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2011年1月14日 (金)

アメリカ的「自由と民主主義」を超えて

 われわれがいまマジョリティーとして持っている、政治形態に関する常識は「自由と民主主義」であると言えるだろうが、これは実は第二次世界大戦後アメリカが世界の基軸経済国となり、西欧諸国や日本などがアメリカの経済と文化をモデルとして戦後の「国づくり」を行った結果であるといえるだろう。

 これに対抗して「東西冷戦」として緊張を保ってきた一党独裁体制の「社会主義圏」が官僚による労働者階級支配体制の内部矛盾が噴出して20世紀末に実質的に崩壊してしまった今日、アメリカ的「自由と民主主義」が世界標準として普遍的な地位を得たように見える。

 しかし、このアメリカ的「自由と民主主義」がいままたアリゾナ州での政治家を狙った銃乱射事件などで揺れている。一人一人が銃を持って武装し、自助努力によって成功を勝ち取るというアメリカの伝統的「自由と民主主義」のもう一つの顔である。リンカーンを始め多くの大統領や政治家が反対者に暗殺され、戦中戦後の一時期は、左翼政党へのおそるべき圧殺が行われ、その中で「自由と民主主義」が各国に布教された(そして「自由と民主主義」を護るためにと称して多くの戦争が起こされ、多くの若者たちが殺されていった)。

 われわれの生活の中から、だれでも立候補でき、選挙で選ばれれば政治運営を行う一員になることができ、間違って政治を行ったりルールに違反すれば、政治家を辞めなければならない、という政治のかたちは、確かにそこだけ見れば理にかなっているし、一党独裁制の旧社会主義国での「翼賛政治」に比べればはるかに優れていると言えるだろう。

 しかし、現実には、選挙に立候補できる人たちは極限られたエリートかお金持ちか「有名人」である。そして選挙で選出されるために、さまざまなパフォーマンスや人気取りが必須であり、政治家への条件はさらに絞られる。これらの当選要因を決定づけているのは、生活状態の余裕であり、高度の学歴であり、知名度の高さである。したがって、平等に見えるこの選挙制度の本質は、世の中の支配層がつねに圧倒的に有利な立場にいるいうことである。

 さらにこの民主主義制度を支える「自由」の本質は、このブログで4回に渡って述べてきたE.トッド氏への批判の中で指摘してきたように、元来「自由な商品所有者」の市場での取引の「自由」であり、彼らの支配の元でその商品を直接生産している「自由ではない労働者」たちのものではない。「自由な商品所有者」から見れば、労働者はその労働力を自由に売りに出せるではないか、と言うだろうが、現実にはそうでないことが、いまの社会での失業率を見ても明らかである。仕事に就きたくとも就職できない、生活を維持していきたくてもそれができない人たちが社会にあふれているではないか。この状況は「企業への減税」によっても改善されることはないだろう。なぜなら減税された分は、雇用に還元されることなく「激化する国際市場で勝ち残るため」合理化のための設備投資や、海外の新たな格安労働力の購入の費用として消えて行ってしまうからである。

 さらに「自由と民主主義の母国」アメリカでは人種による失業者の格差にも示されているように、資本家と労働者の階級対立が人種構成と無関係ではない。この辺のデータは以下のmizzさんのメルマガ「三次元図で」の労働力調査報告のページをぜひ見て頂きたい。

 http://archive.mag2.com/201101140830000000164231000.html

 しかし、いま、アメリカでも日本でも直接的生産者たちは、このブルジョア的「自由と民主主義」の幻影に邪魔されて、意図的に「衆愚化」され、政治家の勝手な行動に翻弄されながらも、その立場(労働者階級としての)の本当の意味での代表者を政治の場に送り出すことがきわめて困難な状態になっているのである。

 実は、こうした「自由と民主主義」より、いまでは遙かにおそろしい独裁体制の象徴になってしまった社会主義国の政治体制も当初は、このブルジョア的「自由と民主主義」の矛盾を超えようとしていたのである。例えば労働の現場に直接的生産者による労働者評議会(ソビエト)を設け、その代表が人民委員会に入り、政治運営を行うという形が目指されたのである。しかし、それを労働者自身が担うためにはあまりに彼らがまだ知識や能力が未熟であったため、インテリが多かった「前衛党」が労働者を指導するために特別な権利を与えられることになったのである。これはあくまで過渡的な措置であった。しかし、それがやがて反対派の粛清や追放によって恒久化され、党官僚が特権を保持し、労働者階級を支配するようになってしまったのである。

 いま「空回りする民主主義」やハイパー個人主義を廃棄して、ふたたび古い宗教的倫理や旧体制の倫理に戻ることが必要なのではなく、歴史的にそれを超えようとしてきた労働者階級の努力がどこで挫折し、何がその原因だったのかを深く捕らえ直した上で、再び直接的生産者であり社会システムを直接動かしている労働者階級の手に直接政治の実権を取り戻すための本道を探るべきなのではないだろうか?

 その意味ではいま、崩壊しつつあるアメリカ資本主義の遺産であるブルジョア民主主義を換骨奪胎して本当の民主主義に育て上げるための機会が来ているのかも知れない。

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