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2010年10月24日 - 2010年10月30日

2010年10月30日 (土)

特攻機「桜花」を設計した設計技術者は正しかったのか?

 NHK-TVでシリーズものとして放映されている「兵士たちの戦争」で、特攻機「桜花」に関係し生き残った人々の証言を放映していた。その中でいまは98歳になる「桜花」を設計した技術者が、涙ながらに「あれを設計したことは、私は生涯引きずるね。あれで多くの優秀な若者が死んでいったんだからね。技術者に徹すればいいというのかもしれないが、言われた通りに設計したんだってね。しかしねえ..。」と語っていた。その姿は彼の長い人生がどのようなものであったのか察せられ、彼の設計した特攻機に乗って死んでいった若者とは違った意味で悲惨であったと思う。

 「桜花」は太平洋戦争末期に、軍部の指令で航空機会社が設計・製造した、人間爆弾機である。陸式一攻の腹に付けられ、目標近くで人が乗って切り離され、人間の操縦によって目標に突入して爆発する2ton爆弾である。大戦末期、この特攻機を使った攻撃で多くの若者の命が散っていった。

 この手の話にはよくアメリカのマンハッタン計画で核兵器を開発した物理学者や技術者の例が挙げられる。しかしマンハッタン計画での科学者や技術者は、人類がまだ見たことのない核エネルギーの力を初めて試すことが出来るという「創造的意欲」に燃えていたと考えられる。彼らはそのためにそれまで得られた核物理学研究の成果をすべて注ぎ込み、核分裂反応をいかに大きな破壊力として引き出すかに熱中したであろう。そして彼らは事後的にその結果が生み出した事態の重大性に気づいたのである。

 しかし日本の特攻機「桜花」の設計技術者は、それとは少し事情が違う。軍部に言われたことをただ、技術者として全うしただけだ、という意識がつきまとっている。そこには、自分がやったことは結果的には悲惨な死をもたらすモノの設計だったが、あの戦争という状況の中での軍部の命令のもとでは、技術者としてはこうするしかなかった、という「職能的正当化」である。おそらく、彼は、技術者としては、その設計方法においてまったく正しい方法で、いかに人間爆弾を的確に目標まで導き、的確に爆発させるかを論理的に考えて設計したであろう。それが彼の職能としての使命であったのだから。

 その意味では、いまのアメリかなどで行われている先端技術を駆使したハイテク兵器の設計を行っている技術者も同様かも知れない。違いといえば、彼らは日本の戦時中の技術者のような「敗戦」という決定的な終末を経験していないので、その職能に対する屈折した罪の意識はほとんど持っていないだけであろう。

 無人機で探索した相手をアメリカ本土のコントロール室からの指令でミサイルによりピンポイント攻撃し、殺していくという技術は、ある場合には「人道的兵器」とさえ言われている。対する相手は、「貧者の兵器」として信仰心を持たせた若者による自爆攻撃を仕掛けてくるのである。これ自体21世紀の悲劇である。

 こうした中で、設計者がもし、自分の職能としてやっていることに疑問を持ったとしても、彼はそれをアピールして抗議することはできない。そうすれば彼自身、職を失い、生活できなくなるからだ。自分自身で自分の社会的存在意義を否定していると見なされるからだ。設計技術者とはかくも主体性のない職能なのである。

 そのことは、技術者が、いかに社会を変えようとし、いまの社会がおかしいことを職能を通じて訴え、職能としてのポジションを通じて実現させていくことが困難であるということを意味している。彼は、社会的生産の主人公ではないのだから。つまりテクノクラートなどという考え方は幻想に過ぎないのである。

 そのような現実の中で、「正しい設計方法」を論ずるのであれば、それはただその職能の内部でそれを全うするための「形式的方法論」だけではダメなのである。設計目的そのものが問題なのであって、それを吟味するためには、いったん職能としての立場をはなれ、それを「否定」し、一段高い位置で、より普遍的な人間としての位置からそれを吟味できる場がなければならない。そのような場や状況をつくることこそ、現代の設計技術者に必要なことではないだろうか?

 職能に徹するために、形式的な方法論だけが乖離してしまい、その内容である設計目的が資本家や軍部の意図に委ねられねばならない状況は、特攻機「桜花」を設計した技術者の悲劇を無限に繰り返させることになるだろう。

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2010年10月26日 (火)

階級の見えない階級社会(続き)

 ところで、20世紀前半からの資本主義社会は、金融資本が産業資本を支配し、過剰に蓄積された資本が利潤を生み出しにくくなることにより、戦争にそのはけ口を求めたり、金融恐慌が長期化するなど矛盾が著しくなってきたのであるが、その破れ目から、ロシア革命が起き、非資本主義社会の芽が吹き出した。それを「希望の星」として世界的に労働運動が高まり、また一部ではそのエネルギーが、ファシズムなどの反共民族主義の流れをも生み出していった。

