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2010年2月14日 - 2010年2月20日

2010年2月18日 (木)

閑話休題 厳冬の記

 このところ、シリアスなことばかり書いてきて、いささか精神的に疲れてきたので、またまた閑話休題といこう。

 先日、沖縄の知り合い一家が来宅し、彼らの要望で、築地の魚市場を見学に行った。私も東京生まれで長年首都圏に生活していながら、築地市場は一度も行ったことがなかった。珍しく寒い厳冬の曇り日で、市場に着いたのは午前10時頃で、もうプロたちの競りは終わっていたが、まだ、買い物客や残りの魚を売りさばく人達や運搬車で残物の運搬や処理をする人々で狭い場内はごったがえしていた。仕入れ人達のトラックが、何の交通整理もない人車ごちゃまぜ通行の中をすいすいと見事に人をよけながら通っていく。とにかくすごい活気で圧倒された。

 場内のコマ割の店舗は古くからの屋号を掲げ、その店でずっと取り扱ってきた商品を手際よく売りさばいている。威勢の良いおっさんやおねえさん(この中には外国語なまりのある人もいた)は、もう売れ残りを残すまいと一生懸命だ。珍しい海産物があちこちの店にあって、興味津々だった。

 私はすっかり築地市場の雰囲気が好きになった。この生鮮食料品という、日々われわれにとってもっとも必要な品々を流通販売するこの市場は、長い年月をかけていわば「自然発生的に」育ってきた商品市場の典型であろう。

 午後になって、知り合い一家のリクエストで浅草に行ってみることにした。地下鉄を乗り継いで蔵前駅まで行って、そこから途中しにせのそば屋に寄って昼食を摂ったあと、雷門から仲見世に入った。例の大提灯は昔のままだったが、仲見世に入ると、一昔前にここを訪れたときとは、何か雰囲気が違うと感じた。整然と並んだ店は小綺麗だがそこに並ぶ品々は、いわゆるお土産品であって、これは今も昔も変わらないのだが、例えば、「あげまんぢゅう」や「人形焼き」などは特定の店の看板商品であったはずなのが、いまはあちこちでそれを売っている。また明らかに外国人目当てと思われる、ど派手なキモノや扇、人形などを売る店が増えた。全体として、何かしら「虚偽を売っている」という雰囲気があるのだ。

 食の流通販売という都市の基幹的機能を果たす築地市場と、いわゆる歓楽街にある観光地としての浅草とではおなじ商店街でもこんなに雰囲気が違うものか、と改めて感じた。

 商品市場というものが、生活資料の流通販売という場面で成長してきたことは、いわば歴史の必然であったように思う。そしてその発展上に「売るため」を至上の原理とするシステムが出来上がり、すべての生産、流通など世の中に無くてはならない仕事に従事する人々をも資本という怪物が支配権を握る世界に投げ込んでいったのだなと、なんとなく納得したような気持ちだった。

 商品経済は今後どのような形に発展してゆくのだろうか?それを予想することは難しいが、少なくとも、世の中に無くてはならない仕事に励む人達の「生き血」を吸いつつ「金が金を生む」という幻想に囚われた連中が商品市場を支配していける日はそう長くは続かないだろうと実感したのである。

 

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2010年2月16日 (火)

住む場所を奪われた人々

 「住む場所を奪われた人々」といっても、これは路上生活者のことではない。わが資本主義社会の労働者階級である。人生のすべてを資本に捧げ尽くして、退職金をほとんどすべてはたいて、ついの住まいを建て、余生を送るわが労働者階級になぜ、「住む場所を奪われた」というのか?不思議に思われるかも知れない。

 しかし、資本主義社会は、じつは、農民から土地を奪い、耕作地から追い出すことで、生産手段を奪われた彼らが工場労働者として資本家の工場に吸収されていったという歴史的事実(資本論 第24章 いわゆる本源的蓄積 第2節 農村住民からの土地の収奪 を参照 日本でも明治維新以後似たような状況があった)があり、そこに大量の無産者による労働者階級が誕生したのである。以来、わが労働者階級は、つねに自分の労働力だけを「売りに出せる商品」として所有する無産労働者となり続けている。労働賃金は基本的に、その労働力を日々再生産するに足る前貸し資本であって、決して本来の意味での「所得」ではない。

