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2010年11月14日 - 2010年11月20日

2010年11月18日 (木)

国境を越える資本と越えられない労働者階級

 今日の社会はグローバル資本主義と言われるが、資本主義の市場はその歴史的発生以来もともと国境線を越えながら世界中に浸透していったのであって、それは最近になって始まったことではない。最初は国境を越えた商品の売買を通じて、商業資本家がリッチになった。そして次には労働力(商品)が国境を越えて、貧困化させられた国々から先進資本主義国の資本家の工場に労働者が大量に流入して産業資本家がリッチになった。そして次には資本そのものが国境を越え、いわゆる多国籍企業というものが登場し世界市場を支配した。

 これらの結果、世界経済はすでに国際的な結合がなければ全体が成り行かなくなっている。現に、アメリカが風邪を引けば日本やヨーロッパがおかしくなる。EU圏内でもギリシャやアイルランドが風邪を引けばそれがEU各国にうつる、という状態だ。後発で資本主義化した中国だけは、いま投資先としてもっとも資本家の視線を集めて「成長」しており、ほかの国々の経済の悪化がそれほどこたえていない。それは13億という膨大な国内人口があり、国内の労働者階級や農民を相手にした市場(もちろん労働力市場も含む)だけでも経済が成り立つからであろう。しかし、いずれ中国も国内市場だけではやっていけなくなる日がくるであろうし、その前に地球環境や資源問題で国際的に孤立できない状況に追い込まれるか、矛盾と圧政に労働者階級の怒りが爆発する日が来るであろう。

 かくして資本主義体制そのものが、経済的な国境を破壊し、世界をおおきなひとつの市場として結びつけつつあり、それはまた同時に、世界中の労働者階級が本質的に同じグローバル資本の矛盾(もちろん個々の国でそれぞれの国内事情が異なるが)のもとに置かれることになったのである。言い換えれば、いまこそ世界中の労働者階級が、マルクスの掲げた労働者インターナショナリズムの土台を現実的に与えられているのである。グローバルな資本主義と闘い、その矛盾を国際的なレベルで克服できるのは、こうした世界中の労働者階級の結びつき以外にないであろう。

 しかし現実には、各国の労働者は、資本家代表の政府や支配層からナショナリズムの洗礼を受けており、自国への愛国心を注ぎ込まれている。資本家代表政府は各国と経済的には結びつかざるを得ないが、自国の「国益」のためには外交的な闘いを繰り返している。たとえばあの大国の中国が、小さな島を巡って、馬鹿げた外交戦争をしかけてきているように。その背後には、自国の労働者階級が、資本家と結びついた中国共産党幹部やその独裁のもとに置かれた政府に反旗を翻し、資本家的国家の「国益」が破壊されることを恐れているからであろう。人民解放軍はもはや資本家防衛軍に成り下がってしまったようだ。

 一方、資本家によって「消費者」と呼ばれ、「中産階級化」した先進資本主義諸国の労働者たちは、いまや自分たちの足下の土台が音をたてて崩れていくのを目の当たりにしている。ケインズ型資本主義による社会保障制度の充実などを中心とした「大きな政府」が立ちゆかなくなったいま、中間階級は、「自助努力」によって資本家になるために上昇するか、力尽きてプロレタリアートに転落するかのどちらかを迫られることになってきた。そこではもはや優雅な「個人的自由な生活」は望めなくなってきたのである。

 すでに国境を越えて世界中が結びついている経済と、それにもかかわらず、各国での資本の支配に苦しむ労働者たち、そしてそれがナショナリズムや宗教と結びつけられることによって起きる悲惨な戦いが繰り広げられている。

 なぜこうなったのか、そしてわれわれはこれからどうすればいいのか、そのことをこれから少しずつ考えていきたいと思う。

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2010年11月16日 (火)

「消費主導型」経済体制の行き着く先は...

