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2011年1月13日 (木)

エマニュエル・トッド「空回りする民主主義」を巡って(その4)

 さて、トッド氏の主張でもっとも大きな間違いは、自由貿易主義などの経済的政策を「表層」の問題として捉え、パイパー個人主義など、諸個人の実存に関する問題を「深層」の問題として捉えていることであろう。実は社会経済的な問題こそ、諸個人の実存の在り方を基本的に規定する「下部構造」の問題なのである。

 先に見てきたように、自由貿易主義の背景となっている、経済システムは、「自由な」商品所有者としての資本家と「自由でない」直接的生産者たる労働者という関係のもとで可能になる思想であったと言える。そしてその本質的矛盾を孕んだ経済の「自由貿易主義」がそのグローバル化と齟齬を生じているのである。

 世界中の人々が「自由な商品所有者」になり得ると考える人たちには、最終目的は、世界中が自由な貿易による経済で支配され、それをすべての人々の「民主主義」が政治的に支えていくという構図であろう。しかし、現実はそうでない。自由でない労働者階級が直接的生産を支えているにも拘わらず、その労働者の能力すら「自由に売買できる商品」として所有(雇用という形で)できる人たち(資本家)の「民主主義」は、実は世界中の圧倒的多数の「自由でない人々(労働者階級)」の犠牲の上に構築された幻想の思想なのである。

 彼らの言う「民」の主体は「自由な商品所有者(資本家)」なのであって、「自由でない直接的生産者(労働者)」ではないのである。だから経済のグローバル化により、資本家階級によって世界的規模で確立された労働者階級への支配体制(搾取体制)が、たえず各国の労働者による、矛盾への抗議や闘争となって表れるのである。しかし、その労働者の抗議や闘争は、未だ、「自由経済」や「民主主義」というブルジョア的思想の支配的な影響力によって覆われているために、残念ながらさまざまな形で歪められている。それが、ブルジョア思想を「普遍的な思想」として信奉する人たちにとっては「空回りする民主主義」という風に見えるのであろう。

 トッド氏が指摘する「ハイパー個人主義」は、何が何でも「自由な商品所有者」たる個人の利害を優先する、資本家的個人主義の行き着くところであり、「ハイパー個人主義」の基底にある近代的「個」という実存は結局、国際市場での自己の主張を通すために資本家同士が結束して国家や共同体というものをその手段(民主主義という政治形態を通して)として必要としながら、共同体の実質的推進力となっている直接的生産者たち(労働者)の人間としての正当な主張と衝突せざるを得ない本質を持っていると言えるだろう。

 最初に挙げた、20世紀前半の「西欧の没落」的雰囲気の中で、近代的「個」の限界が表面化し、それを支えてきた資本主義社会の危機を迎えたときに、西欧社会の「個」に対抗してあらたな共同体的結束を生み出そうとして登場したのがドイツにおいては「血と大地」をスローガンとするナチズムであり、日本では天皇を中心とする「日本精神」であったことを忘れてはならない。

 さらに言えば、その資本主義経済体制を土台から覆そうとした、社会主義革命が、目指したのも、近代的「個」の超克であり、それがマルクスの経済理論を基軸とした、共同体としての「共産主義社会」というものであった。

 前者(ナチズムや日本精神)は、資本主義経済のメタモルフォーゼの中での「目標」であり、後者は、それを根本的に超えようとした思想の中での目標であった。

 しかし、多大な犠牲を生み出すことで両者ともに挫折し、そのあとに生まれたアメリカ主導の消費主導型資本主義経済の上に立つ「自由と民主主義」と、マルクス思想のスターリン的な著しい改ざんによって歪められた「社会主義国家」という現実であった。

 いま、歪められた「社会主義国家」はその内部矛盾からほとんど消滅し、残された中国が、皮肉なことに、崩壊しつつある資本主義社会と手を組んで、グローバルな労働者階級の搾取体制を尻押ししているのである。

