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2010年12月5日 - 2010年12月11日

2010年12月11日 (土)

20世紀後半からの資本主義社会を考える(8)再出発に必要なわれら自身の反省

 20世紀後半からの資本主義社会が生み出してきた、もっとも特徴的な型(type)は、その土台としての経済が、無駄な消費を次々と生み出していくことによってしか生き延びられない末期的な、あるいは「腐朽化した」資本主義経済体制であり、その土台の上に生み出された腐朽的文化である「大量消費文化」に、生産の自由を奪われて「消費の自由」のみを与えられた労働者階級が、どっぷりと浸かってしまい、自らの階級意識を完全に失わせしめてしまったのだと思う。そのような労働者の実存を政治意識として反映したのが、「小市民(プチ・ブルジョア)的民主主義」とも言えるものであるといえるだろう。

 われら労働者にとって、毎日の生活を通して感じられる「生きる意味」は、労働賃金を使って「さまざまな商品を買う」ことによって何か「よろこび」を得ようとすることに尽きるといっても過言ではないだろう。おいしいものを買って食べ、気に入ったデザインの衣服や生活資料商品を買い、仕事のストレスから逃れるために酒を飲んだり現実感のない映像番組やおもしろおかしいエンタテイメントに金を払って時間をつぶし、飲み食いし過ぎて太った身体をスリムにするためにジムや健康教室にお金を払って通い、子供の教育においては、将来労働力商品として労働市場で高く売れるように、莫大な教育費を教育産業に支払って塾や大学での教育という商品を購入し、金融資本からローン(実は労働賃金の先取り)という借金をして住む家を購入し、借金を払い終わるか終わらないうちに定年で退職し、残った貯金やわずかな年金をやりくりして、観光資本に金を払って海外旅行に出たり、趣味の世界に必要なものを買いそろえたりする。やがて、長期にわたって賃金や年金から莫大な保険料や介護保険料を払った成果として福祉産業という資本の「介護サービス」という商品を買って、最後には宗教産業という資本の「葬式」という商品を買わされてあの世に行く。

 そしてわれらの子孫は、よき労働力商品になるための教育を受けた後、就職戦線という名の労働力市場において、さまざまな苦しい体験をさせられる。資本家(およびその意図の代行者)にとって富の源泉である労働力商品の選別には厳しい目が必要なのである。彼らにとって、若い労働者予備軍は、その能力が富を生み出す源泉である限りにおいて「人間」なのであって、それ以外においてはいつでも捨てることの出来る「モノ」と同じなのであるから。

 めでたく就職でき、親たちの「商品購入人生」をモデルにした生活に踏みだそうとしても、減少する労働賃金と高騰する社会保険料の支払いとの狭間で、だんだんその「消費のよろこび」すら味わえなくなり、親が支払ってくれた莫大な教育費の成果もどこかへぶっ飛んでいってしまうかもしれない不安に悩まされ続けるのだ。

 この社会で成功者としてリッチになるということは、絶対的多数である労働者が社会的労働を通じて生み出した剰余価値を収奪し、それを自分の企業の利益として集積し、資本家同士の競争において他の資本家を蹴落とし、富を一手に集めた結果、多くの高価な商品や「権力」を自由に買えるようになることであり、それが「ブルジョア的自由」の行き着く先なのである。そしてそれが自由に行えることを保証するのが「ブルジョア的民主主義」という政治形態である。

 20世紀後半型の資本主義社会に住む多くの労働者は、このような「ブルジョア的自由」には「強欲な資本主義」として感情的には一定の反発を示すが、しかし、「個人として自由に商品を売買する権利」を守りたい思っているようである。それは一口に言ってしまえば「プチ・ブルジョア的生活者」の意識である。こうした意識はたとえば民主党のような「プチ・ブルジョア的民主主義」とでも言えるような政治組織や政治形態として表現されることが多いと言える。

 しかしわれら「消費人間労働者」にはいったい何を売ることが出来るのか?自分が持っている「売ることの出来る商品」は自分の「労働力」つまり「働く能力」だけではないか。そして上述のように、労働市場において、われらが持つ唯一の商品である労働力を売るということがいかに困難であり「自由ではない」かということが身にしみて分かるのである。購買の自由はあっても就職の自由はないのであるから。