 今日のいわゆる「消費主導型」経済体制は、基本的には1930年代に始まったケインズ型資本主義経済体制の土台の上に出来上がってきた体制であるが、その眼目は、資本の回転を、労働者階級の生活資料商品という経済学的に言えば、過剰資本に結びつきにくい商品の購買を牽引力として推進させ、同時に、それによって労働者階級を「中間層」というプチ・ブルジョア的な意識をもつ階層に仕立て上げることで、資本家との対立を見えないようにしていくことであったと考えられる。

 そのため、中間層的な労働者階級は本当は直接的生産者であるにも拘わらず、自らを「消費者」と自認し、プチ・ブルジョア的意識を持つようになったのである。この体制は、資本家がそれによって利益を順調に伸ばし、労働者階級が相対的に高賃金化することで、商品の購買力を高めていった時期には好調であるように見えた。そして、このプチ・ブルジョア的意識を持った「中間層」が社会の中核を成すことになったのである。いったんこういう体制が出来上がってくると、そこに、具体化される様々な矛盾に対して「大きな政府」を基盤とするケインズ型に反対する「小さな政府のもとで自助努力に基づく社会」を目指す新古典派的な資本主義を看板にする一派も登場し、選挙のたびに互いを攻撃し合い、その実、互いに資本主義社会の矛盾を補完し合うことになったのである。

 しかし、これらはいずれも、「消費主導型」経済体制を前提とした社会を基準としていると言ってよいだろう。しかし、ここでいう「消費」は本当は「購買」なのである。資本家的企業は、作り出すモノの使用価値の生産を主目的にするわけではなく、それを売るための手段と位置づけている。だから例えば、一般消費財と言われるジャンルの商品は売ってしまった後は、その製品を長く使わせるための努力はほとんどしていない。激しい市場競争の中では、売ってしまったモノのメンテナンスにコストや人手を割くよりもよりも新しいモデルを買わせることの方が遙かに効率よく利潤を得ることが出来るからだ。こうして簡単な修理によって再び使えるようになる製品が次々と捨てられ、新製品がどんどん購入されていく。こうした中で、中間層化した労働者階級は、「消費」こそが経済を推進させ、自分たちの賃金も維持できることになると信じ込まされてきたのである。

 しかし、その結果、現に何が起きているかを見れば、この「常識」がいかにまやかしであったかが分かる。大量消費によって、地球上の自然資源は枯渇し始め、その奪い合いが激化し、大量の廃棄物(CO2など)による地球環境の悪化は誰の目にも明らかになってきた。その一方で、アジア、アフリカ、中南米などの世界人口の圧倒的多数を占める貧困層(といってももとから貧困だったわけではなく、あらゆる生活資料を商品化する資本主義経済体制の中に組み込まれることによって「貧困化」させられた人たちである)の人たちが、世界労働市場に登場することによって、生産企業は低賃金労働者を得やすい海外に出てしまい、いわゆる先進資本主義国の中間層的労働者階級や町工場を経営する小資本家は、自分たちの職場を失なうか、より低賃金の労働や労働条件の悪い労働に甘んじて行かざるを得ないことになったのである。

 資本家的企業は、低賃金で働く国の労働者のおかげで、利益を確保でき、その一方で国内では、「合理化」による人減らしが強行される。個別産業資本家が上げた利益は、資本主義的競争原理のもとで資本家間にうまく分配できるように、その全体を支配する金融資本がそれをコントロールし、莫大な利益を上げる。そして政府は、「成長戦略」を看板にして企業の税金を減免する。企業が儲かれば、労働者も恩恵にあずかるという論理であろう。

 しかし、景気が維持され「上向いた」とされながら、失業者は増え続け、大学卒の就職率は60%を割り込んでいる。そして国家財政の赤字を埋めるため、そのツケは労働者階級への増税となって返ってくる。「経済成長」とは労働者階級を犠牲にした資本の成長以外の何物でもないのだ。何という社会だろう!この矛盾に気づかぬ人はもういないはずである。

 自分たちの仕事が社会全体を良くしていくことを信じながら一生懸命働いてきた労働者たちは、「消費者は王様」などとおだてられながら、結局、グローバル金融資本に莫大な利益を提供し、地球環境を破壊し、自分たちの生活を危うくすることになってしまったのである。いま、数十年遅れてそれと同様の夢を見させられ、一生懸命働いている中国やアフリカや中南米の貧しい労働者たちも必ずこういう羽目に陥ることは目に見えている。もう一度考えよう。私たちは誰のために生涯賭けて働くのか、どうして働いても働いてもその報いが得られないのか、いったい誰のために「国際市場での競争」を強いられるのか。