 そうした中で起きた1929年の金融恐慌をきっかけにやってきた1930年代の大不況時代に、アメリカでも労働運動が一気に高揚した。資本家的デモクラシーを代表するアメリカ政府は、正面に大不況による失業者の急増、背後に社会主義圏を拠点とした労働運動の高揚を相手にして、試行錯誤の末、イギリスのケインズが主著「雇用、利子、貨幣の一般理論」を通じて唱える、需要牽引型市場経済を目指す、経済政策を採用した。

 当初大規模公共投資を軸とした、ニューディール政策により失業者の吸収はうまくいったかのように見えたが、その後それは停滞し、新経済政策は失敗したかに見えた。しかし、その直後に始まった第二次世界大戦による軍需産業の「大量消費」がそれを救ったのである。戦後、1950年代には軍事的にも経済的にも世界のトップに躍り出たアメリカは、その力を踏まえて、労働者の賃金高騰を許し、それに見合うインフレ政策を実施しながら、労働者階級の生活資料商品を生産する資本を活性化させることに成功した。それによってアメリカの労働者階級は、高賃金で贅沢な生活資料商品をどんどん購入する(購入と消費は同じではない)ことで、ますます資本主義的経済が活性化するという、「消費主導型資本主義経済体制」が軌道に乗り、資本家的にとって「好循環」が起きていったのである。

 これによって、アメリカの労働者階級は、「中産階級意識」を持つようになり、あたかも資本主義社会にはすでに階級など存在しなくなったという考え方が一般的となっていった。その一方で、共産主義を看板として労働者階級が主権を獲得し階級社会の消滅を目指すはずであった、社会主義国では共産党指導部によるマルクス主義の偏向と改変が行われ、党官僚の独裁体制が顕著となり、労働者階級はあらたな被支配階級となってしまった。それを横目でみながら、アメリカの資本家階級は誇らしげに叫ぶ「自由と民主主義の国アメリカ万歳!」と。

 1930年代に民族主義的国家主義に突っ走った日本の資本主義体制は、アメリカ・イギリスとの戦争に突入し、結局多くの労働者階級の犠牲者を生んで惨めな敗戦を迎えたのち、アメリカのてこ入れで何とか復興し、アメリカ型資本主義経済体制に大きく舵を切り替えていった。そこから何度かの曲がり角を越えてきた日本の戦後資本主義社会であるが、その基本形はこれ以来あまり変わってはいないといえるだろう。

 こうして20世紀後半の資本主義社会では、「消費を促進することが経済を活性化させる」(これ自体本来の経済学からすれば矛盾している)という方程式が出来上がってしまい、労働者階級は資本家階級から「消費者」として「消費する自由」を与えられ、それを「自由で豊かな社会」として「謳歌」させられたのである。

 その一方で、そのような消費主導型経済体制の中で、だれでも「ビジネスチャンス」を見つけ出して、起業することができ、だれでも資本家になれる、という風潮が生まれた。そこでは昨日まで大企業の労働者だった人間でも、明日からは資本家になれる、という「夢」を与えた。

 しかし、こうして次から次へと生まれるベンチャー的企業は、市場の競争によってどんどん淘汰され、最後に生き残るのはよほど運がいいか、資本家として辣腕な経営者の企業だけであって、この過程全体が結局は、資本家的企業の生存競争を通じての進化戦略を成しているのである。考えて見ればすぐ分かることであるが、すべての人が資本家になることなど決してありえない。この資本家的企業の生存競争のもとではつねに失業の不安に悩まされながら過酷な労働を強いられる大量の労働者とその厳しい生活の現実が存在し、拡大しているのである。

 そして21世紀前半のいま、「消費を促進することが経済を活性化させる」という方程式は、地球全体の資源を食い尽くし、環境を破壊し、人類全体を危機に陥れている。かつての資本家的好循環はもう絶対にやってこないであろう。

 産業がグローバル化した今日、直接的生産者である労働者階級が国境を越えて、手を結び、この世界全体での理不尽な消費合戦と、そこに支出された過酷な労働から収奪されて少数の資本家の手に不当に集中蓄積された莫大な富を、社会の正当な権利者である労働者階級に還元しない限り、問題は本当に解決しないのである。

 直接的生産者である労働者階級が資本の介在を経ずに世界全体の生産と消費をコントロールできる体制が確立されない限り(そしてそれは技術的にも社会的にも今日では可能である)、地球の資源は資本を太らせるだけの無駄な消費のために食い尽くされ、その結果莫大な労働がそのために酷使され、不要になれば捨てられるのである。

 いま必要なのは、資本のための経済成長ではなく、社会が必要とする労働をそれぞれの場で直接行う人々それぞれが成長できるための経済体制なのである。そのためにもう一度、マルクスの思想を基本からつかみ直し、それを現代的に再理解し、そこにある正当な未来図を描くことが必要であろう。

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2010年10月25日 (月)

階級の見えない階級社会

 資本主義社会は自由で平等な社会であって、たまたま「金儲け主義」の性悪の資本家が登場すると、その悪い面が現れる、という風に考えているとすれば、それは明らかに間違っている。資本主義社会には本質的な矛盾が内包されている。それは商品の等価交換という形式に潜む虚偽である。すべての人が、自分の持っている商品を等価で交換しあうことで世の中の「富」がうまく配分されるという幻想はまったくの嘘である。