 その能力は資本家のために商品(上述の様にさまざまな商品の形がある)を生み出すことにおいてしか社会に還元できない。要するにわれわれは自分の能力を労働力商品として資本家に売り渡すことで、資本家に「売るための商品」を作ることを可能にさせ、その「代価(労働への代価ではなく労働力商品への代価であることが肝心)」として受け取った賃金によって、別の労働者が別の資本家的企業に労働力を売ったことで生産された商品を買わされることになるのである。われわれがそれを買うことで、その商品を売りに出した別の資本家が儲かる、という仕組みである。何のことはない、われわれは自分の能力を通して社会に貢献していると思っているが、われわれの能力を使って商品を作り売りに出す資本家にとって、それは利潤を獲得するために必要な単なる手段でしかないのであり、しかもわれわれが受け取った賃金はわれわれの消費行為(=商品購買)によって貨幣として再び別の資本家の手に戻る仕組みなのである。

 われわれが何十年も世の中のために働いて得てきた労働賃金は、実はこうして「商品を買う」ことを通じてすべて資本家の手に還り、さまざまな業種の資本家の元に蓄積され、投資や投機そして企業買収などのための「資金」として回転しながら増殖し、たえず世界中の労働を搾取し、さまざまな形でそれを支配しているのである。

 問題は民主党に代表されるような「プチ・ブルジョア民主主義」に未来を託し、「強欲な資本主義」を規制することで、「健全な資本主義」や「健全な中間層」(それらはすべて20世紀後半型資本主義社会の生み出した「幻想」に過ぎない)を取り戻すことにあるのではなく、社会的に必要な労働を支配している資本(実はこれ自体が労働者自身の生み出した剰余価値によって形成されたものなのだ)の資本家階級への過剰な蓄積によって、行き詰まってしまった現代社会の生産活動を正常な形で生き返らせるために、資本家階級による労働者階級の支配を終わらせ、生産の目的と手段の逆転した状態とそれによる社会的富の不正な配分から正常な状態に戻すことが必要なのだ。

 さまざまな分野でさまざまな能力を発揮して社会に必要なものを資本から解放されて直接に生み出す(つまり売るために作るのではなく、必要のために作る)労働者たちが、互いに同じ立場で手を結びあって社会全体の構築や運営を行っていける社会、そのことによって「社会的に必要な労働」の内容そのものや種類そして生産量などをも根本から変えて行かなければならないのだと思う。それには長い年月を必要とするだろうが、われわれが求める未来に据えるべき大目標としては、決して間違っていないと確信している。

 そのような社会経済的骨格が出来上がって行くことによって、「国家」や「資本」という形の利害対立を前提としない、本当の意味での地球規模での協同的社会的生産活動が行えるようになり、人類の共通財産である地球環境や資源の合理的で経済的な活用が可能となるだろう。

 このような社会を実現しようとするためにはどうすればいいのか?どこかの研究者が主張するような「社会をデザインする方法」などというものは幻想であり、どこにも存在するはずがなく、未来を生み出す力は現在の矛盾への批判を通じた試行錯誤的活動によって徐々に具体化される目標を獲得していく以外にはあり得ないのだと思う。マルクスは19世紀の産業資本主義社会の矛盾を徹底的に批判することを通じて、その全体像を初めて明らかにし、資本主義社会以後の社会への手がかりを与えてくれた。

 「批判する」ということは「ケチ付け」とか「私的感情の吐露」といった下世話な解釈からはほど遠い思考であり、資本主義社会の中にどっぷりと浸かりそれと一体化された状態にある(つまり真実が見えなくなっている)自分自身を、そこから分化させ、資本主義社会という対象を自分の外部に把握することができる立場(自己批判を通じた対象世界の主体的な再把握)を可能にさせるための唯一の方法なのである。真の創造的思考とはそこからしか生まれ得ないのだ。

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2010年12月 9日 (木)

20世紀後半からの資本主義社会を考える(7)崩壊と創出の狭間で

 資本主義社会は、いまや音をたてて崩れつつある。しかし、それに代わって主役となるべき労働者階級の組織的活動はまったく停滞している。おそらくそのことによる混沌とした時代が今後長く続くのではないかと思われる。

 アメリカ、日本、ヨーロッパなどの諸国を中心にして、20世紀後半から始まった、ケインズモデルを典型とする末期資本主義社会の繁栄は、過剰資本の蓄積を過剰な「たれ流し的」消費によって処理しながら資本蓄積を拡大していくスタイルの資本主義経済を確立させ、一方で、労働者階級を「消費させることによって搾取を可能にさせる資本の源泉」として位置づけながら、他方で、個々の資本家的企業間の市場での無政府的利益獲得競争によって、競合する資本家同士の利益配分を金融資本が調整し、金融資本への資本の蓄積を通して資本家への合理的利益配分を行うという形を定式化させたのだと思う。そしてそれが「国家」という形のもとでの国内経済全体の調整と外交などを通じた、国際資本市場での調整を行いながら、全体としては「民主主義」という政治的外観を持たせることによって、階級支配の隠蔽構造を維持させていると言えるだろう。

