« 2010年10月31日 - 2010年11月6日 | トップページ | 2010年11月14日 - 2010年11月20日 »

2010年11月7日 - 2010年11月13日

2010年11月11日 (木)

労働状態悪化が話題にならない不況対策

 今朝の朝日新聞の「私の視点」に投稿されていた元機長の意見は、きわめて重要だと思う。最近の不況の中で航空業界では、安売り競争が激化し、それに伴い航空会社での「合理化」が進んでいる。パイロットはその数を減らされ、残されたパイロットに過重な負担がかかってくる。ただでさえ、パイロットの労働内容は、極度の緊張と不規則な生活時間により、同じ労働時間で働く他の職場の労働者に比べて、厳しい労働内容を強いられている。事故を起こして責任を問われた場合、過重労働による過労が原因と訴えても、労働基準法で決められた労働時間を大幅に超えていないとして却下されてしまうこともあるようだ。

 経営者側からの「合理化」で解雇させられたり半強制的に退社させられたりした労働者は、再就職のために悪戦苦闘せざるを得ないのだが、残った労働者は、人数の減らされた労働現場で、過重な労働を強いられることになる。労働者にとっては、進むも地獄、退くも地獄である。まして航空業界のような労働現場では、それが多くの人命の安全につながる問題である。

 われわれは、街のスーパーやコンビニで毎日当たり前のように生活資料を買い求めるが、その背後では、食料品などの供給、輸送での莫大な労働が費やされているのである。食料品は海外の劣悪な労働条件で働く多くの労働者の手で生産され、大手商社によって大量に輸入される。国内の配送センターでは時給800円たらずで働く非正規雇用の労働者が10時間以上、ときには12時間もの労働時間働かされ、契約時間を超えた労働に関しては時には労賃が支払われずうやむやにごまかされることがあっても、文句も言えない状態で黙々と働く。店に物資を運ぶトラック・ドライバーたちは、夜も昼も、決められた時間内に物資を運び込むために必死にトラックを運転している。そして時には過労で事故を起こしてクビになることもある。こうして食料品や日常生活資料がスーパーやコンビニの店頭に並ぶのである。スーパーやコンビニではほとんどが低賃金のアルバイトの店員で実際の販売業務が行われ、店長は「名ばかり管理職」でその内実も大変である。例えば、社会全体で労働時間がなし崩し的に延長されて夜中に帰宅する労働者が増加しているので、それを目当てに、他店との競争もあって24時間営業を余儀なくされ、過重な労働を強いられているのだ。

 医療の世界でも病院経営の「合理化」で医者の過重労働が問題となっている。中国など海外の富裕層を日本の医療機関に招き入れ、金儲けをしようとしている病院も出てきているようであるが、こうした病院では一台何億円もする「先端的医療機器」を看板にして医療セールスをする陰で、医者もなく、ろくな医療も受けられずにみすみす直る病気が手遅れになって死んでいく地方の過疎地帯や都市の貧困層の人たちが増えているのである。

 同様に、教育現場での教師の過重労働も大問題である。何かコトがあれば教師の責任が指弾されるが、そのかげで日々過重な労働に潰されそうになっている先生たちがいる。教職員組合が教師の立場を護ろうとすれば、教組が教師をダメにする、と指弾される。

 これらの例を挙げればきりがない。景気を回復させるため、ということが金科玉条とされ、そのために直接的・間接的に犠牲になるのは結局、現場で働く人々なのだ。何のための景気回復、成長戦略か!! 日本の労働者階級が我慢をするにもほどがある。民主党や自民党のような資本側の立場を代表する政権にこの社会を任せておけば、働く人たちは、マルクスが対峙した19世紀のイギリスよりもさらに悪い状態に置かれることになるだろう。

 国際市場での競争に勝ち抜くことよりも、足下のわれわれの社会生活を支えるために一生懸命働く人たちが、しっかりと自信を持って働けるようにすることこそ必要なのだ。会社あっての社会ではなく、労働者あっての社会ではないのか!!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月 8日 (月)

