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2010年2月7日 - 2010年2月13日

2010年2月12日 (金)

金融資本に支配された産業資本と「ものづくり」技術の終焉

 マルクスの時代には、まだ産業資本家が商業資本家と手を結んで経済の支配権を握っていたと考えられるが、それから150年後の現代では、金融資本が産業資本や商業資本を支配しているといえるだろう。

 もともと金融資本家は資本の回転(貨幣、労働力、商品とメタモルフォーゼしながら回転する)のうちに生じる遊休資本(ある期間貯蓄されたり土地などのような財産として蓄財された資本)を活用させるために登場したのであるが、それがやがて資本の回転のために不可欠な潤滑油のような役割を持つようになり、株式会社などの登場により、最初に莫大な資本を所有しなくても広く資本を収集できるシステムができると、それへの投資を左右する金融資本家が大きな役割を果たすこととなった。株などの有価証券を売買し差益を獲得する株式・金融市場が登場し、これが資本の動向に大きな影響を与えるようになったといえる。現代では、産業資本も商業資本も、持ち株会社を設立させ、株の売買の動向(つまり株主の株券売り買いの動向)が産業資本や商業資本の存立に関わるようになった。このような状態になると、いわゆる金融恐慌が社会経済全体におおきな影響を及ぼすようになるといえる。

 株はもともと、資本をあまり持たないが、起業して利益をあげる自信がある個人に資本家となるチャンスを与えるシステムである。株主はその起業家の株に投資し、そのかわりその会社が儲かったときには分け前にあずかろうというのである。

 これによって多くの資本家が登場し、あらたな会社が設立され、そして社会的に必要な生産がこれらの私企業によって成されるようになるのである。そこでは生産手段は、私企業の所有する財であり、労働者は自分の労働力と引き替えに、自分が生活の中で労働力を日々再生産できるに足りるだけの労働賃金を前貸しされて、それらの私企業の所有する生産手段のもとで生産的労働を行う。

 しかし、資本家達は自分の会社で利益をあげることが出来なくなってくると、自分の利益が減るばかりではなく、株が値下がりし、株主にも見放されることにより、資本を維持できなくなるのである。そしてそうなる前に彼は労働者のクビを切り、「合理化」を図り、会社を「スリム化」して何とか再び利益をあげることが出来るまで努力することができる。それでもダメなときは、より強力な資本に自分の会社を身売り(逆の立場からいえば「買収」)するか、いよいよとなれば会社更生法を申請して、政府からの手厚い保護に頼ることもできるのである。

 しかし労働者は、いったん解雇されれば、失業保険がもらえる間に、あらたな職場(労働力の買い手)を見いださない限り、無一文で路頭に放り出されるのである。「生活保護法」というのもあるが、自治体にその財源がなくなれば、これも打ち切られる。家庭をもつ労働者は、家庭崩壊、一家離散ということにもあり、孤独な路上生活者になるか、やがては自死するほかはなくなるのである。

 一方、資本家達も決して悠々自適というわけではなく、つねに国際市場での競争相手との熾烈な闘いに勝ち続け、シェアと利益を維持しなければ株主からも見放される。だからそのためには手段を選ばない。そこでの「論理」はまさに国家間の戦争の論理とほとんど同じである。労働者という兵隊を市場という戦場に引き出し、そこで利益の源となる剰余価値を生み出させ、必要がなくなれば彼らを不要になった道具と同然に廃棄し、資本経営においては諜略や謀略まがいの買収劇を演じる。そこには戦争の場合のような「合法的殺人」がないだけである。

 その中で、産業資本を傘下におさめた金融資本は、それによって増え続ける過剰資本を、金融資本市場を通じて世界中に流動させ、そこからの差益を獲得するための競争に明け暮れているのである。

 だからいまでは産業資本家は金融資本の支配のもとで新たな剰余価値を生み出すための機能を発揮させられている「機能資本家」として扱われているといえる。産業資本家の機能はいくつかの役割分担として分業化され、全体の意志決定に責任を待たされるCEOがその代表として置かれるのである。しかし彼の意志決定は言うまでもなくそれを支配する金融資本の意志を反映せざるを得ないのである。

