然の生み出した産物であり、その一部であるという事実によって必然的に身につけざるを得なかった自然の法則性への認識能力によって、その矛盾は「矛盾」として認識されうるようになった。そしてそのことが真の意味での「否定」として科学史前進へのエネルギーを生み出したのである。天動説あっての地動説なのであり、地動説誕生の経緯の中に天動説は「否定的に摂取」されたともいえるだろう。

 マルクスが「資本論」を「資本主義経済批判」として体系化しようとしたのも、これと同様に、目の前に支配的な資本主義経済社会が存在し、同時にその矛盾をさらけ出している資本主義社会を「否定的」に捉えうる立場がマルクスによって確立されたから可能であったわけで、マルクスによる資本論の成立過程において資本主義経済のメカニズムがその内部に否定的に摂取されたといえるのである。言い方を換えれば、資本主義社会が存在しその内部矛盾を「矛盾」として認識できる立場が生み出されたからこそ、それへの「否定」としての単なる空想的SF物語ではない社会主義や共産主義社会という「構想」が認識した者の側に生み出されてきたわけであって、批判あるいは否定を通して初めて具体的で現実的な未来社会を築くための「土台」が与えられたともいえる。

 私の専門分野についていえば、私が学生時代にあこがれをもって工業デザインの世界に入り、やがてデザイン教育の現場に深く入り、そこでさまざまな現実を見てきたからこそ、その矛盾も見えてきたのであって、その否定としての次世代社会の「デザイン的な行為」のあり方について考えざるを得ないのである。

 しかし、経済学もデザイン論も自然科学的に確固とした基盤の上での論争が成立しにくいので、非常に政治的な色合いが濃くなり、現代社会における支配的イデオロギーに対して何らその虚偽性を突きつけることも出来ずに、時代の流れに流され、矛盾が覆い隠されているのが現実である。

 資本主義社会の20世紀後半における特有な形態が生み出した、消費主導型経済体制の中で、それを推進する職能としての社会的位置を獲得したデザイナーという職能を冷静にかつありのままに見据え、その労働とそれを生み出した経済社会システムの矛盾を明らかにすることからしか、「デザイン的行為」(デザイナーではない)の未来は見えてこない、

 歴史的にある特定の時代に誕生した職能としてのデザイナーが行っている労働内容が、もしあらゆる人間がその能力として本来持っている「デザイン的思考能力」へと一般化されるのであれば、そこには歴史的特殊性を捨象するための媒介項が必須である。それが、その職能の持っている矛盾やそれを生み出した背景である社会の仕組みの矛盾であり、それへの批判である。そのことが分からない限り、人間のもつ創造的思考力やそれによる実践に関する問題は、現実の矛盾を覆い隠し助長する結果しか生まないであろう。

 そしてそれを明らかにすることは、私が教員時代に大学から社会に送り出してきた多くの学生たちに対する私自身の責任でもあると思うのである。私は彼らの存在を"True or False"的に「否定」するのではなく、彼らと同時に私自身の置かれた立場をも否定的にとらえ、そこから、たとえ日常業務での矛盾に気づき、疑問符だらけの仕事を行わざるを得なくても、その矛盾から目をそらしたり逃れることなく、われわれの摘出した矛盾への否定が未来社会を生み出すために必要なエンジンとなるという自覚を持って少しずつそれを具体化させるしかないと思っている。われわれはそういう時代に生まれ、そういう時代を生きねばならないのだから。

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2010年10月12日 (火)

閑話休題:ネット上でのまともなディスカッションは不可能なのだろうか? 

 まだ庭の広葉樹が色づき始めるには早いが、モズの鳴き声が目立つようになってきた。デザイン系の国際学会があちこちで開かれるようだが、毎月の乏しい年金収入では、国際学会への参加もままならなくなり、ここ数年は海外に行くことも少なくなった。学生とのチームを組めなくなった最近では国内の学会も足を運ぶことが少なくなった。こうして研究者の世界から遠ざかる生活を重ねているうちに、一人でいろいろなことをあれこれ考える時間が多くなり、それを忘れてしまわないようにブログに書いておくことを続けている。しかしずっと一人で物事を考えていると、つくづく他者との対話やディスカッションが大切であることが分かってくる。他者の考え方が完全に分からなくとも相手のいわんとすることと自分が考えていることとの違いに気づくとき、それが自分の思考の引き金を引き、考えるためのモチベーションになるからだ。

 人間の思考というものは、本来こうした他者との対話によって進展するものなのであろう。しかし、一方で、他者の考え方に足を引っ張られ、自分の考えが固まらないうちに崩れてしまうこともある。そういうときは一応相手のペースにおいて反論できない場所に落ち着くことになるが、あとから少し時間が経って、それが本当に納得したわけではないという自覚が徐々に強まり、次にその相手にぶつかったときに激しく反論することになることもある。すると相手はこの前の態度と違うといって苛立つことになり、まともな議論ができなくなることもある。しかしこれは自分の内部で自分の考え方の不十分な点に気づかされ、それを再構成する過程での出来事であるといえる。

 学会での発表とそれに対する質疑も、多くの場合、すれ違いとなる。短い時間にいろいろな疑問をぶつけようとするのだから、仕方がないのかもしれないが、相手の言うことからその意図を汲み取ることの難しさをつくづく感じさせられることがあった。

 しかし、もっとも許し難いのは、反論を持った相手をそれと知りつつ完全に無視することである。それが、研究者の世界においてもつねに存在する「支配的立場」を背景にした場合には、反論を持つ人物に対する「無視抹殺」という政治的な威力を持った行為になるのである。これもいまの社会の「民主主義」の裏面であると思えば、いちいち腹を立てても仕方がないとあきらめるしかないが、ことほど左様にまともなディスカッションというのは簡単には始まらないもののようだ。

 さて、このような次第で、日々孤独な思考を重ねるしかない筆者であるが、それゆえにインターネットの世界(まだブログという形式でしかエントリーしていないが)がこの状態に風穴を開けてくれるかと期待したが、以外とディスカッションが成立しない一方通行の世界であることが分かってきてちょっとがっかりしている。

 匿名の「にちゃんねる」のような世界は無責任な罵倒や悪意に充ち満ちているし、Twitterの様な世界は会話が細切れ過ぎて複雑な考え方が伝わりそうにもないので興味はないが、正眼に構えた剣を打ち下ろしてくるようなまともなディスカッションというのはインターネット上ではできないものであろうか?もっともそうなると負けてばかりで立つ瀬がなくなるかもしれないが、それはそれで自分の思考を磨くことにもなる。

 ディスカッションをしているうちに、この相手には自分の考えは到底伝わらないだろう(別な言い方をすれば、「世界が違う人」)とあきらめざるを得ないことも多い。しかし、そうしたことからは逆に、まともなディスカッションができそうな相手を掘り起こしてくることもできるだろう。

 どちらにしてもディスカッションの目的はそれに「勝つ」ことではなく、己を磨くことにあるといえるだろう。

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