 いま、こうしたいわゆる先進資本主義諸国の経済社会構造が、中国、インド、ブラジルなどのいわゆる新興資本主義諸国の国際市場への進出によって、大きく変貌しつつあり、その相互依存度を高めていると考えられる。それは資本主義経済を普遍的な経済構造と考える人々(主として資本家とそのイデオロギーを代行する論者たち)にとっては、「次はアジアの時代や!」という風に見えるのだが、実は、歴史は繰り返すようで繰り返さない。中国やインドは、決してアメリカ、日本、ヨーロッパと同じ道を通らないだろう。

 その理由は、第一に、先進資本主義国が「民主主義」と「豊かな生活」を謳歌し得た背景にあった、その「カウンターカルチャー」としての、いわゆる「社会主義圏」の一党独裁的な労働者支配による経済が破綻し、その一部が一党独裁体制のもとでの資本主義経済化という形でグローバル資本主義経済の一環を形成しているということ、第二に、その「一人勝ちした」資本主義経済体制のたれ流し的消費の体質がもたらす必然的帰結としての自然破壊と地球環境の汚染が、国境を越えたグローバルな「自然界の絶対的制約条件」として資本主義経済体制の「持続的経済成長戦略」の前に立ちはだかっていること、そして第三に、行き詰まった先進資本主義諸国の経済体制の中でそれらの諸国の労働者階級が構成するいわゆる「中間層」が分解し崩壊しつつあり、再び新しいタイプのプロレタリアートが登場しつつある一方で、新興資本主義国の労働者階級が富裕層と本来のプロレタリアートに分化しつつあるということである。

 かつて「社会主義圏」を横目で見ながら、ケインズ型資本主義体制が、管理通貨制の導入などによる労働者の中間層化と資本主義経済への国家の管理体制の強化によって、社会保障などの体制を整備していけた時代はいまや終わりを告げ、それを「資本主義の社会主義化」と見る人たち(資本主義社会は徐々に社会主義社会に変貌せざるをえないと考えるかつてのマルクス経済学者の中にもそのようなとらえ方をする人がいた)にとっては、「一人勝ち」した資本主義経済体制は、その本来の、私的自由を尊重し、完全な自由市場に戻るべきだとする主張を力づけ、ティーパーティーなどのような運動を起こしている。

 しかし、社会主義からの圧迫から解放された資本主義体制は、いまや遠慮会釈なく、労働者階級への搾取を強めることができるようになったのだ。だから先進資本主義諸国の政府は経済が行き詰まれば、労働者派遣法などで資本家にとって好都合な労働力市場を生み出させたり、社会保障を犠牲にして、資本家を減税などで支援し、資本家企業が儲かるようになれば、労働者の雇用も増え、税収も増えるという発想で、「成長戦略」を進めようとしているのだ。「景気」は徐々に回復しつつあるといいながら、その恩恵にあずかるのは資本家や投資や投機で儲ける富裕層だけけであり、これら先進資本主義諸国の社会を土台で支える労働者たちの生活は日に日に悪化し、新プロレタリアートたちの過酷な労働が増え、失業者もどんどん増えているのである。

 一方で、たれ流し的消費に頼る「経済成長」ではやっていけなくなる自然界の絶対的制約条件があり、他方で、貧困と過酷な労働がなければ成り立たない「リッチな生活」がある、という現実のもとで、全体として資本主義経済体制はその腐朽化の度合いをさらに深めつつ、崩壊しつつあるのだ。しかし、残念なことに、この崩壊期を新たな社会経済体制を創出していくための機会として捉えうる主体(それはいうまでもなく労働者階級である)やその組織的運動が世界的な社会主義運動の敗北により、いまだ再形成されていないのだ。目立つのは、ただこの機会を「ビジネスチャンス」として金儲けしようとする新興資本家たちの、私的欲望のざわめきだけである。

 資本主義体制のもとで、分断化された個々のの労働者は、単なる一個の労働力商品に過ぎないが、それが、ひとたび互いに手を結び、ひとつの、共通の立場に置かれた、しかも次の歴史を生み出す主体としての階級であることを自覚したなら、それは資本主義体制に取って代わる新しい社会を生み出すべき巨大な力になり得るのだということをほとんどの労働者も労働組合も今では忘れ去ってしまっている。

 70年にわたる社会主義運動の失敗の歴史を顧みて、そこから何を学び、何が間違っていなかったのかを考え、再び、いかにして「万国の労働者、団結せよ」を旗印とした運動が生み出されうるのか、われわれの未来の歴史はそれにかかっているといえるだろう。

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