 戦後一時期に勃興する新産業資本のもとで培われた「ものづくり」の高度な技術も、いま、金融資本家にとっては、流動資本の差益を獲得するためには切って捨ててもよい存在となっている。アメリカがその状態をすでに30〜40年前に経験してる。そしてイギリスはそれより遙か前の80〜100年前にそれを経験している。

 「ものづくり」の技術は金融資本の支配する国ではもう不要なのである。そして産業資本家達は、労働賃金の安い(つまり労働力を日々再生産するために要する生活資料の価格が安い)国々へとその「ものづくり」による剰余価値獲得の矛先を向けることになるのである。

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2010年2月10日 (水)

何が間違っているのか?(その3 アメリカ資本主義のグローバル化)

 マルクスが資本論を書いた時代は、イギリスの産業資本主義社会が最盛期を迎えた時代であった。そしてその後、資本主義社会は、産業資本に対する金融資本の支配が進み、経済恐慌という資本主義経済の本質的矛盾に何度も直面し、これを植民地政策や戦争という強硬手段で何とか切り抜けようとしたが、第一次大戦という破局とロシア革命という危機を迎え、いよいよ終焉が近づいたと思われた。しかしその拠点をアメリカに移すと同時に、新たな形にメタモルフォーゼしていったのである。基本的には、現代の資本主義社会はそのアメリカ型資本主義の延長上にあると見てよいであろう。

 20世紀の後半、アメリカ型資本主義は、社会主義圏の台頭に対抗するため、軍事力とドルの国際的支配を背景にグローバル化していった。その中で、以前にも述べたように、政府の公共投資や金融政策などを通じて中産階級化した労働者階級と彼らを「消費源」といしたあらたな利益回収の仕組みを確立し、「大衆社会化社会」を現出していく一方で、軍需産業を基幹とした技術革新が次々と行われ、急速にその力を拡大していった。そしてアメリカ資本主義の傘下にある先進資本主義国はその恩恵にあずかったのである。

 しかし、そもそも基本に資本主義経済の本質的矛盾を抱えたままなので、それはやがて、さまざまな形で破綻を明らかにせざるを得なくなってきた。公害、絶え間ない国際紛争での戦争、人種差別、そして金融資本が産業資本を支配することから来る、流動資本の過剰化とその争奪戦。これは根無し草のバブル経済という形で当然ながら破裂した。そしてそれに続く、社会保障の崩壊、公的医療の崩壊、公教育の崩壊、労働者階級の分裂と貧困化、などに見られるように、見せかけの「中産階級化社会」は崩壊しつつある。

 しかし折良く、20世紀の末に、アメリカ資本主義の「天敵」であった社会主義圏が一部を除いて「自滅」したのである。アメリカ資本主義はこれによって救われ、すでに崩壊しかけていたにも拘わらず「グローバル資本主義」として経済の「世界標準」となり得たのである。

 そしていまわれわれはそういう状況の21世紀型資本主義社会に「実存」しているのである。だからマルクスの資本論に展開される事実を、ただ単純にいまの資本主義社会に当てはめてみて、「いまの社会はもはや資本主義社会ではない」などと思うのは全くの間違いである。現に、資本論で分析されている資本主義社会の本質的矛盾(原理的矛盾)をそのまま内包しているのであって、ただその現れ方が大きく変わっているに過ぎないのである。

 それでは、どのようにその現れ方が変わっているのであろうか、次にそれを考察・分析してみよう。本来ならば、こうした分析はマルクス経済額の専門家が行うべきなのであるが、残念ながらいまのマルクス経済学者にそれを期待するのは難しいようなので、私のような「素人」がこれを行わざるを得ないのである。したがってマルクスの行ったような精緻な分析は到底望み得ず、かなりおおざっぱな、しかも直感的な「分析」となることをお断りしておく。(以下次回に続く)

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2010年2月 9日 (火)

何が間違っているのか?(その2 価値の源泉とその資本への変貌)