マルクスの死生観と価値論の関係について

 「価値」という概念がいまほど様々勝手に解釈されている時代はなかったと言ってもよいかも知れない。経済学的カテゴリーの価値と個人の価値観を同一視するなどがその典型的な例であると思う。マルクスにおける価値の概念は、リカードなどの古典派のそれとは異なり、唯物史観の上に築き上げられている。唯物史観といえば、スターリン派が流布した悪しき「唯物論」が一般的にマルクスの唯物史観と同一視されているが、マルクスの唯物史観はそれとはまったく違う。

 例えば、私は資本論の中に出てくる次のようなマルクスの記述に衝撃を受けた。「人は一日に24時間づつ死んでいく」つまり自然の生み出した人間における死は当然生物学的な死という時間的にはある瞬間を指すのと同時に、人間的に生きることによって、一瞬一瞬現在から過去へとその痕跡を残していく歴史的な「死」なのだ。ここで人間的に生きるということの意味が人間の主体的で生産的な労働であることは明らかである。自分がこの世の中でどのような存在であり、他者との関係において、つまり社会の中でそれとして意味のある労働を、それぞれの個性において行うことが、人間的に生きることの意味であり、その労働の痕跡がつまり「死んだ労働」が他者とその結果を分け合うことで過去の労働としての意義をもち歴史を生み出して行くのである。

 生産的労働においては労働そのものだけではなく、生産手段や労働手段が必要であり、これらは大自然そのままを直接的生産手段にする以外は常に過去の労働の結果である。そして労働の源泉である労働力を生み出す生活資料も過去の労働の結果である。だからマルクスのがいうように、労働過程においては死んだ労働が生きた労働によってあらたな意義を吹き込まれるのである。

 マルクスは次のように言っている。「生きた労働は、これらの物(過去の労働の産物--引用者注)を捕らえ、よみがえらせ、単に可能的であったにすぎない使用価値から、現実的にして効果的な使用価値に、転化せねばならない。これらの物は、労働の火に舐められ、労働の肉体として取り込まれ、労働過程におけるそれらの概念および職分にふさわしい機能を吹き込まれて、消耗されるのではあるが、しかし、充分な目的をもって消耗されるのであり、生活手段として個人的消費に入りうるか、または生産手段としてあらたな労働過程に入りうる新たな使用価値の、あらたな生産物の形成要素として消耗されるのである。かくして、現在ある生産物が、労働過程の結果であるだけでなく、その存立条件でもあるとすれば、他面では、労働過程への生産物の投入が、したがって、生きた労働とのその接触が、これらの過去の労働の生産物を使用価値として維持し、それを実現するための唯一の手段なのである。」(資本論 第一巻第3編第5章より)

 こうしてマルクスにおいては、一社会においてその生産体制を維持構成する個々の労働が生み出す生産物が互いにそれを使用価値として消費しながら同時に生産していく動的な関係において初めて意味をもつのが「価値」という概念であり、それは労働生産物が生きた労働における消費によって発揮する使用価値という現在的側面と、同時にその反面で、生産物がもつ過去の死んだ労働による抽象的な意味として形成されていく「価値」の概念なのである。

 言い換えれば、生きた労働そのものが価値なのではなく、労働によって生み出された結果が価値を形成しうるのである。この区別を無視することから、資本家も労働者も労働とその結果を「自由に」分かち合い、生活しているのが近代の社会である、という虚偽の思想が生まれるのである。そしてそのような虚偽の思想のもとでは、互いに欲する物を交換し合う際に、自分が相手の持ち物に「価値」があると思えば「価値」が形成され、その人間が納得する値の価値を持つことになる、という資本主義社会特有のブルジョア的「価値観」が生み出される。そして資本主義的市場経済はすべてこのような「価値観」によって動いているとされるのである。そこから「付加価値」などという虚偽の価値論(骨董屋的あるいは美術商的価値論)も生み出されるのである。

 そこには労働の生産物を本来の使用価値として意味のある消費を行うために生産するのではなく、ただ所有し売るために生産する社会が一般化するのである。そこには、資本家によって私的に所有される過去の労働の成果を用いて「売るために作られる」商品を生産するために、つまり私有化された死んだ労働によって抽象的価値を増殖し収奪するために、労働者の生きた労働が、消費される世界が展開されるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年10月31日 - 2010年11月6日 | トップページ | 2010年11月14日 - 2010年11月20日 »