 こうした状況の中で、われわれは、再び、諸個人と共同体の問題を深く考え直さねばならない地点に立たされている。そのキーポイントは「政治と経済の規模の適正化」でも「ハイパー個人主義に代わる共同体の精神的絆の確立」でもない。

 それは一言でいえば、社会を成立させている、直接的生産者たち自身による直接的な社会システムのコントロールであろう。いまや世界中が実質的に一つの経済圏として結合しつつあるときに、これを安易にブロック化したりするのではなく、それぞれの地域や国で行われているその社会を支える生産的労働者がそこでの政治的実権を掌握し、資本家のためではない、労働者のための政治を行える体制を確立することが必要であり、その上で、その立場から資本家の利潤追求活動を介さないで直接に社会の生産システムをコントロールし、無駄な消費に基づかなくとも成り立つ経済システムを確立すること。そして、各国でのそうした運動と連携して、世界的な規模での資本家階級を介さない直接的生産者自身による生産と消費のコントロール・システムを確立し、地球全体での資源や環境を維持する体制を確立させることであろう。

 そのためには、いまのような、資本家的自由と民主という思想が支配的思想となっている社会での任意の立候補者の選挙という形ではなく、社会でさまざまな形での分業を担って働いている人々が、直接その立場からの代表者を送り出し、それらの人々による政治的な運営が必要となるだろう。社会の成立に必要なさまざまな職場での労働に携わる人たちによる直接的な社会の運営と、それによって自然に生み出される社会的分業形態全体が一つの結束をもたらすような形での共同体こそわれわれが求める形なのではないだろうか。そこに初めて、私的所有を前提とした資本家の商品市場での利益追求の「自由」とそれを可能にする政治形態である「民主主義」を土台とした「近代的個」という実存を超えた、新たな個人と共同体の関係が生み出され得るようになるのだと思う。

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コメント

野口さんの丁寧・詳細、噛んで含める、親切な解説を読みながら、改めて、エマニュエル・トッド氏の論説を読み返した。遅ればせながら、ここに、彼の役割や狙いについて、気がついたところを、書かせてもらうことにした。

まずトッド氏は、フランス国ブルジョワ王 ルイス フィリップ体制下の資本家と労働者の状況を忘れている。労働者の協力なしでは、フランス革命などありはしない。

さて、民主主義が空回りして、政権を変えても、事態がよくならない。つまり民主主義という成人一人一票の普通選挙の結果は意味をなさないほどのものになったと嘆く。

日本では多数派となった老人の不平が多くて政権を危うくすると言う懸念から、投票年令を18歳に下げて中和するという姑息な案が登場している。だが18歳の子供の犯罪やら、金銭上の責任を問うこととの関係で、悩む。親の保証なしに借金を踏み倒されたらことだからと。民主主義は現在、この程度に到達している。

この精神未革命段階で、民主主義が弱体化したその原因として、自由貿易という経済思想を指摘する。自由貿易が民主主義を阻害すると。この自由貿易は、民主主義から出立して、今、民主主義を阻害するというのである。ただ、とあるエリート達の精神革命によって、(自由貿易が民主主義を阻害しているという認識が進みつつあるのだから、)いずれは解決されるとおっしゃる。笑うでない。トッド氏はまじめなのだから。

自由貿易というのは、輸入・輸出の自由、為替レート設定の自由のことを含めて、ブルジョワジーの基本的自由のことである。英文なら、Free Trade (勝手な取引の自由)のことであって、資本の自由、商品取引の自由、労働力購入・使用の自由のことであるが、このあたりの認識が欠けているので、質問側の朝日新聞の記者は、資本主義そのものをトッド氏が述べていることに気付かない。だから、常識的一般論にしかなっていない。

従って、資本主義擁護の論を好みの逆説的展開で述べるのがトッド氏の役割なのである。その俗論が多少一般受けする部分となる。

民主主義ではなく、資本エリートの知性こそ、解決の鍵という、擁護論を展開している。資本にとっては、民主主義が怖くなってきたからである。

投稿: mizz | 2011年1月14日 (金) 22時33分

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