「価値」という概念がどのようにして成立してきたか、マルクスは資本論の冒頭で、その秘密を明らかにしている。

 一社会がその社会の生産物をその中だけで消費し尽くしてしまう状況から一歩進んで、剰余生産物を持つようになると、それを他のモノと交換するために別の社会と交流を始める。そこから「商品」という概念が生じる。商品とは、もともと何かのために作られたり採集されたモノがその使用価値を果たすことがなくなったので、他の有用物と交換に出されるモノである。そのとき交換相手の所有する商品との間で価値関係が発生する。自分の持つ商品は自分にとって使用価値はないが、相手の持っている商品は自分にとって使用価値がある。双方にこの関係が成立したときに交換が始まるのであるが、そのときに自分のもつ商品の一定量は相手の持っている商品の一定量と等価であるという考え方が背後に生じている。相手も同様である。では、この「等価」は何からきているのか?異なる使用価値の一定量の商品間に成立する「等価」という抽象的な概念こそ「価値」の基本であり、それを形成する実体は、それらの商品を生産あるいは採集するのに要した平均的労働時間であるということをマルクスは明らかにした。

 やがて、たまたま交換したい商品を持った人に出会うという「偶然」に依拠するのではなく、必然的に、いつでもどんな商品とも交換できるような、第三の商品が登場する。価値そのものを表現する実体としての貨幣である。こうして商品交換の世界が成立し、ある社会と別の社会をモノの交換で結ぶ商品経済の仕組みが出来ていったのである。

 商品経済の発展のもとで資本主義経済社会が、登場することにより(この過程は資本論 第24章「本源的蓄積」に述べられている通り、決して牧歌的なものではなく、略奪と狡猾の歴史である)、歴史上はじめて、すべての生活必需品が最初から商品として作られる社会が登場した。そしてそのような社会は、それらの商品を生産する人間の労働力までも商品としてモノと同等にあつかうことによって初めて完全な形で成立し得たのである。

 社会的生産物の私的所有とそれを商品として売買する「自由」を法的に保障する社会を生みだし、それを根拠として成立した資本主義社会は、だから生産手段を持たない人間には自らの労働力を商品として売りに出す「自由」を認め、その一方で、その労働力を購入し、自ら所有する生産手段と結合させて、社会的に必要な生活必需品やそれを生産するための生産手段の生産を行い、それによって利益を上げる「自由」を認めたのである。

 ここに、人生において終始、自らの労働力を売りに出さねば生きて行けない労働者と、その労働力を購入してそれによって利益を上げながらリッチになり、生産手段を確保し拡大して行く資本家という関係ですべての社会的に必要な生産が行われる社会、資本主義社会が成立したのである。「資本」とは企業の経営に必要な資金をいうのではなく、貨幣が様々な形態でメタモルフォーゼしつつ「資本」として社会を支配し人間をモノ同様に稼働させる賃労働と資本の関係を維持させている状態すべてを指すのである。

 ここで重要なのは、すべての社会的に必要とされる「富」は生産的労働者の労働によって生み出されたものであるのに、資本家は「私的所有の自由」を盾に、私的な生産によってこれを行っているということである。しかもこの私的生産は私的な利益のために行われるのであって、社会的奉仕として行われるのではない(資本家はしばしば「社会貢献」という言葉を使うが、この場合の社会貢献は手段としてのそれであって、目的としてのそれではない)。

 生産的労働者が日々生み出す価値は、労働者自らをその生活において再生産するのに必要な生活必需品の価値(これと等しい価値が労働賃金として労働者に前貸しされる、それが資本家にとって労働力の価値なのである。従って労働賃金は厳密な意味での「所得」ではない)を遙かに超えて、その何倍もの価値を生み出しているのである。そしてそれらの莫大な量の「剰余価値」は、資本として資本家に私的な利益をもたらす源泉となっているのである。本来ならば、これらの膨大な量の剰余価値は、社会全体を維持し発展させるための公的な社会的共有ファンドとして蓄積され、すべての労働者たちのために使用されるべきものであるにも拘わらず。

 この基本的事実が実証的に明らかにされているのが資本論である。資本論によってこのことを理解したとき、私は、世の中を見る目が一変したのを覚えている。

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2010年2月 8日 (月)

何が間違っているのか?(その1「民」とは何か?)

