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2010年12月12日 - 2010年12月18日

2010年12月15日 (水)

20世紀後半からの資本主義社会を考える(10)マルクスの資本家的利用への警告

 昨今の資本主義社会の末期的様相には、「資本主義でGo Go」だった資本家的イデオローグたちにもさすがに「良心」の仮借を感じさせる事態になっている様である。その中には、バブル絶頂期にはマルクスなどとっくに「死んでしまった」と言っていたにも拘わらず、最近の資本主義的社会の末期的様相に対して巻き起こっているマルクス再登壇という状況に応じて、マルクスを適宜利用してやろうという動きもあることに注意する必要がある。

 大きな書店に行くと、マルクス・コーナーがあり、そこには資本論入門からマルクス人物伝までさまざまな「入門書」に混じって、「マルクスだったらこう考える」などという本もあって、出版業界にとってひとつの収益源になっていることを伺わせる。その中で、宮崎哲也(マスコミを騒がせている宮崎哲弥とは別人である念のため)著「マルクスは現代をどう読むか」ー強欲資本主義からポスト資本主義へ!」(秀和システム、2009)という本を買って読んでみたので、その感想を忘れないうちに記しておこう。

 著者は大学で教授の職にあってかたわら経営コンサルタントなどをやっている人らしい。著者は全体としてマルクスの考え方には好意的であるように見える。本の構成は現代の労働者の生活の一面を描いたエピソードが二つあり、それを挟んで前半にはマルクスの人物伝と資本論についての概説があり、後半には2008年の大恐慌の実情に関する記述(ここはその過程が詳細に書かれていてなかなかおもしろい)があって、そのあとに「金融資本と資本主義自壊のメカニズム」という章が続く。かなりマルクス経済学に関する本は読んでいるようである。そして最後に「ポスト資本主義への胎動」という終章が来る。

 前半の資本論概説は、教科書的に資本論のキーコンセプトについて解説してあり、著者が資本論を一応キチンと読んでいることが伺われる。しかし、その概念のとらえ方には平板で、核心的な部分で多くの疑問が生じるのであるが、特に気になるのは、資本主義経済のアキレス腱といわれる恐慌についての把握である。著者は恐慌の原因を3つ挙げ、第一に「貨幣」、第二に「生産と消費の矛盾」、第三に「商業と信用」としている。「貨幣」は、売りと買いの間を間接的にしているということを述べているが、これは貨幣を媒介とした商品市場が資本主義経済の必須条件であるから、当たり前のことであり、「信用」が思惑取引につながり、これが恐慌を拡大させることも事実である。問題は「生産と消費の矛盾」で述べられている、資本の有機的構成が高度化されると少ない労働力で多くの生産が可能となり、生産過剰になるとともに、労働者に対する分配率の低下が起き、賃金が低落し、それによって需要が減少するために、過剰に生産された商品が売れなくなり恐慌が起こるという把握である。

 宇野弘蔵は、恐慌のメカニズムで重要なことは、労働力という商品が本来資本の生産過程が生み出した商品ではなく労働者の生活の中で人間としていわば自然的に生み出されるために、資本の有機的構成の高度化に従って生み出される相対的過剰人口が存在するにも拘わらず、利潤率低減の中での労働賃金の高騰が避けられないことだと言っている。好況期においては、労働賃金の高騰による利潤の減少を、拡大再生産過程での生産手段商品の需要が高まることによる価格高騰から始まる商品全体の物価の高騰によってカバーし、利潤率が維持できるかのように見えるが実は物価高騰の過程でふくらむ信用の増加と利子率の高騰が、結局、投機的価格を想定して生産された商品が売れなくなることで信用が崩壊して資本価値がなくなることが恐慌の原因だとしている(宇野弘蔵「恐慌論」岩波書店、1978)。

 この恐慌の把握の問題は2008年に始まる現在の世界恐慌をどう把握するかにも拘わる大問題なのであるが、ここが、宮崎哲也氏のアキレス腱になっているようである。というのは、宮崎氏は、現代資本主義の重要な変曲点であったケインズ型資本主義についてはあまり触れず、政府の介入による消費主導型経済が結局その財政赤字で行き詰まるだろうという程度の把握しかないのである。おそらくそのため本の後半で、語られる「金融資本と資本主義自壊のメカニズム」は、金融資本の形成過程に関する記述がかなり詳しく述べられているにも拘わらず、結局は「新自由主義」というイデオロギーに先導された金融資本家の「強欲」が悪いのであって、金融資本がルールをまもり、マイクロファイナンスなどのように「人類愛」にもとづく労働者への利益配分に配慮した「公益資本主義」や、労働者が株主になることで資本家と同等の立場に立てるような仕組みなどを持ち出して、これが、マルクスの夢の実現へのステップであるかのように述べているのである。

 宮崎氏は、ケインズ型資本主義を「資本主義の社会主義化」として捉える誤り(国家独占資本主義に対する1970年代頃の把握にこういう考え方が多かった)と同様、公益資本主義や労働者総株主化による資本主義経済がマルクスの目標に向かうステップだなどという決定的な誤り(誤りと言うよりむしろ虚偽のイデオロギーをねつ造しているといった方がよい)を犯しているのである。

