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2011年1月15日 (土)

朝日新聞「「成長」を相対化する」での議論を巡って(1)

 15日の朝日新聞朝刊の「耕論」で、二人の異なる立場の論者が先進諸国の「成長戦略」への批判を行っており、これが興味を引いたので、それについて私の意見を述べてみようと思う。

 一人はイギリス・サリー大学のティム・ジャクソン教授であり、もう一人は、日本政策投資銀行の藻谷浩介氏である。

 まず、ジャクソン教授の主張は次のようなものである。自分は英国政府の「持続可能な発展委員会」の委員長だが、経済成長を絶対視するいまの経済モデルは間違っていると思う。やがて新興国の人口増加を促進し、エネルギー消費が急増し、限界に達するだろうから。この成長モデルは、産業革命に始まったが、とりわけ成長を目指す傾向が強まったのはここ50~60年のことだ。1929年の大恐慌は過剰な生産に消費が追いつかなかったために起きたが、そこでケインズが提唱した、政府が需要を喚起しなければならないという考え方が今も継承されている。そして成長をがむしゃらに推し進める傾向をマネタリズムが加速させたことが今の状況を招いている。(この辺の分析は、私もそれほど違和感はないがその後が問題だ---著者注)

 ジャクソン教授はこれに続けて言う。いまの危機は経済上の3つの問題にとして把握出る。まず、信用取引の拡大が個人の借金を増やし続け、実体経済そのものが衰えること。次に、大量消費を煽ることは人々の精神を豊かにしないこと。3つめは自然環境の制約が気候変動のみならず資源の枯渇を招くことがほぼ確実であることだ。これに対処するには政府の役割が重要である。しかし、政府は人々の精神的豊かさや自然環境を守ろうとすることと同時に社会の安定のため経済成長を維持しようとするのでジレンマにぶつかっている。

 このジレンマから抜け出すために必要なことは、まず二酸化炭素排出量の削減に具体的数値目標を設けるなど自然環境の制約を尊重することであり、次に、経済システムを安定させるために、消費拡大を目指す投資から環境保全技術開発などへの投資に切り替えるべきである。そして雇用を維持するために労働時間を短縮することと労働生産性を落とすことを考えねばならない。それが成り立つためには、すでに経済的に成長した先進国では、サービス産業や生活の質を高める産業への投資が有効だ。第3に人々の能力を維持するために精神的な面での成長を目指すべく、過剰な消費を煽る広告などは規制すべきだ。先進国では従来のように成長モデルは否定されるべきだが途上国ではまだ経済成長が必要である。

 朝日新聞の記者の訳とまとめ方を信用するとして、ジャクソン教授の見解はざっとこのようなものである。このような見解は日本でも多くの同調者がいるだろう。しかしおそらく資本家側からは、労働生産性を落としたら国際競争で負けるし、労働時間を短縮しても利益をあげるには、生産性を向上しなければならない。こんな矛盾した意見は現実的でない。という反論が出るであろうことは目に見えている。

 ジャクソン教授は資本家ではないのでリアルな経済感覚が乏しい、と資本家的に言ってしまえばそれまでなのだが、しかし、それよりもずっと重大な誤りは、経済恐慌を単に生産過剰によるものとして考えていることである。それは生産物が商品という資本の一つの形態であるために、作られすぎた商品が過剰資本という形を取るために起きるのだ。生活に必要な商品が有り余るほど在庫しながら、それを市場に出せなくなり、一方で「労働力商品」の使用価値もなくなって、労働者は失業し、生活のために必要な資料を求める労働者階級の手に、自分たちが生産したにも拘わらず、それらのモノが渡らなくなる、という矛盾が起きるのである。ジャクソン教授はこの辺の理解が浅いので、問題を解決するために労働生産性を落とせとか労働時間を短縮しろなどと簡単に言うことができるのであろう。

 この矛盾を、労働者の雇用と賃金の相対的高騰を政策的に生み出すことで、消費主導型経済に変貌させ、恐慌を防ごうとしたのがケインズ的経済政策である。そこでは労働賃金を消費に振り向けさせることでそれを利潤として消費関連の資本に再び環流させ、過剰資本を過剰消費によって恐慌に転じることなく全体として資本を増加させ続けるシステムを確立させたのである。そして、いまやそのシステムが行き詰まっているのである。だから問題はジャクソン教授が考えるよりずっと複雑であり深刻である。

 ジャクソン教授の主張のように成長が行き詰まった先進国で環境保全産業やサービス産業や高付加価値産業に資本家が投資し、そこに新たな雇用を生み出したとしても、いまやグローバル化した流動過剰資本は、そこからくみ上げた利潤を、国内の労働者の生活のために還元するようなことは決してなく、一方で高成長を必要としている途上国へ投資することになるだろう。その結果、日本のような「先進国」では生活にもっとも必要な資料を国内で生産できず、途上国に頼る傾向が強まるだろうし、寄生的な産業や金融業が主要産業となりグローバル流動資本の分け前によって生きることになるだろう。したがって、結局、地球全体の資源の食いつぶしや自然環境悪化を止めることは出来ないと思う。

 むしろ「途上国」はセルジュ・ラトゥーシュが言うように、むしろ「先進国」が取った誤った発展の道ではなく、それとは別の方向に進むすべきなのだろうと思う。(ラトゥーシュについては以前このブログで取り上げたが、いま彼の著書を読んでいるので近々もう少し突っ込んだ批判ができるようになると思う)

 一言でいえば、先進国においても途上国においても、もはや全世界レベルで資本主義経済システムのモデルが行き詰まっているのである。いま経済成長と繁栄を誇っているように見える「途上国」もやがていまよりもっと巨大な壁にぶつかることは目に見えている。

 そういっては失礼かもしれないが、大学の経済学の専門家が、このような皮相な分析や指針しか与えられないこと自体、いかにいまの腐朽化した資本主義社会の中で本来の批判力が失われ、文化そのものが疲弊しているかが分かるというものである。

 次回では藻谷氏の見解について検討してみよう。

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