 「民主的」とは英語では"democratic"である。これはギリシャ語のデモス(市民)という言葉からきていると言われている。しかし、この言葉が好んで用いられるようになった近代資本主義社会では、これはあるもっとも重要な事実を覆い隠す言葉となっている。

 「民」ということばでひとくくりにされている概念の中で、資本家と労働者の階級的な対立が覆い隠されているのである。

 資本家階級は、歴史的に見れば、封建的領主などの支配権力と対立する「市民(ブルジョアジー)」として登場し、「自由、平等、博愛」をスローガンとして闘った。しかし、そのときは、自分たちのために利益をもたらしてくれる労働者階級を味方につけていたのである。いまにしてみれば、彼らの主張は、商売の自由であり、その機会の平等であって、博愛は労働者階級を味方につけるための「つけたし」に過ぎなかったと言わざるを得ない。それはいまでも民主党の「友愛」を見て分かる通り少しも変わらない。

 だが、産業資本主義社会を築き上げ、社会的経済的支配権を確立すると、今度は「産業界」の代弁者として、産業の繁栄こそひとびとが幸せになれる社会を築き上げるのだと主張する。そして、資本家からと同様に労働者からも所得税などの税金を「平等に」徴収し、不景気な時期がきて、資本家の経営がうまくいかなくなると、それを政府が税金によって徴収した資金を投入して支えてくれる仕組みをつくる。労働者階級は、会社が潰れて自分が失業すれば、生活できなくなるので、会社をもり立て、会社更生のために税金が投入されても、仕方がないと思う。そしてはやく会社が繁栄して自分たちの給料が増える日を心待ちにする。

 かつて盛んだった労働組合運動も、いまでは、それを支える組織や理論が枯れ果ててしまい、いまや、「春闘」など名ばかりの存在となり、資本側に、労働者の雇用と生活を守ってくれるよう懇願する立場になってしまった。労働者階級は資本家階級の「友愛」に頼るしかすべがないのである。なんと情けないことか!!

 バブルが崩壊して不況が始まった頃からは、自由に仕事が選べる仕組みとして、派遣労働者制度が認められ、非正規雇用が大々的に始まった。一見、労働者の自由な労働選択を優先しているかのような見かけとはうらはらに、実は、この制度は、労働基準法の趣旨を実質的に空無化し、資本家側に、解雇の「自由」を与え、正規雇用者にも際限ない過重労働を課す「自由」を与えるものであったのだ。

 そして、景気が上向いて企業の業績が上がっても、増大し続ける失業者を生みだし、あるいはまた、惨めで低賃金かつ不安定な仕事に就かざるを得なくても数字上の「雇用拡大」が維持できれば政治家たちはそれを「政治力の成果」として声高に主張するだろう。

 そして、こうした社会を批判的に捉えて、分析できるはずの大学の研究室も、ほとんどすべて、産業界への貢献を旨とする研究教育体制へと変質してしまったのである。産業界への貢献という美名のもとで、本来の批判的視点を捨ててしまうことが、結局は社会を崩壊に導くということへの自覚が全くといってよいほどにないのである。

 そう言う意味でいまの資本主義社会は、じつにおそろしい社会である。失業者や自殺者が年々増え続けているというのに、そうした事態を生み出している原因を根底から捉え批判する目も抹殺してしまったのだから。

 何かが間違っている。そしてみなが薄々それに気づいていながら、ただ日々の生活の中でその疑問を深く追求することなく、ただ無責任な商業マスコミの喧噪に自分の判断を委ねているのではないだろうか。

 われわれの社会は、それぞれの分野でそれを支える日々の労働を行う者達によって成り立っているのであって、資本家同士の国際的市場競争に勝つことが労働の目的ではない。欺されてはいけない。我々は日々、自分たちの労働力を再生産し、その上で社会を支えるインフラを構築するに十分な富をわれわれ自身の労働の中から生み出しているのである。ただそれが、資本家達によって奪われ、彼らの利益争奪戦に投入され、一部の資本家に集中することを合法化する社会に生きているが故に、失業や自殺に追い込まれているのである。

 マルクスは150年前にその資本主義社会の基本的な仕組みを完膚無きまでに明らかにしているのである。われわれはいまでも、いやいまだからこそ、資本論に展開された資本主義社会の分析を避けて通ることは出来ないのだと思う。

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