 労働賃金でまず購入が必要なのは「食」と「衣」である。そして「住」としては従業員寮や借り上げアパートなどが使われる。そして自分の家を持つことが人生で最大の夢となる。やがて、退職する頃になると、賃金から月々わずかながら貯蓄をして貯めた預金で、余生を送るための家を購入する。こうして、労働者階級は生涯働き続けて資本に莫大な利益を与えながら、自分は生活に必要な最低限の物質的条件を何とか維持するに留まるのである。もちろん比較的若いときに、ローンで家を購入できる恵まれた労働者は、いわば、ローンという形で、借金を背負う(貸し手の金融資本はこれによって莫大な差益を得る)ことで定年までの労働賃金の先取りを契約されるのであって、途中で病気などのやむを得ない理由で会社を辞め、賃金が見込めなくなると、持ち家は手放さなければならなくなる。

 そもそも、人間が人間として生きていくためにはそれに必要な物質的条件がなければならない。それは自分たちが住む地球の一部から獲得するのである。土地はそのすべて(生産手段も生活手段も)を生み出す基本的物質条件である。労働者階級はこれを資本に奪われているのである。

 しかしなぜ、人間の労働が生み出したものではない、土地が私的に占有され、それを売買することができるのであろうか、しかも途方もない高額な価格で?

 そもそも価値とは、その社会に必要な生産物を生産するために必要な社会的平均労働によって形成され、それに要する労働時間によって価値量が決まるものであったはずである。しかし、前にも触れたように、価値はそのままの形で直接商品の価値を表示するわけではなく、一定の貨幣量を意味する「価格」によって表示されるのである。価格は商品市場の需要と供給の関係で変動し、その変動の中心に位置するアンカーポイントが価値に当たる(需要が供給を上回る場合は、資本側はより多くの利潤を引き出すために商品の供給に必要な労働力を確保して供給量を増やすためにやがて価格は下がるし、その反対の場合は労働者を解雇して供給量を減らす)のであるが、そうであれば、人間の労働が生み出したのではない、したがって本来価値がない土地に価格が付くのは、純粋に需要供給の関係だけに基づくと言ってよいだろう(この価値問題については別項で述べることにする)。だから土地には際限もなく高い価格が付けられ得る。ちょうど需要に応じて供給量を増やせない芸術作品や骨董品がオークションなどで馬鹿高い値を付けるのと同じである。いくら高くても買い手がいればそういう値が付けられるのである。

 実際、労働者階級の生活の中でもっとも高い買い物は住宅であり、そのうち土地の価格がしめる金額の比率が圧倒的に高いといえる。住宅は、需要が多ければ建材工場などを増設することで供給量を増やせるから市場競争のもとでは一定以上の価格にはならないのである。

 少し話がやや飛躍するが、本来、土地は、空気や水や天延資源などと同じように、あらゆる人間が必要としており、しかも人間が作りだしたものではない以上、誰かがこれを私有あるいは占有することは理に反していると言わざるを得ない。言うなれば、それらは人類共通の自然的存在条件なのである。

 これに対して、通俗的な「社会主義論」では土地を国有化するという話が出てくるが、これは、実はそれほど簡単な話ではないのである。「国家」の本質が何であるかを問題にしなければならないし、共有と私有の関係も深く考察しなければならないからである。

 こうした様々な問題を含みながら、資本家たちは、蓄積した利益を土地に投資し、そこから莫大な差益を獲得するために血眼になっている。土地を奪われ、それを取り戻すために生涯を掛けて働き続ける労働者階級が生み出した莫大な剰余価値とそれが蓄積されてグローバルに流動化された過剰資本の分け前にあずかるために、彼らはあらゆる手段を講じて奔走するのである。そして労働者階級は、会社が国際市場競争に負けないようにと「労使一体となって」がんばり、「合理化」で解雇される仲間にも「この不景気じゃ仕方がないさ」とあきらめ、その影響で自分の労働時間を増やされて、身体を壊してしまっても、「これでも一生懸命働いたんだから仕方ないさ」と自分の無力のせいにしてしまう。

 さあ、「消費税」に色気を見せ始めた民主党政権が、この実情をどこまで理解しているのか??