 もともと歴史的に資本主義社会を生み出してきた商業資本家たちの「なりわい」は、「安く買って高く売る」ことであって。それは決して「等価交換」ではないのである。ただしそこには商品を遠い国で見つけ出し運んできたという「手間」が含まれるからそれを考えれば「等価」であるという考えもあるだろう。しかし、商店などの商売に典型的に見られるこうした矛盾があり、そのためそれを正当化するための「ルール」が設けられていたりするのである。

 しかし、産業資本主義社会になってはじめて、「すべてが平等な」商品の等価交換による経済システムが全社会を覆うことになった。そこには重要なキーポイントがあった。それは社会を支えるために働く人たちの能力つまり労働力が資本主義社会でもっとも重要な基軸商品となったからこそ可能になったのである。

 労働者が自分の能力を商品として資本家的経営者に売りに出す(いわゆる労働市場で)。資本家は「労働力の買い」においてその労働者に対して賃金を支払う約束をし、そこで労働者が労働力商品を「等価で交換する」ことに合意した形となり資本家的生産が始まる、という具合にである。

 ところが資本家は、その購入した労働力の使用においてその価値以上の価値を労働から引き出し、そこから生み出される剰余価値を無償で獲得するのである。

 ここでいう労働力の価値とは、労働力の所有者(つまり労働者)が自分の労働力を日々再生産できるために必要な生活資料の価値に等しい。しかし資本家がその労働力を使用している時間、つまり労働者が労働している時間に、必ず労働者は、自分の労働力商品の価値以上の価値を生み出すのである。労働力の再生産に必要な生活資料の価値に等しい価値を生み出すために要する労働時間は「必要労働時間」と呼ばれ、それを超えて行われる労働時間は「剰余労働時間」と言われる(あらゆる時代にこの剰余労働は必要とされ、それが生み出す剰余価値は従来はその社会の支配階級の手中にあったが、本来、社会全体で共通に必要な社会的ファンドとして共有化されるべきものである)。必要労働時間と剰余労働時間は同じ内容の労働のにおいては何ら区別がなく継続されるので、その違いは目に見えない。それを区別するのはただ労働時間の差のみである。

 重要なことは、労働力商品を購入した資本家は、それを彼の目的に沿って使用した「のち」に、その労働の代価として賃金を支払うのである。そのため、そこには必要労働も剰余労働も同じ労働としてひっくるめられ、労働賃金はあたかも労働の代価であるかのように見えるのである。

 要するに労働力商品を購入した資本家はつねにその交換価値を超えた価値を手にするのであって、労働力商品とは、その使用価値の発揮において新たな価値を生み出す唯一の商品なのである。だから一見、等価交換にみえても労働力商品の交換は決して「等価」ではない。

 そしてこのすべての価値を生み出す商品である労働力が商品として交換されることによって初めて、そこから生み出された商品が資本家に利潤をもたらし、さらにその商品の流通過程での資本家にとっての「必要経費」という形で利潤の一部が商業資本家の手に渡り、商品交換そのものは形の上では「等価」で行われ得るようになるのである。

 しかも、労働者として社会に存在させられている人々(歴史的にさまざまな場面で生産手段を資本家によって奪われることによってそうになった)は、商品を作る手立てを持たず、自らの労働力を商品として労働市場に出さない限り、生活することができないのである。そして運良く資本家に雇用された労働者も、そこで得る労働賃金は決して本来の意味での「所得」ではなく、資本家の資本の一部(可変資本)として彼らに利益をもたらす労働力がそれを発揮ために必要とする生活資料商品の価値なのであって、労働賃金はは結局生活資料商品と交換することによって、それらを生産する資本家の手に渡ることになるのである。資本家のために労働し価値を生みだす「賃金奴隷」としての労働者がつねにそのような位置で生き続けるに必要な「経費」を労働賃金として受け取るのである。

 これはまったくの不平等交換であり、商品所有者同士の対等な交換では決してない。それは生産を支配する商品所有者(資本家)と、それに労働力を商品として提供させられるモノ同様の位置にある労働者の間で行われる不等価交換なのである。

 マルクスが資本主義社会を「最後の階級社会」と呼んだのも以上のような基本的な矛盾、つまり社会的生産を支配する資本の所有者である資本家階級と、生産手段を持たず資本を生み出すことにおいてしか社会的な労働をなしえない労働者階級という二つの基本的階級における労働の支配ー被支配関係によってすべての社会経済的システムが動いている社会だからである。

 いまの資本主義側の経済学では、「マクロ経済学」であっても「ミクロ経済学」であってもこの価値を生み出す源泉が何であるについては決して触れない。そこに存在する矛盾こそ資本主義社会の決定的アキレス腱なのだから。そしてマルクスはそのアキレス腱を資本論において見事にあぶり出したのである。

(続く)

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