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2011年1月10日 (月)

エマニュエル・トッド「空回りする民主主義」を巡って(その1)

 1月8日の朝日新聞朝刊にフランスの人類学者エマニュエル・トッド氏のインタビュー記事が載っていた。なかなかおもしろかったので感想を書いておこう。

 アメリカ、日本などで劇的な政権交代があったにも拘わらずその後新政権がうまく機能せず、国民との間の齟齬を深めている現実について、トッド氏は、かいつまんで言えば次のように主張する。

 これらの問題の表層には自由貿易という経済の問題があり、深層にはハイパー個人主義とでもいえる精神面の問題がある。

 グローバル化が進んだ経済では、政治上の問題が結局は自由貿易が解決してくれるというイデオロギーが広がっており、政党の主張の違いが本質的な問題ではなくなっていること。しかし、現実には、世界中で需要が不足し競争が激しくなり、途上国の安い労働力があると賃金の高い国の人々は無用だと見なされ、社会が縮みつつあるという感覚が生まれる。G20で各国が景気刺激策が必要だと訴え、そうした政策をとったにも拘わらず、企業の収益は増えたが雇用や賃金はまったく改善されなかった。結果的に、それらの政策は中国やインドのような新興国の景気を刺激しただけだった。

 一方で深層では、個人の精神面で、社会が個人というアトムに分解されていく、ハイパー個人主義のような傾向が強くなった。その結果、国をはじめとする社会や共同体で人々が何かについて一緒になって行動することが考えられなくなっている。近代的個人の誕生と民主主義は密接に結びついているが、より個人化の進んでいるアメリカやフランスのような国々が民主主義の壁にぶつかっているのだ。日本やドイツのように共同体的結びつきが残っている国では問題はあまり深刻化していない。民主主義の普及には識字率の向上が寄与しているが、高等教育の普及によって先進諸国は文化的平等の立場から抜け出てかえって教育格差が深刻となる事態を迎えている(トッド氏はこれが格差社会を生み出していると言いたいのであろう)。

 表層での自由貿易主義的思想は、エリートたちが知性を発揮してなんとか克服できる問題(たとえば、自由貿易主義に対抗して欧州連合のような単位での保護主義を採り、それによって経済と政治の規模を近づけるなど)であるように見えるが、深層の超個人主義的思想については、欧州で共同体を支えてきたキリスト教が政治思想に変化し、民主主義を生み出してきた。しかしいま共同体としての国において国民さえも一体となって動けなくなり同じ共同体に生きているという感覚が解体しつつある。しかしこれに代わってみんなが一体となれるような新たな精神的協同体の支柱が築かれる可能性は当分出てこないだろう。

 以上のようなものであるが、私のきわめておおざっぱな把握なので、多少誤解があるかもしれないことをお断りしておく。

 このトッド氏の主張は、昨今のアメリカや日本などを中心とした政治と経済の行き詰まり現象を話題にしていることで興味を引かれるが、彼が挙げる表層の問題と深層の問題の関係がいまひとつピントこない、というかその辺の最重要問題がぜんぜん深められていないように思うのである。そこで私なりに問題を提起してみると、次のようになる。

 第一に、自由貿易と経済の「グローバル化」とは何を指すのか、そしてそれがどのようにして生じてきたのかという問題。第二に、近代的「個」を生み出してきた社会経済的背景の形成過程と、今日のグローバル化した経済での自由貿易主義が台頭する社会経済体制の形成過程がどのように結びついているのか。第三に、なぜそれらが壁にぶつかっているのかを両者の関係において捉えること、が必要なのではないだろうか。さらに言えば、いま話題のセルジュ・ラトゥーシュの「経済成長なき社会の発展」との関係をどう見るのか、という視点もほしいところである。

 これらすべてに的確な回答を求めるのは問題が大きすぎて、現実的でないかもしれないが、考えられる範囲でこれらの問題に少しずつでも自答してみようと思う。

 まず、最初に、私が感じたトッド氏の主張全体の印象としては、彼の目指す方向はかなり危険な要素を孕んでいるようだということである。かつて世界的に経済が行き詰まり、失業者が街にあふれていた1930年代に、ニーチェやシュペングラーのような西欧的近代の終焉という思想から導かれたナチズムによる新しい共同体の精神的支柱(その中には彼の高名な哲学者ハイデッガーもいた)と、経済のブロック化の主張(たとえばアメリカやイギリスに対抗した「大東亜共栄圏」の構想)がどのような結果を導いてきたかを思い起こしてしまうからである。

 いまのアメリカを中心とした「自由貿易主義」の思想はそのような思想の挫折の後に現れたものであることを忘れてはならないだろう。さらにトッド氏はこれからは戦争による問題解決はありえないと言っているが、なぜそう言えるのか?私は第二次世界大戦の当時とは全くことなる「論理」で再び戦争による解決を目指す人々が出てくる可能性は十分にある様に思う。

(続く)

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