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2010年2月14日 (日)

国内生活基盤産業の衰退と寄生的産業への傾斜

 金融資本の支配による、ものづくり技術の衰退は前回述べた通りであるが、政府や資本家たちのそれに対する対応は、おおかたにおいて「日本は付加価値の高い商品の世界で勝負すべき」である。

 だがこの「付加価値」の正体も本ブログですでに明らかにしている。つまり個人の価値観を刺激して実際の価値以上の市場価格で商品を買わせるテクニックなのである。これは裕福な階級相手に金儲けをしようとするやり方であって、貧乏人はラチ外の話である。

 では、実際にすべての社会的価値の生産を行っていながら、そのほとんどすべてを金融資本、産業資本、商業資本などに吸い取られてしまっているわが労働者階級はどうなるのか?

 まずは労働賃金という形で資本家から労働者に前貸しされる資本(マルクスの言葉で言えば「可変資本部分」)は、労働者がその労働力を日々再生産するために必要な生活資料商品や子供の教育費などの価値である。この部分は、労働者が生活に必要な商品を購入したり学費を払ったりすることで、生活資料商品をつくり、販売する資本家や教育産業を営む資本家の手に渡り、結局は資本家階級のもとに還元されるようになっている(これが彼らが「消費拡大」を必至に宣伝する所以である)。労働者はこれらの生活費をできるだけ切り詰め、この賃金のわずかな部分を貯蓄にまわし、それを自分の楽しみのために使う。ここで彼はようやく憂き世の憂さを晴らすのであるが、これがまた娯楽産業という資本に吸収される。近年ではこの娯楽産業が国内全産業の大きな部分を占めるようになった。アニメ、ポピュラーミュージック、まんが、旅行、趣味さまざま、などである。

 その一方で、生活必需品といわれる、食料、衣服、(住宅については別の機会に述べる)などは、労働賃金の安いアジア諸国の労働者の手で生産され、商業資本家の手によって国内市場で販売される。われわれの身の回りにある生活必需品(食料を含めて)のおそらく90%以上がこうしたアジアの低賃金労働者か日本の非正規雇用労働者の労働によりもたらされたものである。これらの生活基盤産業は、資本としては国内の資本家が支配しているかも知れないが、実際に生産しているのはほとんど外国なのである(最近では「国内産」を名乗っていながら、その実、巧みに法の網をくぐって外国産の中身を取り入れている商品が多い)。

 実はその他の商品においても、労働賃金の安い外国で作られているものが驚くほど多い。子供用のおもちゃ、文房具、オフィス用品、住宅用品、室内装飾品、家具、調理器具、カメラ、自転車、靴、鞄、などなど挙げればきりがない。つまりほとんどの生活用品や趣味用品は日本では作られていないのである。

 これは何を意味するのか?第一に、日本の労働者階級の大半が、生産的労働を行っておらず、外国で生み出された生活資料を販売、流通させる部門、いわゆる娯楽産業部門、サービス産業部門、金融資本の機能を分担する銀行や証券関係の仕事、教育産業などに携わり、最近では、福祉や介護関係の労働を行う人々が増え続けている。農村では農業が衰退し、一番大切な食料の確保も外国任せである。

 単に、「雇用の拡大」と言っても、この現実を見ると、日本の産業資本が社会的に必要な生活基盤資料の生産において、ほとんど価値の生産を行っていないことがわかる。もっぱらアジアや中国の労働者が低賃金労働により生み出した莫大な剰余価値を金融資本が吸い上げ、国際的に流動化させ、さらに差益を奪取する中で間接的にその上前をはねていることが分かる。

 いまや日本のほとんどの資本家はアジアや中国の労働者の労働に寄生してその利益を国内で分配している状態なのである。日本の労働者階級もその意味では、そういう寄生的資本の分け前にあずかり、そのしもべになっているのである。

 こうした事態にたいし、「がんばれにっぽん!」といったある種の民族主義をかんばんに階級対立を隠蔽して「反中国」の旗を振ってみても、それはとんでもないお門違いである。なぜなら、中国で低賃金労働に喘いでいる労働者たちは、彼らの生み出した剰余価値を日本、アメリカやヨーロッパの(そして最近ではアラブ産油国や中国の資本家も含む)グローバル資本を動かしている金融資本家たちに吸い取られ、その意味では、わが日本の労働者達と本質的に同じ立場にあるのだから。

 アジア諸国との「友愛」を主張するなら、こうした立場に置かれた労働者階級同士の団結こそ基本であり、ともに自分たちを不当に苦しめているグローバル資本家階級(この中には一党支配による「国家独裁資本主義国」になってしまった中国の支配階級も含まれる)と対決することが必要であり、そこから本当の意味での友愛が生まれると考えるべきであろう。

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