 そこに抜けている決定的な問題は、そのような社会が登場しても、やはりそこには生産手段を私的に所有する階級と労働力しか持たない階級が存在するということであって、それが社会を構成する二つの本質的に対立する階級であるということには何ら変わりはないのである。社会には必ず社会的に必要なものを生産する人たちがいる。生産手段の所有者によってその人たちの労働の目的が資本を維持増殖するために用いられ、社会的に必要なものは単にそのための手段として作られるという目的と手段が逆転した生産体制、それを維持するために労働者は常に自分の労働力を商品として売りに出さねば生活できない社会の仕組みが資本主義社会の基礎である。いくら労働者が株主になって経営に参加したとしても、それは誰かがどこかで労働を搾取されているから可能なのであって、すべての労働者が資本家になることなど絶対に不可能であることは明白である。またいくら「良心的で人類愛に満ちた」資本家が貧しい人々のために私利私欲を捨てて利益を分け与えたとしても、それは資本主義経済体制の中のひとつの小さなエピソードで終わらざるを得ない。資本のメカニズムはそんなささやかな「良心」にお構いなしに弱肉強食の論理を繰り返すだろう。それが資本の論理なのだから。労働者階級は資本家に施しを受けて生きるような社会を選ぶべきではない。

 要するに何をもって「ポスト資本主義社会」というのが決定的な問題なのである。われわれは「悪い資本主義」をやめさせて「良い資本主義」を目指すのではない。そんなインチキ・マルクス理論にだまされてはならないのだ。それらは単に労働者の賃金奴隷としての地位を恒久化し、マルクスの理論を勝手に都合良く解釈してそれを使って労働者の意識を資本家的世界観の中に飲み込もうとする意図の現れに過ぎないのだ。

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2010年12月14日 (火)

20世紀後半からの資本主義社会を考える(9)エコ産業や廃棄処理産業という資本

 タイミングよく、"mizz"さんからコメントを頂いたので、この問題に触れておこうとと思う。

 腐朽化した末期資本主義経済体制における大量消費社会(ケインズ流にいえば「消費主導型経済体制」)は、それなくしては資本主義経済そのものが持ちこたえられなくなっているために、一方で環境汚染や資源問題といった形で地球という閉空間における自然の限界にぶつからざるを得ず、大きな矛盾に直面しているのであるが、それを「エコ産業」や「廃棄処理産業」によって解決できるかのように装っているのである。

 mizzさんがタイで体験されたようにアジアの新興資本主義諸国では、先進資本主義国からの支援で廃棄処理問題に取り組んでいるという姿勢を政治的な世界では取るが、内実は労働者の生活などには目もくれず、支援を巡る廃棄物処理産業の利権の奪い合いになっているのである。それは、mizzさんも指摘されるようにいまの資本主義経済体制が、「消費者化された労働者」の生活から生み出される廃棄物の処理(これは本来、商品を作った資本家企業が責任を持って処理すべきものである)まで労働者が生活資料商品の購入のために得た労働賃金から支出させることで、さらに利益を獲得しようする構図を生み出しており、廃棄物の処理は、商品の価格に上積みされるか、購買者が別途「ゴミ処理代」や市民税の一部として負担することになるのだ。そしてこのような商品購買者の負担によって支払われた金を廃棄処理業者が利益として獲得し、ここに新たな資本が成長する。そしてトータルな廃棄物の排出量は一向に減らないどころか、どんどん増え続けているのである。

 いわゆるエコ商品やエコ産業も形は異なるが、このような腐朽化した消費主導型資本主義経済体制に「寄生」する典型的な資本である。エコ商品を購入することで、購買者が「地球にやさしい」人間の一人になったかのような幻想を抱かせつつ、結局はエコ商品をどんどん買わせ、無駄な消費を拡大させているのである。エネルギー危機に対応するという名目で役にも立たない風力発電機を法外な価格で地方自治体に売りつけた企業などもあることは周知の事実である。

 リサイクルやリバースエンジニアリング、エコ技術や新エネルギー開発などは、その技術的内容そのものはある意味で社会的成果であるが、それらすべてが、消費の拡大に貢献し、資本の成長に奉仕するためであっては何も意味がないのである。

 COP16などでのアメリカや中国の態度や、国家間での排出権の売買などという状況を見てもこうした矛盾は明白である。

 要は、全く当たり前のことなのであるが、「必要なものを必要な量だけ生産することで成り立つ社会」を生み出すことである。それが資本主義経済体制では不可能であることは徐々に誰の目にも明らかになりつつあるのだ。それは無駄な消費を最小限に抑え、資源の極限的な有効利用や、労働力と生産手段の合理的な社会的配置などが可能となる社会であり、そのためにはマルクスが目指していたような、直接的生産者である労働者がそれぞれの能力に応じてそれぞれの持ち場で社会的に必要な労働を行いながら互いに社会全体の生産体制を直接にコントロールできる社会が生み出されねばならないのである。

 私的利害によって過去の労働の成果を資本として獲得して、それにより生きた労働を収奪することで、無政府的市場原理にもとづき社会的生産活動全体を支配している「資本という妖怪」は、いまや断末魔の苦しみの中で悶えている。その中で、「企業が活性化されれば雇用も増える」などという支配階級のまやかしにごまかされず、資本家的意識における社会崩壊の苦しみを、労働者の階級的意識として新しい社会の生みの苦しみに転換することがいまこそ必要なのではないだろうか?そのような新しい社会を生み出すために必要な物質的・技術的条件はすでに十分整っているのだから。

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