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2010年11月14日 (日)

機械工業デザイン賞受賞作品プレゼを見て

 昨日筑波で行われたデザイン学会秋季企画大会に行ってきたが、イベントとしてあった表記プレゼを見てきた。受賞した4社のメーカー側からのパネリストと審査委員側のパネリストが雁首をそろえて演題に並んでスライドを見ながらの解説と審査委員の感想が述べられた。H社のデジタル超音波診断装置、S社ゴム射出成形機、M社の汎用シーケンサ、HS社の大型クローラクレーンの4機であった。

 産業機械や医療機器のデザインは、家電や自動車のような「売るためのデザイン」が全面に出た量産耐久消費財商品とは異なり、健全さを感じさせるが、それは明らかに、これらの機器が「問題解決」としてのデザインをしているからであると思う。ゴム射出成形機の設計者からは、商品見本市などで、競合するヨーロッパ各社の製品がカラフルで魅力的だったので我が社もこれに負けないように色を使った、といい、そのためか、試作品段階で一度に3機も注文がでた、やはりデザインの力はすごいと感じた、と語っていたが、私は、逆に産業機器にもそういう悪しき商品デザインの傾向が現れ始めたのか、とちょっとがっかりした。むしろその機器を使って働く労働者のために使いやすく心地よいデザインにする、というのが正攻法であろう。その結果として「売れた」のであればまだ許せるが。

 その意味では超音波診断装置のデザインは、患者と機器の使用者双方の立場を考えてデザインされており、そのデザインの姿勢に健全さを感じさせた。また、大型クローラクレーンは、建設重機の設計そのものであり、従来機の問題点の指摘から始まり随所に見られた設計上の問題解決のための新しいアイデアは優れており、ここではほとんど工業デザイナーと工学的設計技術者の区別はないと思った。そのためか、説得力のあるデザインだったと思う。

 さて審査委員側の感想は、といえば、評価が高かったのが、「だれでも使える」ということを念頭にデザインされた汎用シーケンサであった。審査委員はこれを初めてユニバーサル・デザイン的観点からデザインされた産業機器だ、と高く評価していたが、この背景には、熟練労働者が激減し、非正規雇用労働者として、外国人労働者、アルバイトなどいわば「素人」がこうした産業機器を動かすことが多くなったという現実があることを忘れるべきではないだろう。日本の伝統的ものづくりにあった「わざ」をどう新しい技術に結びつけるかも考えねばならないと、審査委員の一人が言っていたが、少量生産で高額で売れる市場の商品を生み出す先端技術ではつねにこうした新たな「わざ」が要求されている。しかし、一方で、安い労働力が必要な大量生産体制ではつねに必ず、労働が単純化され、生産機器が「だれでも操作できる」ようなものに置き換えられ、労働力の流動化とその低賃金での供給を容易にするという流れが生じるのである。そこでは熟練労働者が仕事を失ったり、安い賃金の仕事に移らざるを得なくなるという現実が待っている。

 また別の審査委員は、日刊工業新聞紙上で、設計技術者と工業デザイナーの資質の違いとして、前者が、「極める」マインド(最適性を求める)で、後者が「創める」マインド(新規性を求める)を持つ傾向があり、その両者がうまく共存するときによいデザインが生まれると述べている。しかし、私は、この分野での設計技術者と工業デザイナーの区別は必要ないと思っている。それは単に現存する職能の役割分担に過ぎず、むしろ設計技術者自身が、設計対象の物理的機能の設計と同時に、それを用いて生産的労働を行う労働者の立場に立って生産機器を設計することに徹するべきだと思う。商品として競合商品と差別化することが目的となりそのための「新規性」を要求するのではなく、その機器の真のユーザである労働者が使いやすく、安全で心地よく労働を行いうるような形に設計することを目指し、機器の物理的機能を発揮させるために必要な機構とそれが現実に操作され稼働するために必要な操作を行いやすくさせることを同時に念頭に入れて設計すべきであろう。

 「新規性を求める」は、それ自体が自己目的化されるのではなく、ある問題を解決するための手段や方法において発揮されるべき能力であるはずだ。「最適性を求める」と「新規性を求める」は、同列に扱われるものではなく前者は後者に従属するのである。

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