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2010年10月17日 - 2010年10月23日

2010年10月19日 (火)

私たちが求める「自由」とは何だろう?(続き)

 前回の続きである。資本主義社会での「常識」となっているブルジョア的「個人の自由」が、私有という概念と結びついたものであることは前回述べたが、経済的な意味では、その私有による個人の自由が、社会的生活が成立するために必須の条件(例えば、土地や生産手段など)をも支配していることから来る矛盾が、市場の無政府性であるといえる。ハイエク的自由や自助努力にもとづく「小さな政府」を理想とした、アメリカ保守派の思想もこうした私有に基づく個人の自由から来ていると思われる。社会にアンバランスが生じても市場の動きに任せておけばいつかは再びバランスが保たれるようになる、という考え方で、その市場のもたらす「レッセフェーレ(アダム・スミス)」的市場の成り行きへの絶対的信頼は、個人による商品売買の自由という信念に基づくものと思われる。しかしその結果はもう80年も前に明らかになったような大恐慌と失業と社会の荒廃という矛盾の現実である。

 それに対する民主党などいわゆる「リベラル派」の考え方は、そこからこぼれ落ちる貧困層(実はこの人たちが社会の底辺を支えている)や自助努力ができない人々には政府が公的な立場で支援すべきであり、市場の動向に対しても政府が社会全体の立場からこれをある程度コントロールする必要があるという「大きな政府」のコンセプトである。

 後者の考え方は基本的に、1930年代に起きた、金融大恐慌による資本主義社会の危機的な状況からのケインズ的政策による脱却の経験からくる考え方であろう。

 しかし、そのケインズ的政策も労働賃金の高騰や商品市場の国際化による、アメリカ製品の競争力の低下とそれによる失業率の増加などという矛盾が明らかとなり、結局政府の負担増と財政的行き詰まりを生じさせ、増税による労働者階級へのさらなる圧迫という結果をも生むことになった。こうして後者も1980年代にはいったん破産宣告を受けたのである。

 そしてその後に登場したのがレーガン、サッチャー型「小さな政府」の資本主義社会である。そこで叫ばれたのがハイエク的自由やシカゴ派の主張にもとづく、古典派経済学への回帰であった。それはケインズ的政策による見せかけの理想社会が挫折するありさまを目の当たりにした支配層が、すでに蓄積した莫大なブルジョア的な私有財産を後ろ盾として行った、現代アメリカ的な「自由」の再アピールであったのかもしれない。しかしそれは他方では軍需による純粋消費とコンピュータおよびIT革命をテコとしてそれへの資本の結びつきの再構成を行うことが前提であった。それがブッシュ Jr.に至るまでの、「自由陣営の警察官」という自負によるアメリカ的戦争遂行型資本主義の体質を生んだとも考えられる。

 こうしてアメリカの「ブルジョア右派政党」である共和党と「ブルジョア左派政党」である民主党の対立は、「自由の王国」であるアメリカ社会の矛盾を巡って互いに補完し合いながら堂々巡りをしてきたのである。時代や状況がそれぞれ異なるが、基本的な構図はイギリスや日本も似たような状況と言えるだろう。

 こうした20世紀の歴史の中で、社会が成立するために必要なあらゆる労働や要件が私的財産を築くための手段となるという資本主義的社会のもつ根本的な欠陥を支える「ブルジョア的な私有による自由」の矛盾を乗り越えようとした、社会主義陣営も、やがて一国社会主義を唱えるスターリン派の勝利によって、「社会的共有化」への道を誤り、一党独裁体制の恒常化とそれによる国家機構の一元的支配という形を生みだし、労働者階級による生産手段の共有化と労働の自主管理を目指した労働者評議会(Soviet)は、実質的に崩壊したのである。そこに生まれたのは党官僚を頭とした完全なトップダウンの計画経済体制と生産的労働の国家管理にもとすく統制経済体制であった。そして皮肉なことにその「ソビエトなきソビエト国家」が「自由のない社会」とされて、アメリカと対峙し、東西冷戦状態を生み出して行ったのであった。

 こうした状況に対して、「自由の国」を自負するアメリカ人の中からは、そのような社会主義国家をヒトラー同様の「悪」と捉える風潮が一般的となり、社会主義圏の崩壊したのちアメリカ的自由が普遍性を獲得したかのように見える今日にいたっては、"Obama Marxist" などという馬鹿げた誹謗中傷が出てきたりするようになったのである。

 私たちは、いま、ブルジョア的私有に基づく自由を基本とした資本主義社会がそうなるべくして崩壊に近づきつつあるとき、ブルジョア左派政党であるわが民主党のマニフェストやパフォーマンスに過度な期待を持つことなく、そしてなによりも、かつての社会主義国の「社会的共有化=トップダウン的国有化」と考えるような誤りを徹底的に批判し、その失敗を教訓化することから、社会的に必要な生産を行う人々が主人となり、社会的に必須な要件をそれらすべての人たちが共有化できる条件を確保し、それを前提として初めて可能となるような、本来の意味での個人の自由の実現を、模索べきなのだと思う。

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2010年10月18日 (月)

私たちが求める「自由」とは何だろう?

 いまの社会は世界的に資本主義経済(いわゆる市場経済)が支配しているといえるが、この体制は決して普遍的なものではないことも確かである。中国や北朝鮮のような一党独裁体制によるいわゆる「社会主義国」に比べて、われわれの社会を「自由社会」と呼ぶことがあるが、これも何が「自由」なのかピント来ない。

 言論の自由はたしかにあるといえるだろうし、職業選択や起業の自由、商品売買の自由などもたしかにあるだろう。しかし今日では、雇用しない自由、クビを切る自由、失業の自由、ホームレス化の自由、自殺の自由などの方が現実的になってきている。

 この「自由」の概念は近代的「個人」という概念と密接に結びついているのであるが、この「個人」が「自由」であるためには、「私有」という条件が必要となる。自分が必要なモノは自分の裁量で獲得し、使用し、処分できるという考え方である。それは商品市場での売買の自由という経済的条件と同じ土台で築き上げられてきた概念である。

 たしかに近代資本主義社会を築き上げてきたブルジョアジーたちは、王侯貴族などの特権的階級に対して、こうした「自由」をつきつけ、それによって、商品経済社会を土台とした「自由」を勝ち取ってきたといえるだろう。

 しかし、すべての歴史がこうした「自由」に向かって動いていると考えるのはあまりに非現実的である。商品経済が世界中に行き渡り、それを土台とした資本主義経済社会が「グローバル化」している今日、その矛盾がふたたび新たな段階で現実的になってきたと考える。

 ブルジョアジー的「私的自由」が中産階級からやがて労働者階級にまで降りてきて、すべてはそのような「自由社会」に行き着くと考えるのは完全に間違っていると考えられる。なぜなら、個人的自由の条件である、生活必需品の生産が個人のレベルで行われることは決してなく、ましてその個人が生活のために、売りに出す商品もなく、それを作るための生産手段も持っておらず、結局自分の社会的存在意義を示す能力であるところの「労働力」を労働市場に売りに出さねばならないという矛盾がある限り、本当の「自由」は決してありえないからである。個人の自由による「自由社会」は生産手段を所有し、売買する商品を所有した「ブルジョアジーの私的自由」にすぎないのだ。

 20世紀後半以降にケインズらの需要牽引型資本主義経済政策のもとで「中産階級化」した労働者階級の多くの人々は、こうした「ブルジョアジーの自由」を「消費の自由」という形で与えられてきたために、現実には生産手段を奪われ、労働力を売りに出さねば生活できない労働者階級であるにもかかわらず、「プチ・ブルジョアジー」意識を持つようになり、「消費の自由」を普遍的な自由であるかのように思い込まされてきたようだ。それがいまや地球レベルでの「消費の限界」をつきつけられ、ボロボロに崩れてきたのだ。

 借金をしてまで消費を推進させられ、モノにあふれた生活をしてきたアメリカの労働者階級が、その購買によって資本家に還元した貨幣は、アメリカ消費市場に低賃金労働でモノを供給してきた中国やアジア・ラテンアメリカなどの労働者が過酷な労働によって資本家階級に収奪されてきた莫大な富とともに、いまや国際的な金融資本に集中し、金融市場や証券市場の思惑的動向やその破綻で世界中が破産や失業に直面している。その中で、労働者階級が徐々に変化を求め始めた。その流れに乗って登場したのがオバマ政権であるが、しかし、そのオバマもいまや「チェンジ」の方向を見失い、失業者は増え続けるばかりである。

 一方、「経済成長」著しい中国などでは、言論の自由を奪われ、政府の厳しい締め付けに置かれた、ノーベル賞受賞作家などが、「自由化」を求めて動き始めている。しかし、その目指す「自由化」が「ブルジョア的自由」ではないことを期待したい。彼らと私たちが共有できる自由は、もっとその先にある。

 19世紀末に、エンゲルスが、「自由とは必然性の洞察である」と言ったのは蓋し名言であるが、それが、20世紀中葉の「社会主義国家」の変貌によって、「必然の王国=管理統制の王国」として受け止められるようになってしまったことは、まったく残念である。ブルジョア的私有の自由を超えた、社会的共有の形をもとめ、社会的に必須な条件に対する社会的共有化という条件のもとで、個人の自由を保証し発揮させる社会こそ、われわれがもとめる自由社会なのだと思う。

 

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